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役「まず、これは私の経験と知識で言う事なので、真実事実とは異なっている点があるかも知れない、という事をお断りしておきますが・・・。」
ハ「はい、いつも通りですね?(笑)」

役「そうです(笑)。まず、明治の国家神道、天皇神道で国民の尊敬・信仰の対象を天皇に集めた、集める必要があった訳です。そして、天理教は、弾圧を受ける事を避けるため、逮捕拘禁されないように、教会とか宗教である事を認めて貰う、承認を得るために、中山みきさんの教えを封印し、国家神道の教えを『仕方なく説かなければならなかった』というのが『応法の理』と言われるモノのストーリーです。でもそれなら、『中山みきさんの教えをキチンと守り伝えながら、今は情勢が悪いので表面上は国家神道の形式や教えを説く』という信仰の方法が、あるべき姿です。」
ハ「隠れキリシタンならぬ隠れ天理教ですか?」

役「なるほど(笑)。そして、そういう国家の圧力や方針が変わったら、すぐにも皆が喜んで『中山みきさんの教え』だけを説く、となるはずです。」
ハ「そうですね。」

役「ところが、現実はそうじゃない。旧態依然の組織体制と神への奉仕を説き続け、信者や末端から尽くし運びをさせ続けて来た。『天皇は神だから服従しなさい』という国家神道の天皇が人間になったのに、その代わりに『教祖様は神、真柱は教祖=神の子孫だから神』と入れ替えただけのような信仰を強いています。いや、信仰や教えだけではない。封建的な組織体系も、それを維持する血統主義や世襲制度も、江戸時代そのままの身分制度を残しています。」
ハ「応法の理が続いていたと?」

役「応法の理だというなら、内部では本当の教えが説かれていなければならない筈ですから、応法の理という言い訳をしながら、本当の教えを排除してきた、あるいは、最初から本当の教えなど説く気が無かった、と考える方が妥当です。現在でも、信者や教会によって教えがバラバラだったり解釈が異なったりするのは、本来、隠れながらでも伝えなければならない中山みきさんの本当の教えが伝わっていない、伝えていないからです。」
ハ「しかし、戦後に『復元』という動きがあったのでは?」

役「それ自体もおかしい事なんです。『復元』だとか言われなくとも、あちこちから声が上がらなければならない筈です。中山みきさんの教えを陰ながら伝えていたならば。それが全く上がらない。ほんの一部はあったのかもしれないけど、封じ込められたリ追放されたり、全く知られていません。この事から考えても、本部が何をしてきたか、考えていたか、容易に想像できます。」
ハ「ううむ・・・確かに。」


役「いや、今回、ちょっと古い資料が手に入ったので、昔の事を想像してしまいました。ハルアキさんもお付き合いくださり、ありがとうございます。」
ハ「いえいえ、こちらこそ。」

役「さて、お土産の最後はこれなんですが、どうぞ。」
ハ「なんだ。出来れば最初に出して欲しかったですよ(笑)」
役「これは失礼。大好物なのは知っていますから、ちょっと焦らしてみました(笑)。」
ハ「相変わらず人が悪い(笑)。」
役「類は友を呼ぶ、とも言いますよ(笑)。」


こうして私は、やっと八つ橋を口にする事が出来た。


(今回の資料を提供してくれたI氏に心より感謝申し上げます。)


ハ「今度は何ですか?」
役「ご覧の通り、天理教教典です。」

ハ「何か、箱に入っているようですけど?」
役「ええ、箱に入っています。表書きを確認して、箱を開けて見てください。」

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ハ「表書き?」

よく見ると「梅鉢紋」と「天理教教典」の文字の下に「十章壱組及三條の教憲」と記載されている。

それにしても古めかしい。

ハ「随分古いモノのようですが、何時の時代のモノですか?」
役「正確な年代は分かりません。でも、戦前である事は間違いありません。その『三條の教憲』が物語っています。中身は、明治教典と言われているモノでしょう。」
ハ「三條の教憲?明治教典?」

箱を開けて目に入ったのは「三條の教憲」である。

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第一條
敬神愛国の旨を体すべき事
第二條
天理人道を明らかにすべき事
第三條
皇上を奉載し朝旨を遵守せしむべき事

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ハ「役員さん、この『三條の教憲』というのは、どういったモノなのでしょう?」
役「モノの本によれば、明治政府が国家神道、天皇神道を国民に教え込む内容です。」

ハ「確か、天理教のスタートは『六等教会神道天理教』でしたね?教祖様が亡くなられた翌年だと聞いていますが。」
役「そうです。一派独立するまでは天皇神道・国家神道の教会ですから、その方針を説かなければならない。それが、この『三條の教憲』という訳です。」

ハ「なるほど。いわゆる『応法の理』というやつですね。第一条、神を敬い、国を愛しなさい。第二条、天然自然の理と人の道を明らかにしなさい。第三条、天皇を崇め奉り、朝廷の命令を守りなさい、ですか。第一条、第二条はともかく、第三条は、一列兄弟を説いた教祖様の教えとは真逆のモノですね。」
役「ハルアキさんも随分と歴史や中山みきさんの教えに関して理解が深くなりましたねぇ。」

ハ「いや、それ程でも。役員さんのお話をそのままですから、充分ではないと思いますが。」
役「なるほど(笑)。ここは出来れば、三条全てが中山みきさんの教えとは真逆のモノだと言って欲しいのですが。」

ハ「3条全てですか?」
役「はい。明治政府が推進したのは国家神道、天皇神道ですから、1条の『敬神』は現人神である天皇であり、紀記二典の神話に出てくる天皇家の祖先の事を敬いなさい、と言っているのです。同様に『愛国』も、その天皇家が統治する日本を、その民たる国民は愛しなさい、という事になりますね。」

ハ「いや、なるほど。今の憲法で保障されている『信教の自由』は無かったわけですか。」
役「そうです。同様に2条の『天理人道』というのは、大自然、天然自然の理ではなく、天が造った長幼の序列や身分や立場を維持し守るのが『人の道』であると説いています。これは、明治の貴族制度や明治民法の家父長制度など、江戸時代からの封建体制そのままを法律化したした所からも明らかですね。明治維新になって、江戸時代までの士農工商の身分制度は廃止されましたけど、封建的な考えや制度が全てなくなった訳ではない。上に立つ者や支配する側からすれば、そういう制度や仕組みが有った方が都合が良いのですから、呼び方や形を変えて残しておいたという事でしょう。そういう封建的な制度や仕組みの根拠と言うか、教育的な役割を果たしたのが、この『三條の教憲』とか『教育勅語』だったと言えます。」

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(十章全てを掲載する必要もないと思うので、教典部分はここまで)


ハ「なるほど、そうでしたか。」
役「で、最初の『天理教教祖御一代記』に戻りますが、中山みきさんは『天皇は現人神であり、天皇の祖先は神様である』などとは説いていません。それなのに、この北畠男爵の解説文では、中山みきさんが一生懸命、国家神道、神道教会の教えを説き広めた、という文章になっているのですよ。しかも、この箱の裏面を見てください。」

ハ「箱の裏面?」
教典の納まっている箱の裏を見ると『内務省認可済』の文字がある。

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ハ「内務省認可済み、ですか?」

役「そう、当時の宗教関係、教会関係の管轄がどのようになっていたかまでは正確ではないですけど、この明治教典が印刷発行された時には、『内務省』がこの内容と中身を審査していたのでしょう。完全に、国家神道、天皇神道の教えだけを伝える教会であり、教団だったという訳です。」
ハ「しかし、それはいわゆる『応法の理』というやつで、教典だの祭式儀式だのは国家神道や天皇神道の流れに従わなければならなかったのだと・・・。」


役「それに、これは現代に繋がる『大きな誤り』に通じる部分でもあります。」
ハ「大きな誤り?」


(続く、はずである。)

ハ「前に書かれている部分というと、この□で囲まれた『解説』のようなモノの事ですか?」

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役「はい。写真では読めないかもしれませんし、旧かな使いなどで分かり難いので、『勝手ながら』私が現代文に直したいと思います(笑)。」

(古文に詳しい方のご指摘、修正をお待ちしています)

~~~~

天理教会の教祖は、奈良県山邊郡三昧田村前川半七正信氏の長女として、名は美伎子と名付けられ、寛政十年四月に誕生した。文化七年九月、同郡庄屋敷村の中山善兵衛氏に嫁ぐ。生まれながらに美妙が備わり、幼少の時より慈悲慈愛に富み、遂に神勅が下り、天理教の真理(を)社会に宣伝するが、其の間、剣苦艱難(剣の苦しみや辛い出来事?)を積みながら、苦労を厭わず乗り越えて来た事が実現したと言うべきだろう。(天理)教会が盛んになり、本土内外(当時は台湾と朝鮮半島も「日本領」であった)に数百万の信徒を有するまでになったのは、全て教祖の布教と宣伝によってである。ここに天理教奉賛会を設立して、教祖の一生のうち一部を伝記として発行し、広く社会に教祖の『高徳』を伝えようと思う。

    男爵 北畠具雄

~~~~~

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ハ「役員さんが興味をそそられる部分というと、どこでしょう?」
役「まず一つは、この『解説文』を書いたのが、『男爵 北畠具雄』だという事です。」

ハ「男爵ですか。戦前は貴族制度が残ってましたからね。」
役「そうですね。北畠家というと、歴史に興味をお持ちの方ならご存知かと思いますが、戦国時代の北畠具教(とものり)、具房(ともふさ)親子が有名でしょう。」

ハ「ええと、剣術に優れた剣豪大名として知られ、織田信長と熾烈な戦いをした北畠具教ですか?」
役「そうです。織田信長に敗れた北畠家は、信長の次男信雄を養子に迎えて江戸時代に入るのですが、その最初の領地が『大和の国』だったのですよ。」

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ハ「え?そうすると、その縁というか自分の領地内の宗教の事なので、男爵自らが筆を執ったということですか?」
役「私は歴史研究家でも学者でもないので正確な所は分かりません。北畠家も、その後別の養子を迎えたり関東に転封(領地変え)したりしていますが、明治になり貴族制度が採用されると共に『男爵』に任じられたようです。明治時代の日本の貴族制度は、広い領地を所有したり支配したりする訳ではなかったようですが、特権的身分として、こういう商売だの宗教だのについては『何らかの権利』を与えられていたのかも知れません。」

ハ「なるほど、なかなか興味深いですね。」
役「まぁ、実際の所は、学者や歴史研究家の研究や調査で調べてください。私が言った事は全て想像です(笑)。」
ハ「なぁんだ(笑)。で、他にはどのような事が?」

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役「はい。二つ目は、全体として、中山みきさんが艱難辛苦を乗り越えて一生懸命神様の教えを宣伝して天理教を信じる人が数百万人も増えた、という印象を持たせるような文章になっている事です。」
ハ「立教以来、教祖様が教えを説き続け、多くの人に伝わったのは事実ですよね?教祖亡きあと、日本全国に600万人とも800万人とも言われますが、教祖様の教えを守る人が伝えて行った結果でしょうから、間違いとは言えないと思いますが?」

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役「そうですね。たしかに、中山みきさんが教えを伝え、その教えを受けたお弟子さん達が全国に散らばり、多くの人を信者にしたのは間違いないでしょう。問題なのは、その中身なんですよ。」
ハ「中身、というと?」

役「勿論、中山みきさんが伝えたかった『教え』とは何なのかという、中身です。」
ハ「それは勿論、教祖様が残した『みかぐらうた』であり『おふでさき』であり『つとめ』ですよね?」

役「そうです。でも、それらの物はこの時代、まだ印刷物になっていなかった。印刷物になっていたのは、これなんです。」


そう言うと、役員さんはまた脇に置いた鞄から細長い箱のようなモノを取り出した。


役「もう一つのお土産です。どうぞ、ご覧になってください。」

(続く、と思う。)

久しぶりに役員さんに呼び出された。

役員さんが、先日関西方面に行き、そのお土産があるらしい。

関西といえば、当然、『天理教の本部』もあり、役員さんの繋がりなら『櫟本分署跡保存会』もある。他にも独立して中山みきの教義を探求している教会や活動をしている教会もあるのだから、色々と情報を集めて来たのかもしれない。例え『情報』でなくても、京都の『八つ橋』でも買って来てくれたと期待したい(笑)。


役「ハルアキさん、お久しぶりですね。」
ハ「ご無沙汰してます。」
役「毎月とは言いませんが、たまには教会に顔を出して下さいよ。ハルアキさんには色々とお話したいこともあるのですから。」

ハ「すみません。私用が重なってしまって。月次祭は毎月相変わらずですか?」
役「えぇ、毎月第一土曜日に変更して行っています。『神様のお話』と『簡略したかんろだいつとめ』はそのままですが、信者さんの健康と体力維持のために時間をとることにしました。」

ハ「なるほど。失礼ながら高齢な方が多いですからねぇ。」
役「私の両親もそうですし、他の方も高齢ですから、皆さんの健康維持を考えてます。私自身、色々調べたり、体験したりして、それを実際に教会で信者さんにやって頂こうと思う訳です。」

ハ「なるほど。最近は全国的に『健康クラブ』とか『認知症予防サークル』とか、色々ありますよね。」
役「えぇ、そうです。その中から教会の信者さんに向いてる、簡単で効果のありそうなことを選んで体験して頂こうと思ってます。まだ、内容が固まってないので試行錯誤の段階ですが。」

ハ「そうですか。ある程度の形が出来たら教えて下さい。それはそうと、今日は関西に行ったお土産があるそうで?」
役「あぁ、そうでした。これです。」


そういって役員さんが取り出した物は、1本の巻物であった。

ハ「巻物?何ですか、これは?」
役「表のタイトルを見てください。」

巻物タイトル

ハ「『天理教祖御一代鑑』ですか?教祖の伝記のようなモノでしょうか?」
役「そうですね。珍しいでしょう?」

ハ「教組伝だとしても、巻物とはちょっと時代がかった感じですが、いつの時代のモノですか?」
役「まぁ、まずは中を見てください。」

言われて、紐を解き、巻物を目の前に広げて延ばしてみた。

まずは、本部の建物、教組殿などの建物が、絵巻物風に描かれている。
いや、絵巻物風ではなく、絵巻物なのだろう。

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続いては、祭典の様子、月次祭の様子だろうか?

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そして、中山みきの生涯を描いた挿絵と解説文が書かれている。

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誕生から嫁入り、乞食の子供に自ら乳をふくませた逸話や、泥棒に米を持たせて帰してやった逸話、鏡が池に身を投げようとするシーンなど、『稿本教祖伝』でもおなじみの逸話だ。

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ハ「最後は豊田山舎に埋葬する参列の様子ですか。なるほど、正しく教祖の一生を描いた絵巻物ですね。」
役「まぁ、そういう逸話も事実かどうか、怪しいモノがありますけど、広く信じられている、説かれている中山みきさんの一生を描いたモノですから、現在の『稿本 教祖伝』の元になった逸話を集めた絵巻物ですね。」

ハ「なるほど。最後に発行年と発行者が記載されてますね。発行年は大正14年12月25日ですか。大正の終わりギリギリですね。発行者は『上田秀夫』、発行所は『天理教奉賛会』となっていますね。この上田秀夫という人物と、天理教奉賛会というのはどういうモノなのでしょう?」
役「いや、分かりません。私の力では調べられませんでした。これだけのモノを発行するのですから、本部と強い繋がりがある人物や団体だと思いますが、私には分かりません。」

ハ「それは残念。」
役「でも、大正14年。中山みきさんが亡くなって40年弱の段階で、今でも伝わる逸話を描いた巻物が発行されていたというのは、意味が有る事だと思います。」

ハ「なるほど。」
役「それに、私が興味を惹かれるのは、発行年や発行者の前に書かれている部分なんですよ。」
ハ「前に書かれている部分?」

(続く、かもしれない。)

四、このおてびきの第一歩をなすものがにをいがけである。まだ真にこの道の信仰を知らない人に対して、信仰への誘いであり、導きである。
五、にをいがけには、何にもまして先ず、自分がにをいがけすることによって、必ず先方が幸になるという信念が大切である。信念なくては何事も出来ない。特ににをいがけの場合はそうである。


役「ここでやっと『にをいがけ』の意味と重要性が出てきますね。『信仰への誘い、導き』であると。」

ハ「でも、最初にお話したように、野に咲く花がその匂いで虫を呼び寄せるように、無理な勧誘とか話を聞かせる必要は無い訳ですよね?その『にをいがけ』というのが具体的にどういう事なのか、全く分からないのですが説明して頂けますか?」
役「具体的にですか?言葉で言ってしまえば『何もせずに本人が喜びを感じていればイイ』という事になりますかね。野に咲く花が喜んでいる状態、その生命、精一杯喜びを表現しながら生きている状態が、花が咲く事だと考えれば分かるでしょうか。」

ハ「すみません。何もしないでどうして伝わるのでしょうか?」
役「例えば、ハルアキさんが先日こちらに来た時、最初から妙にニコニコしていて嬉しそうでしたよね?」

ハ「ええ、こちらに来る前日に競馬で勝ったものですから・・。」
役「でしたね。で、私が『妙にうれしそうですけど、何か良い事でもあったのですか?』と訊いたら『競馬で勝った』と教えてくれたわけです。で、そのお裾分けにお酒をご馳走になって有難うございました(笑)。」

ハ「いや、まぁ、その程度は別に。」
役「『にをいがけ』とはそういう事です(笑)。」

ハ「え?」
役「つまり、ハルアキさんが競馬で勝って懐が温かくて、その嬉しさや喜びが表情や態度に出てくる訳です。その匂いを私が感じて『何か良い事があったのですか?』と興味を持ったわけですから。」

ハ「そりゃ、人間ですから、嬉しい事や楽しい事があれば表情や態度に出ますし、行動にも表れるでしょうが、それが天理教で言う『にをいがけ』と同じだという事ですか?」
役「本来は同じなんです。月日親神のご守護を理解し、その教えを心に修めて日々の生活を改善改革し、教えに沿った生活をすると、自然に喜びが湧いて来る、笑顔でいられるようになる。その様子を周囲の人が嗅ぎ取って興味を持ち、訊きに来たり、話しを引き出そうとするようになるんです。これが本当の『にをいがけ』だと思います。」

ハ「本来の『にをいがけ』ですか。そうすると、本人が喜びも嬉しさも感じていないのに、単に勧誘のためのお話などは『にをいがけ』ではないという事になりますが、天理教内で行われている、話されている『にをいがけ』はズレていますね?」
役「私の両親なども、大教会の会長会議で毎月のように『にをいがけ・おたすけをしろ!』と発破を掛けられて来る、という事が常でした。でも具体的に何をしたらいいか分からない、戸別訪問など出来る環境でもないし、身情事情の人を探し回るような事も出来ない。一か月間何もできないままで、次の月の会長会議でまた発破を掛けられる、なんて信仰生活をしていたようです。これなどは、『にをいがけ・お助けしろ!』という大教会長も間違っていれば、両親も勘違いしているという典型的なパターンでしょうね。」

ハ「それが末端教会の会長さんの様子だとすると、何か、憐れみを感じますね。」
役「えぇ、その頃の両親の様子は、見ているこっちが苦しくなるような信仰をしていましたよ。」

ハ「でも、天理教の信仰をしていて、教えを深く勉強するなり理解を深めて行ったとしても、本当に『喜びや嬉しさや楽しさ』を感じられるものでしょうか?」
役「勉強や理解を深めただけでは難しいですね。実際に、それを形にする、行動に移す、家族や教会の中で実践行動してこそ、身体は嬉しさや喜びの『にをい』を出してくれるのです。ハルアキさんが競馬で勝ったことを考えただけで、周囲の人から見て笑顔や態度に嬉しさが現れて来ると思いますか?」

ハ「いや、思い出し笑いならともかく、無理ですね。」
役「でしょう?実際に勝たないと、『にをい』にはなり難いのですよ(笑)。」

ハ「しかし、役員さんのご両親がそうだったように、実際に教会を運営していて、信仰をしていて、喜びだの楽しさだのを感じられるものなのでしょうか?」
役「感じられないのは、信仰の仕方ややり方、現実の状態が間違っているからです。それを改善改革する事が『教え』の主眼です。理想と現実は違う、なんて言い訳は、月日親神の立場では関係ないのです。『人間が陽気に暮らす様子を見たい』というのが神の願いなのですから、それを実現するために、喜べない、楽しめない現実を変える為に日々行動する事が必要なのです。諸井慶徳先生の言葉にも『まず先方が幸せになるという信念』とあります。それには、自分が幸せにならなければ、その『にをい』なんて出ないのですから。これが『先達の心得』です。」

六、そして自分が誠真実ならば、誰にでも好かれる筈であるという信念を持っていなければならない。きらわれるのは欲の心である。


役「さすがに諸井慶徳先生のお言葉は重みがあります。真真実ならば誰からも好かれる訳です。神様の教えを心に修め、自らを律して身の回りから、自分の関わる家族や身近な人から、神の望む関係や状態を創っていく、改善改革していく訳です。その様子を見て『変わった事をやってるな』と思う人はいても、嫌いになる人はいない、という信念が大事です。そして、その様子を見れば興味を持ち、自分も真似をしようと思う人が現れてくる、こうして『にをいがけ』が出来る訳です。」

ハ「現在、天理教で言われているような、単独布教や戸別訪問は『にをいがけ』ではない、という事でしょうか?」
役「勿論違います。諸井慶徳先生もこのように述べられているのですから。」

ハ「では、最後の『きらわれるのは欲の心である』というのはどういう事でしょう?戸別訪問などの『にをいがけ』をして断られたり忌み嫌われる事を指しているのでは?」
役「そういう、自分で教えを理解せずに、信者を獲得しようという『欲の心』で布教をするから『きらわれる』のです。それを教えてくれているのですね。あとは、私は上級や大教会などは大嫌いですけど、それも上級や大教会が『欲の心の塊だから』だと諸井慶徳先生は教えてくれました(笑)。道の先達の心得として、この事は肝に銘じてお行かなければならない事です。嫌われるのは『欲の心』であると(笑)。」

ハ「なるほど。嫌いになる事が悪いのではなく、嫌われる方が悪い、と。」
役「いえいえ、『悪い』等とは言っていません。上級や大教会が『欲の心の塊だ』と諸井慶徳先生が教えてくれただけです(笑)。」

ハ「そうですか(笑)。」


役「という、『お道の結構さ』を十分理解した上で、先達としては行動を起こす、形に表すという事が重要ですから、次の段階に進むことになります。頭の中だけで考えていても物事は進みませんから、具体的な日常の行動という事になります。」

ハ「それが次の章の『にをいがけ』ですか?」
役「そういう事になります。ただ、勘違いしないでいただきたいのは、本来『にをいがけ』とは、他人に対して何か話をするとか働きかけるというものではなく、その人本人が思案を巡らし日常生活やあらゆる事に『教えを実践して行く』事です。野に咲く花が蜂や蝶々を呼び寄せたり見せて歩いたりしないように、花は花としてそこに咲いているだけ、その花の香りや佇まいで『花が咲きましたよ』と周囲に知らせるだけです。周囲が気が付かないなら、それはそれでも良いのです。」

ハ「なるほど。ご尤もです。でも、折角の素晴らしい月日親神の教えですから、他人に教えたり話したくなるのは人として当然ではありませんか?」
役「それも確かですね。本当に素晴らしいと思える事、そしてその教えを実践したらこんなに良い事があったという体験談なら、ちょっとお話するくらいはイイでしょう。でも、押し付けたり無理に誘う必要はありません。あくまでも『自分で実践する事』が大事ですから。」


にをいがけに就いて

一、お道のおてびきというのは、単ににをいがけだけではなく、匂いをかけて導いて行き、おたすけを頂かせ、成人させて行き、更にその人自らを、他人に対してこのようにおてびき出来る導き手にならせて行く、このような全課程をいう。これがお道の布教活動である。


ハ「『にをいがけ』かと思ったら、『お道のおてびきというのは』と説明をしていますね。そして『布教活動』と締めくくってますが、これはどう解釈したらよろしいのでしょうか?」
役「布教活動というのは解釈が難しいですね。先達なら勘違いするような事はないでしょうが、それほど信仰に深くない人は勧誘や布教活動をしなければいけないのか、と勘違いされるかもしれません。

でも、教祖様は教えの事を『宗教』だとか『神を拝め』等とは言っていないのですから、大勢集めてお祭りをしたり催し物をしたりする必要は無いのです。

でも、この教えを実践する、形にする上では、月日親神ののぞみである『人間が陽気に暮らす様』『誰も苦しむ者の居ない世の中』『一列兄弟でろくぢの世界建設』の為には大勢いた方が実現の可能性が高まります。ですから、先ほど言った『にをいがけ』も出来るなら積極的な方が良いのは確かです。

個人が実際に出来る事は、その人自身の身の回り、せいぜい家庭の中だけです。でも、二人三人と集まれば、その人達の間で『誰も苦しむ者の居ない関係』で『陽気で楽しく助け合いのグループ』が出来る訳です。その輪を広げていくのは大事な事ですね。」

ハ「そうすると、まずは自分が教えを理解して自分自身の価値観や考え方を改め、生活の中で実践して行く。そして、それを周囲の人に関心を持って貰えるように形にして、興味を持った人に話をしていく、誘っていく事が『にをいがけ』だという事でしょうか?」
役「難しい所ですが、少なくとも『自分が実践できないのに人を勧誘する』のは間違いでしょう。具体的に何をどう変えたら、何をどうしたら実践した事になるのか、という重要な課題もありますが、銘々の解釈や考え方もあるでしょう。先達と言われる人達なら勘違いするような事はないでしょうが、少なくとも教え全体を十分理解し、把握し、世の中の事、社会の事、身の回りの事が『教えに沿っているかどうか?』を判断できるようにならなければ始まりません。そして、教えに沿っていないなら『何が原因なのだろうか?』『どうしたら良いのだろうか?』と考える事です。常に、判断の基準や根拠を『神様』に置くことが大事です。」

ハ「それが出来てこその、導き手、という訳ですか。」


二、凡そおてびきは、親神のおたすけを、 一波が万波をよぶ如く、次々と人々に頂かせて行くものである。それは親神のお働きの取り次ぎである。故によふぼくたるものは、単に自分の力ですることなのではないから、親神に働いて頂くという自信を持つことが大切である。
三、然も矢張り、よふぼくの誠真実を土台として親神が働かれるのであるから、自分自身としては、一つの理立てを以てつとめさせて頂くのが肝要である。そしてこのような中にこそ、真にこの道の信仰の喜びと楽しさが味わわれる。おてびきをしない人は、どんなに尽し運んでも、又永年信仰しても、いんねんをきりかえて、ほんとにたすけていただくことはむつかしい。


役「という事が理解出来れば、この二、三で使われている『親神のおたすけ』とか「親神の働き」という言葉も充分に納得できます。
これを理解しないでこの二、三を読むと『親神が働いて助けてくれるのだから自分は何もしなくていい。ただ連れて来ておさづけを頂かせればいいのだ。』というような頓珍漢な解釈になってしまいます。
そうではなく、自分の価値観や考え方を『教えに沿う』ようにして次の人を導いていく。次の人が納得してくれないとしたら、原因は誘った人の『心の中の親神』が不十分だったかもしれないし、誘われた人の心の中に『親神の入る余地が無かった』のかもしれない。
それでその人が導かれるかどうか、助かるかどうかは『親神の働き次第』なのです。」

ハ「子供の勉強でも仕事などでも、他人に教えられるようになって初めて理解したと言える、という話がありますから、それと同じような意味なのでしょうか?」
役「その通りだと思います。教える側は教えられる側より、深い知識と理解が無ければ教えられないですからね。
知識も理解もなく『俺は先生だから偉いんだ』などと威張っている人は誰からも相手にされません。
頓珍漢な話しや解釈を押し付けるのも、生徒の方がうんざりしてしまうでしょう。
ましてや、間違った教えを押し付けられたのでは、教えられた方だけでなく、教えた方も不幸になりかねません。諸井慶徳先生も『おてびきをしない人は、本当に助けて頂く事は難しい。』と結んでいます。『おてびき』は自分の理解や知識、実践行動力の不足や問題点を知る上でもとても大切な事なのです。
勿論、先達なら当たり前に出来る事でしょうし、私が言うまでも無い事ですが。」

ハ「導く人を鏡にして自らを省みる訳ですか。奥が深いですね。」
役「また、『どんなに尽し運んでも、又永年信仰しても、いんねんをきりかえて、ほんとにたすけていただくことはむつかしい』という諸井慶徳先生の言葉は、『尽くし運びは意味が無い』という風に受け取れますね。
長年尽くし運びをしても助けて頂けないなら、最初からする必要はありません。そんな事なら、最初から『おてびき』と『にをいがけ』を考えて知識を増やし、理解を深め、実践行動して次の人に伝える事が大事だと言えるでしょう。
諸井慶徳先生がこう仰っているのですから、上級や大教会への『尽くし運び』などは止めてしまいましょう(笑)。
それが『先達の心得』ですから(笑)。」

ハ「なるほど(笑)。」

三三、病気というものも、固定的なものがあるのではなく、そのよって起る因は心にあるのである。
三四、災難や悩みも、招かねばならぬ原因は矢張り心にある。
三五、人間には、魂の持ち分として、自分の気のつかないこの世の生命以前の種蒔きのつながりがあること、又、この世の種蒔きも、この世の後につながって行くことを心に置かねばならない。
三六、然しどのような人間も、決して本来罪やけがれがあるのでなく、生まれかわり出かわりする中に、心の通り違いとしてほこりのように積み重ねたものがあるだけである。
三七、結局、自らの心の種蒔きを素直に刈り取り、進んでよき種蒔きへと心を改める歩みをすることによって、自ずと悩みから喜びへの転換が得られるのである。このことの叶えられる道として与えられたのが、このお道である。


役「さて、『病は気から』『難儀するのも心から』も、ここまで徹底して理解しなければ、道の先達とは言えません。おそらく、近年多発している大地震に因る被害でもその原因は『心にある』という解釈をするべきでしょう。」
ハ「自然災害や地震に因る被害まで『心にある』って、無理がありませんか?阪神淡路や東日本大震災でも大勢の方が亡くなり、被災しましたが、全て本人達の『心』が招いた結果だというのは暴論です。」

役「でも、天理教団の中ではそういう解釈をしている先達がいるのです。私自身何度も聞いています。勿論、外部に向けてはそんな話は出来ませんけど、内部では残っているようです。何といっても、道の先達の心得なのですから。」
ハ「震災で家族を失った方、避難所生活をされている方にそんな事を言ったら、大変な事になりますよ。」

役「勿論、直接は言えません。ただ、根拠のない話ではないと説明しています。ちょっと分かり難いのですが『魂の持分~』という説明ですね。」
ハ「ちょっと難しい内容のように思われるのですが、役員さんの解釈はどうでしょうか?」

役「まず、『この世の生命以前の種蒔』と『この世の種蒔も、この世の後に繋がっていく』という事を考えた場合、仏教的な輪廻転生の因果応報を説明していると考えられます。一言で言えば『前世の行いが今世に、今世の行いが来世に影響する』という事です。」
ハ「たしか、役員さんは、そういう輪廻転生・因果応報の教えや考えを否定していましたよね?」

役「はい。人間の魂が不滅で地上と天界を行ったり来たりするとか、証明できない事です。しかも、前世での行いが今世の待遇や環境、幸不幸を決めるなどと言われたのでは、人間救いようが無いではありませんか。仮に『前世』があったとしても、その時の記憶も何も無い訳ですから、反省しようが無いし改善も改革も出来ません。言っている本人だって記憶にないはずなのに、何をもっともらしい事を言っているのだと。この、人の身分や待遇は前世での行いによって決まっている、という考え方は、時の支配者やお金持ちからすれば大変都合の良い教えになる訳です。自分達の身分や財産を保証し、奴隷や庶民の反抗心や反乱を防ぐ事が出来るのですから。良い身分になりたかったら、今の身分で真面目に一生懸命働き、善人になりなさいという教義になる訳です。元々、身分も貧富の差も人間が造ったモノなのですけど、それをすり替えていますから。ということで、否定させて頂いています。」
ハ「なるほど。」

役「しかもご丁寧に『魂の持分として』などという言葉まで付いています。おふでさきでは『たかやまにくらしているも たにぞこにくらしているも おなじ魂』と言っているのに、『魂の持分』等といわれたら『人間銘々の分相応を弁えなさい』というイメージが付いてしまいますね。こういう言葉の使い方や誘導の仕方は、流石に諸井慶徳先生という所でしょう。道の先達としては、こういう点を学び見習わなければいけません。」
ハ「そんなところを学んでも・・・。」


三八、親神にしっかりとお縋りして、そのお働きに委ねて、心安らかに、先案じをすることなく、日々現われて来る事柄に不足、不満を持つことをやめ、親神にもたれて楽しみ喜ぶ心で通ることである。
三九、進んで、その楽しみと喜びの思いを、身を以ての行為に現わして捧げて行くことである。
四〇、そして他人をたすけること、即ち他人によりよき生命を得させるようにして行くことである。
四一、このような中に、何時しか己れ自らも必ずすくわれて行くのである。この消息はまことに不思議な事実として味わわれずにはいない。
四二、 一体、この人間の一生の寿命も、本来ならば、もっと生かし頂けるものであって、百十五才が定命なのである。
四三、然も、人間の死は総ての終りではなく、魂は生き通りで、古い今迄の着物をぬぎかえるように、出直すだけなのである。
四四、このような数々の事実は、それぞれ今迄に知られない画期的の数えであり、人はただ、今更の如く心打たれ、又これによって更生した歩みに進むことが出来る。
四五、このお道に入りなさい。この信仰を身におつけなさい。必ずや、他では得られない素晴らしい結構が得られるのである。


ハ「最後に本章のまとめと言いますか、お道への信仰の在り方が掛かれているようですね?」
役「親神の事を『月日』というのは、そのご守護や働きが太陽の光、月の潤いが世界中にあまねく届くように、この地上、生き物全てに降り注いでいます。人類全てがその守護の中で生かされているのですから、縋ろうが信じなかろうが関係ないのですが、人間、感謝するという心を忘れてはいけません。その大切さを諸井慶徳先生は説いています。感謝を忘れずに生きてこそ、人は互いに仲良く、楽しく、銘々の命を精一杯に生きる事が出来ます。親神のご守護、働きは途切れる事が無いのですから、先案じや不安等感じる必要が無いのです。」

ハ「それは、大自然や地球環境に対する感謝という事でしょうか?」
役「勿論、それが月日親神のご守護であり、働きですから。だから、その後に来る『日々現れてくる事柄に不足、不満を持つ事を止め』というのも、月日親神のご守護や働きに関して不足や不満を持ってはいけない、という事になります。もし、現れてくる事柄が月日親神のご守護や働きでない事、例えば、人間思案や誰かの欲得で起きた事柄なら、それは遠慮なく不足や不満を持って良いのです。」

ハ「あれ?そうなのですか?天理教の中では世の中全ての事に『たんのうしなさい』と教えられているように感じますが。」
役「それは、勘違い、読み間違いですね。諸井慶徳先生も世の中の理不尽や社会問題、犯罪や差別など、そういった事に不足を持つな、不満を言うなとは言っていないでしょう。逆に言えば、そういう諸問題や犯罪、戦争、虐めや差別などには、堂々と立ち向かい、そういう問題を解決していく、皆で一緒に考え、無くしていく事です。それが『人だすけ』であり、そういう問題やトラブルのない世の中、誰も苦しみ悩む人の居ない世の中を実現、建設する事で、『自分も助かる』という訳です。」

ハ「なるほど、ご尤もですが、なにか、書かれている文章とズレているように思えるのですが。」
役「そんな事は有りません。そう感じるとしたら、おそらく『個人救済』と『社会救済』の視点の違いかもしれません。日本に入って来た仏教は、個人の魂や命を救済する目的というか、個人が悟りを啓く事を主眼とする教えが入って来たという歴史があります。また、西洋の一神教の神々も、神と個人の契約関係で『幸福に導く』という根底の考え方が多いです。中山みきさんの教えは、そんな『個人救済ではない』というのは、みかぐらうたやおふでさきを読めば一目瞭然です。もっとも、これを勘違いした教会関係者なども居るのは間違いない所で、そういう人達は「自分が助かるために人助けしろ、お尽くし、お運びしろ。」という方向に行ってしまうのですね。」

ハ「確かに、多くの人の下地に『個人救済』があるので、どのようなお話や教えを聞いても、そういう方向に解釈してしまう可能性がある訳ですね。」
役「そうです。諸井慶徳先生もこう書いているように、人間思案や誰かの欲得によって歪められたモノや仕組みで苦しむ人が居るのなら、不足や不満を言って、どんどん解決しなければなりません。その行動を起こす事が『人だすけ』なのです。家庭、職場、社会、国家や世界のあり方、一部の間違った天理教組織だって、じっくり考え解決しなければならないものなのですよ。それが『道の先達の心得』ですから。」

一八、そしてこの道は、又とない「尊いいんねんの聖地一ぢば」を芯として、そのたすけのお働きを広められる。
一九、それは、人間の最初の生命をお創め下されたいんねんの場所であるので、この創めだしのいんねんによって、生み直しをここから与えられることになったのである。
二〇、この道にあっては、親神は、教祖のお口を通してのお言葉、お筆を介してのお仕込み、更にひながたの御みちすがら、尚又、不思議なお働きの数々、というように、行き届いた幾重のお導きを以て、私達に十分の得心の行くようにお教え下さっている。



ハ「この『尊いいんねん』『創めだしのいんねん』という言葉はいかかでしょうか?どのように解釈したらよろしいでしょう?科学的にも本部の『ぢば』が人類発祥の場所などというのは考えにくい所ですが。」
役「そうですね。まぁ宗教なので勝手にそう信じるのは自由ですけど、世間一般には通用しなくなります。中世キリスト教世界で『地球は平らで宇宙がその周りを回っている』という天動説が信じ込まされていた歴史がありますが、この為に『科学の発展が数百年遅れた』と言われることもあります。」

ハ「科学の発展にすら影響してしまうのですね。では、諸井慶徳の言う『人間の最初の命をお創めくだされた』はどのように解釈すればいいのでしょう?」
役「科学的にも考古学的にも『ありえない』のですから、やはり神話の世界としておくべきでしょう。ただ、神話の中に含まれている『根本の主張』は以前もお話したように重要な意味を含みますから疎かには出来ません。そのうえで、ここでいう『人間創めだし』は、生き物としての人間の事ではなく、神の言葉・中山みきさんの教えを信じる人間を始めだした場所(ぢば)、と解釈する方が納得できますね。」

ハ「同じ人間でも、考え方や価値観が違う、という事ですか?」
役「ある人の言葉を借りれば『助け合い人間』と『倒し合い人間』であるという事になります。昔は、人を押しのけ倒してでも自分が得をする、というのが常識的な世の中だった。そんな中にも善人と言える人はいたでしょうが、善人の生きにくい世の中だといえます。それが、中山みきさんが、この『ぢば』で『かんろだい』を使って、人々に『人間の本質を思案しなさい、神様が人間を創った時の気持ちを考えなさい、人間は人を助ける事で喜びを感じられる事に気が付きなさい』といって教えた訳です。いうなれば、動物や獣のような生き方から神に近い生き方へと変わる訳です。新たな人間の創造として、この『ぢば』が最初の場所だという事です。」

ハ「そのお話は以前も聞いている事ですから分かります。でも、教典やお筆先などの文言は、どちらにも解釈できるような文章ですよね。」
役「そこが教義の混乱を招いている所ですが、諸井慶徳先生はハッキリと、科学や考古学などを無視して『人間の最初の命』と言っていますから、道の先達としては、これを信じなければいけません。」
ハ「いや、それを信じろって・・・。」


二一、昔はとかく嘲笑し軽侮していたが、この道の理は人間生命を成り立たせ、運命を守り伸ばせる不思議な働きの所以として、後になって、今日ようやく学問でもその一部がわかりかけて来たのであって、今更の如く、驚くべき真理と事実なのである。
二二、その証拠は、今後益々、色々なことを通してあらわれて行くであろう。
二三、人間は、単に自分の力で生きているのではなく、親神の御守護によって生かされている中に生きている。親神のお働きを頂けばこそ、日々の己れの生命がある。
二四、この親神は、人間世界の元こしらえた親としての神であって、人間は、皆この親神の御守護の下に生まれさせて頂いた。人間は皆この親神の子であり、本来高低はなく、互いに兄弟姉妹である。
二五、親神は、その御守護の世界の中に、私達人間を抱きかかえて生かして下さっている。人間は親神の懐住居なのである。
二六、この親神の根本的なお働きとしての現われは、月と日、天と地、水気と温み、等として、二つ一つの御守護であり、二つの相対する働きの不思議な調和の中に、総てをお司り下さっている。
二七、然も人間世界を御守護下さっているには、この二つ一つの働きに基く十種の根本的な尊いお働きによって、お司り下さっているのである。それはこの水気と温みの外、つなぎとつっばり、飲み食い出入りと息吹きわけ、切ることとひき出し、種子と苗代のお働きである。これ等のお働きを結構に頂く所に、万事が成り立って行くのである。


ハ「その証拠は、今後益々・・・。って、何か証拠となったモノはありますか?」
役「学問上の証拠と言えるほどデータや検証されたモノは明確になっていませんが、一般的にも当たり前になりつつあるものは有るように思えます。心労や精神的なモノが身体的疾病に繋がる『病は気から』とか、世界の最長寿記録が115歳前後である事と医学界でも人間はおおよそ115歳まで生きる事は可能だという説が出ていたと思います。」

ハ「なるほど、聞いた事があります。逆に言えば、そういう検証だの研究を天理教内部からどんどん進めて行かなければならないと思うのですが、天理大学などでは何を研究されてるのでしょうかね?」
役「何なのでしょうね(笑)。まぁ、諸井慶徳先生もこう仰っているのですから、天理教内部から盛んに研究や実証をしてくべきだと思いますね。それが先達の心得です。」


二八、親神は、人間世界の元こしらえた神であらせられたが、教祖を通して、人間救済の上に表に現われた実の神であられる。私達は、不思議なおたすけのお働きの中に、ありありと親神を味わうことが出来る。
二九、人間の身の内は、親神の御守護に成り立っている。即ち使わせて頂いているが、これを結構に守られるには、心一つの治め方が大切である。人間の人間たる所以は、心の動かし方如何によって、真に全うされもすれば、却って損われもする。
三〇、この心の日々の正しい治め方によって、人間は人間としての生命を真に全うすることが出来る。
三一、この心の治め方には重要な筋道がある。それは、ただその時だけ、自分さえよければよいと思うのではなく、進んで人々に働きかけ、他人をよりよく生かし、互にたて合い、たすけ合いをして行く中に、長い眼を以て、日々を明るい勇んだ、楽しみ喜ぶ心で通ることが大切なのである。これさえ心の持ち方に叶えられるならば、必ずや自分の生命が全うされて行くのである。
三二、然しながら私達には、悩みとなってふりかかり、悶えとして包まれずにはいられない色々の事柄がある。これはどうしたらいいのだろうか。然も矢張り、その苦しさからぬけ出る為の筋道は、この根本消息を外しては得られない。このような事柄は、今迄の心の通り違いに対して見せられている結果であるから、尚、進んで心を改めることが大切なのである。


役「これまでの解釈の違いを認識していれば、この辺りの事はおかしなモノにはならないかと思います。まぁ、根本的には『互いに立て合い、助け合い』の輪に自分も含めて考え行動する事を忘れてはいけない、という事でしょうか?」
ハ「現在の天理教組織で、本部や上級が批判される点ですね?口では綺麗ごとを言うけれども、自分では全く逆の事をしている、と。」

役「私は諸井慶徳先生を個人的に知っている訳ではないので、口先だけなのか、ご本人も実践行動していたのかは不明です。ここでは言及するのを避けさせて頂きます(笑)。」

『道の先達の心得』その3

役「本題に入る前に、まず『道の先達』ということですから、これは『既に信仰をしていて、後人(理の子や未信者)に布教や教化するための『心得』だと考えられます。具体的には、教人、布教師、教会役員や会長さんなどを対象としたものだと言えるでしょう。」
ハ「なるほど。先達ですから、布教やにおいがけ、新しい信者さんをどのように集め布教して行くか、どのように導いていくかという内容ですね?目次でもそれを項目別に分かり易く分類されていると思います。」
役「そうですね。では中身を考えて行きましょう。」


お道の結構さに就いて

一、お道の信仰をしたら、必ずたすかるのである。
二、たすかるとは、生きて行く万事につけてよくなることである。豊かな生命が恵まれ、良き運命に守られて行く。即ち、悪いんねんが善いんねんにきりかわるのである。
三、それは、人は今はかかっていなくても、何時思わぬ病気や災難にかからなければならないとも限らない。そのようなものから逃れたり、そのようなものを防いだりすることが出来ることなのであり、
又、今、病気や災難にかかっている人は、それをひどくならないうちに、癒したり逃れたりすることが出来ることでもあり、
更に又、ひどい病気や災難にあっている人も、それから逃れさして頂くことが出来ることなのである。
こうして凡そ人としての生き甲斐のある、楽しい明るい激刺とした生き方が出来るようにならせて頂けることなのである。
四、だから、お道の信仰をしないのは、みすみす、このよき運命から離れ、豊かな生命を棄てることになる。



役「素晴らしいですね。まず、第一声に『お道の信仰をしたら、必ずたすかる』と断言されています。これほどハッキリと断言できるのは流石としか言えません。道の先達たるもの、こういう信念を持たなければいけないでしょう。」
ハ「いや、その・・、必ずって・・・。」

役「そして、『たすかる』という事について明確な説明がされています。『悪いんねん』が『善いんねん』に切り替わり生きていく上での全てが良い方向に変わる、という訳です。」
ハ「全て・・・、ですか?」

役「はい。以前もお話したと思いますが、私は、この『人を助ける』とは何をする事か?どうなればその人が『助かった』と言えるのか、ずっと考えて来ました。いまだに明確な答えは見つけられなかったのですが、ここには明確に書いてあります。」
ハ「これがその答えですか?どういう事でしょう?」

役「つまり、『お道の信仰をさせる』という事です。」
ハ「え?人を助ける事は、お道の信仰をさせる事?」

役「はい。他人の『悪いんねん』を『善いんねん』に切り替えるなんて人間業では出来ません。これは神様の力でなされる事でしょう。で、その為には『お道の信仰』をさせる、とここに書いてある訳です。」
ハ「まぁ、確かにそう読めますが、本当に助かるのですか?」

役「私自身、中山みき様の教えは、一列全てを助けたいという『世界たすけ』であり、『一列兄弟。世界ろくぢ』を実現する事かと考えて来ましたが、諸井慶徳先生は、世界や一列兄弟など関係なく、お道の信仰をさせれば、その人の人生万事がよくなると仰っています。それを伝えるのが道の先達達たる人の役割なんですね。これは肝に銘じておくべき教えだと思います。」
ハ「はぁ・・・。何か、すぐには納得できない感じですが・・・。」


五、そんなことが本当にあるのかと思われるよう。然し本当にそうなのだ。それは試みに信仰してみたら、必ず味わわることである。自転車なんて乗れるものかと思われるが、やってみてわかるのと同じである。幸い先輩が多ぜい居られるから、尚、間違いない。
六、もともと、このようなことは得られないと思っていたなら、なくても、もともと思って、 一つためしに信仰してみることだ。
七、それならば、何故そのようなことが得られるのか、ごまかしではないか、とも思うかも知れないが、これには深い理由と根拠があるのである。
八、それは人間の生活の根元の消息が開示されたからなのである。人間を含め、万物の存在をしてあらしめられる根本存在としての親神が、自らを現わし出され、ここに人間の生命の真実の意義が明らかにされたからである。
九、ここに始めて、人間の基くべき所が固められ、根が培われることとなったのである。

役「すぐには信じられないのも無理はありません。でも、諸井慶徳先生は『疑うなら試しにやってみろ』と仰っています。例えるなら喰わず嫌いや、あれこれ考えていないで、大勢の人が天理教を信仰しているのだから安心してやってみなさい、と説明しています。」
ハ「ちょっと説明になっていないような感じなのですが・・・。」

役「いえ、ちゃんと根拠も書かれています。それは『人間をお創りくだされた親神が自ら姿を現し教えている事』だからだという事です。」
ハ「それは、元の理とよろずよ八首の中の文言でしたね。でも、以前、役員さんは、元の理は神話の世界、たとえ話であって実際に親神が人間を創った訳ではない、と言ってましたよね?」

役「はい、そうです。科学的にも考古学的にも、元の理に書かれている事が実際に行われた、と考える方が無理があります。例え話として、月日親神が泥海中の世界から『10の道具』を集めて人間を創った、10の道具が各々の持ち味や特徴を活かして、互いに協力して産み出されたのが『人間』である、という解釈です。そうして創られた人間だから、何をするにも皆で互いに協力して助け合っていく事で喜べるし楽しいという性質を持っている訳です。その性質が親から子、子から孫へと伝わるのが『いんねん』で、そのいんねんを自覚して、銘々が持っているホコリを払う事が『いんねんの自覚』であり『ホコリの溜まったいんねんの切り替え』にもなる訳です。」
ハ「ここに書かれている解釈とは随分違うようですが。」

役「いえいえ、私の解釈はあくまで私個人のモノです。諸井慶徳先生の言葉は天理教の先達、今もこの教えを守っている全国の教会長さんや布教師さん達の心得ですから。」
ハ「はぁ、そうですか・・・。」


一〇、他の宗教や信仰は色々あるが、それ等は一時の気やすめにしか過ぎない。又は、みすみす気の毒な間違いの通り方にと入って行くことでしかない。
一一、それは、人間生命の根元の所以が開示したものでないから、そして浅はかな一時の人間思案に流されているものであるから、それでは人間の根は培われることは出来ないからである。


役「これはちょっと過激な文言です。」
ハ「そうですね。他宗教を批判というか、頭から否定してますね。」

役「まぁ、先達の心得としては、この位の考えでないと布教や勧誘など難しくなるでしょう。表立って言わなければ良いのです(笑)。実際に、私が若い頃『他所の宗教は・・・。』等とこれに近い事を言っていた某会長さんや役員さんが居ましたよ。私も他宗教との比較ならよくやります。もっとも、私の場合は教義や解釈の比較であって、頭から否定はしませんけど。」
ハ「いや、それが当然でしょう。それにしても、たとえ他宗教との論議でもこんな言い方はないと思えますけど・・・。」

役「まぁ、それはそれで、あくまでもこれは『先達の心得』ですから、胸に仕舞っておくべき事です。」


一二、この道によって始めて示された数々の教えの角目は、今迄にはどうしてもわからなかった人間完成への確固とした道なのである。
一三、この道は、今迄はただ裏から働いて守護せられていただけであった人間世界をお創め下さった親神が、じきじき御自ら表にお現われ下さったもので、ここに一れつ人間に真実たすけを与えて下さることとなったものである。
一四、親神がじきじき表にお現われになったというのは、教祖を通してこの思召を明らかにお教え下さるようになったこと、及びそれと伴って、如実なお働きをありありとお与え下さるようになったことである。
一五、真実たすけとは、真に人間の生命を全うさして下さることである。

役「この部分は、基になったであろう著書『道の先達の心得・人間完成の道』のタイトルに沿った文言ですね。月日親神という創造神が中山みきという女性の身体に入り込み、この世全ての難渋を救うために言葉を発し行動をした。だから、これを信じてその道を辿るのが『人間として完成された存在になる道』である、という訳です。」
ハ「それも役員さんの解釈とは違いますよね?役員さんは、月日親神は中山みき様の思考の末に編み出された実在しないモノで、中山みき様は自分の価値観や人生全てを自分の理想とする生き方や世の中を実現するために行動した、というお話だったかと思いますが。」

役「そうです。その解釈は今も変わっていません。」
ハ「印象からすると、諸井慶徳の解釈は『月日親神』が主で『中山みき』さんが従、役員さんの解釈は『中山みき』さんが主で『月日親神』が従、という関係に見えますが。」

役「主従という関係が当てはまるかどうかは微妙ですが、そうですね。でも考えてみて下さい。まず、実際に『神様』がいて誰か人間の口を借りて「神の言葉」を伝えたとします。聞いている人にとっては、話しているのは只の人間ですから、本当の神かどうかは判断が出来ません。」
ハ「そうですね。まぁ普通は、そうかな?そんな事があるのかな?と思うだけでしょう。」

役「その逆に、ある人が、神様というのはこういう考え方、人間を超越した存在はこんな価値観や思考法で判断するだろうと体系化して『これが神様のお話だよ。自分は神様と同じ事を言ったりやったりするからね』と言ってお話をしたり、行動したとします。そのお話を聞いたり見たりした人は、どう思いますかね?」
ハ「それは、その人が考えた『神様』だと分かっていれば・・・、」

役「そういう説明もなく、その人が『神様の話ですよ』と言ったなら?」
ハ「え、あ、そうすると・・・。」

役「そうです。周囲からすると、本当にその人に『神様が宿っている』のか『その人の思考によってつくられた神様』なのか、判断できないのです。その人の言葉や行動など、出てくる結果が同じなのですから。」
ハ「なるほど。」

役「だから、諸井慶徳先生の解釈も、私の解釈も『矛盾しない』のです。真実は、神の言葉を話している本人にしか分からない事で、周囲の人が『どっちだろう?』と考えても答えは出ないのですよ。」

役「まずは、全ページを掲載しましょう。小さくて読み難いかもしれませんが、後で本文をコピーしながらポイントを取り上げて考えて行きたいと思います。」









































































役員「ハルアキさん、ちょっと興味深いモノを見つけましたよ。」
ハルアキ「興味深いモノ?どんなものですか?」

役「これなんですけどね。どうぞ、ご覧になってください。」
ハ「冊子ですか?本にしてはチョット薄いですね。タイトルは・・・」



役「『道の先達の心得』ですね。諸井慶徳著作集 第二巻より、という補足付きです。」

ハ「この著者の諸井慶徳というのはどういう人なのでしょうか?」
役「諸井慶徳先生と言えば、天理教ではよく知られた人物です。一般的には1914年(大正3年)~1961年(昭和36年)の宗教学者、宗教哲学者として知られています。教団の中では、東大宗教学科を卒業し、若くから教団の中枢で教義や教理の解説、体系化などに尽力し、教典の編纂にも関わっているし、著作も沢山あります。」

ハ「なるほど、天理教の教義や教えに深くかかわっている人物なのですね。それで、これは著作の一つという事でしょうか?」
役「それは、直接の著作とはちょっと違うようです。ネットで調べたところでは、確かに、諸井慶徳先生の著作として、『諸井慶徳著作集:道の先達の心得 人間完成の道』(天理教道友社 1962年刊)というのがあるのですが、これは242ページにわたる本ですから、これとは違います。」

ハ「すると、これはどういうモノなのでしょうか?」
役「正直いまして、来歴その他全く不明です。古い本棚から見つけ出したものです。中身も、著作というより箇条書きの形式ですから、何かの研修会かなにかで使われた資料のような感じですね。」

ハ「研修の資料ですか?」
役「私の想像ですが、著作から抜粋して、教会長研修会か後継者講習会などの資料、教材として、箇条書きで分かり易くしたものだと思われます。どの時代に誰がどのような形で作成し使ったかも全く不明ですが。『目次』と『あとがき』を見ても、そのような手掛かりは見つけられませんでした。」

ハ「なるほど。それで、この冊子の興味深いとは?」
役「はい。実は、これの元になった『諸井慶徳著作集』は現在ではネットでも入手が難しいのです。国会図書館などなら閲覧できるかもしれませんが、さすがにそこまで手間暇かけられません。ただ、この冊子は箇条書きで大変分かり易いので、これを基に、天理教の先達がどのような道を歩んだか勉強させて頂きたいと思ったのです。」

ハ「なるほど。時代的に高齢の方なら直接これを読んで勉強された方が居るかもしれませんね。」
役「そうですね。もし、ご記憶のある方、心当たりをお持ちの方がいらっしゃったら、この内容やどのような形で配布され使われていたのか情報を寄せて頂ければ嬉しいです。
では早速ですが、目次を改めて書き出します。



目  次

お道の結構さに就いて・・・・・・・・1
にをいがけに就いて・・・・・・・・・7
身上、事情のさとしに就いて・・・・13
おさづけの取り次ぎに就いて・・・・18
祀り込みに就いて・・・・・・・・・22
おつくしに就いて・・・・・・・・・25
仕込みに就いて・・・・・・・・・・29
あとがき・・・・・・・・・・・・・34

ということで、中身は全部で30ページちょいです。
ちなみに、写真では読みにくいかもしれないので、『あとがき』も全文を記載しましょう。」



 あ と が き

道の先達として通らせて頂く者は、固より一応は歩み方を知っている筈である。然し自らを顧みる時、果して本当にわかっていると言い切れるであろうか。案外、足許がおろそかになっていることが多いのではなかろうか。又しっかりやらせて頂きたいとは思っているが、どういう風にさせて頂いたらいいか、自信がないと自分自ら感ずる人もあるであろう。このような上から、改めて一つ一つ具体的に心得させてもらいたいこと、これをこの書は取り上げてみた。だから書いてある事柄は何れも、練達の人々にとっては、わかりきったことばかりであろう。如何にも今更めいて書き並べてある感じがするかも知れない。然し物事の進展を計るには、常にこのような事情は避けられない。そして組織的に又、多くの人にその手段や方法、さてはその構造や消息を明らかにすることは、より能率と効果を高め広める為には、是非とも必要なのである。

 このような書き物は、随分以前から心がけていたが、なかなか陽の目は見られなかった。ようやく一応のものを出す処迄こぎつけて、何よりも心うれしいことである。この内容にまだまだ足りないことだらけであろう。然しこれが一素材となって、更に今後補い足して行きたいと思う。勿論、この書は決して標準的決定版の如きものではない。あく迄も一つのテスト・ケースとしてつくってみたものである。特に「稿本」としたのはこの故である。

 表現はなるべく平易な一般的なものにしてある。特殊な教語は出来るだけ避けた。これは言葉だけの自己満足に陥ることをやめ、実質上の内容の表現を期する為、この際あえて用いた一つの試みである。又各表現の背後には多くの述べられるべき事柄がある。然しこれ等も省略して、ここには圧縮した項目だけを挙げた。詳細な資料としての事実や理論は別に述べることにしたい。

 この書が道の先達に糧と力とを与えることを衷心より願ってやまない。


役「諸井慶徳先生は、1961年に47歳という若さで亡くなっています。この『あとがき』が著作から引用したモノか抜粋なのか、この冊子を編集した人が書いたモノかも判然としませんが、諸井慶徳先生が書いたモノなら、多少、謙虚で控えめな『あとがき』だなと思えます。もっとも、年齢的にも天理教の中では若い部類に入るでしょうし、教祖様から直接教えを受けたとか、お話を聞いたという先達もギリギリいらっしゃった時代でしょうから、立場や役職は別にして、このような表現になるのは当然かもしれません。
では、次回から中身について考えて行きたいと思います。」
ハ「はい、宜しくお願いします。」

役「『何をしてくれる』という考え方はちょっと違いますが、それを考えるのに、みかぐらうたから引用させて頂きますね。

三下り四つ ようようここまでついてきた  じつのたすけはこれからや
   五つ いつもわらわれそしられて  めづらしたすけをするほどに
四下り五ツ いつもたすけがせくからに  はやくようきになりてこい
   六ツ むらかたはやくにたすけたい  なれどこころがわからいで
   七ツ なにかよろづのたすけあい  むねのうちよりしあんせよ
五下り一ツ ひろいせかいのうちなれば  たすけるところがままあろう
   二ツ ふしぎなたすけはこのところ  おびやほうそのゆるしだす
   七ツ なんでもなんぎはささぬぞえ  たすけいちじょのこのところ
   八ツ やまとばかりやないほどに  くにぐにまでもたすけゆく
六下り二ツ ふしぎなたすけをするからに  いかなることもみさだめる
   四ツ ようこそつとめについてきた  これがたすけのもとだてや
   五ツ いつもかぐらやておどりや  すえではめづらしたすけする
十下り二ツ ふしぎなたすけをしていれど  あらわれでるのはいまはじめ
   六ツ むごいことばをだしたるも  はやくたすけをいそぐから

という風に、十二下りの中で14回も「たすけ」が出てきます。これだけ考えても中山みき様の教えは「たすけ」が中心・重要な事だと分かります。で、この中にも「じつのたすけ」「たすけあい」そして「ふしぎなたすけ」が3回、「めづらしたすけ」が2回出てきます。

仮に、仮にですよ。先ほど言った『事情身上のたすけ』が中山みき様が意図する教えてくれた「たすけ」だとしましょう。
そうすると、この「じつのたすけ」「ふしぎなたすけ」「めずらしたすけ」は何を意味するのでしょう?どんな「たすけ」なのでしょうか?ハルアキさん、どう思います?」

ハ「そうですね・・・。『じつのたすけ』ですから、中途半端ではなく『徹底的なたすけ』とか、『ふしぎなたすけ』は、事情身上がその場でスッキリ解決する、治ってしまう、とかですかね?伝記や逸話編にも眼の見えない人がスッキリご守護頂いたとか、真実誠をお屋敷に運んだら精神的病が治ったとか、幾つかあったと思いますけど。ええと、『めずらしたすけ』は・・・ちょっと区別が出来ませんね。」
役「なるほど。そうすると、中山みき様の教えようとしていた『ふしぎなたすけ』と『めずらしたすけ』は、医者にも見放されたような人にスッキリ治療をする魔法のような『たすけ』という感じでしょうか?癌が治ったとか、くも膜下出血で倒れた人がその場で回復したとか。」

ハ「はぁ、ちょっと疑問はありますけど、天理教の中ではそういう話もありますよね?」
役「事実かどうかは分かりませんが、たまに信者さんの中からそういう話が出てくる事は否定しません。後は、そういった事を更に考えると、お金に困っている人が信仰して宝くじが当たったとか、競馬で大穴当てたとかいう『ご守護』になるのかな?先程の道路の陥没ならその場で穴が塞がったとか、土砂崩れが起きても不思議な助けで崩れた土砂が元に戻ったとか、かな?」

ハ「ハハハッ、そういう金銭的な話は疑問ですね。元々『貧に落ちきれ』が教えの根幹なので金銭的ご守護は無いのでしょうか?道路の陥没が跡形もなく消えたとか土砂崩れが元に戻ったって、映画の逆回しという訳では無いのですから有り得ませんよ。」
役「まぁ、そういう理屈も、多くの人が何となくそう思っている部分だと思いますけどね。後は、嫁姑問題で悩んでいる人が、一夜の間にも実の親娘のように仲良くなったとか、ブラック企業で苦しんでいる人が突然超ホワイト企業から引き抜きにあって、給料は増える休みも増えて楽になったとかいうご守護があれば『ふしぎ』ですかねぇ?」
ハ「それは『ふしぎ』ですね。」

役「あと、先程の伝記や逸話編、信者さんの間で話される中山みき様の『ふしぎなたすけ』というかハッキリ言えば『魔法のような病たすけ話』なんですけど、本席を始め他のお弟子さんにはそういう話が一切ないのはどうしてでしょうね?まぁ、一部教会ではそういう人がいたとか、初代がそういう力を持っていた、なんて所もありますけど、中山みき様の周辺にはいませんね。」
ハ「たしかにそうですね。他の人はそういう力を持っていなかった、授けられていなかった、ですか?」

役「いや、元々、中山みき様がそういう『超常的な力や魔法のような病だすけの力』を持っていたとする方がおかしいのですよ。」
ハ「なるほど。」

役「何と言っても中山みき様は『ひながた』とされています。元からそんな超常的な人助けの力を持っていた人を『ひながた』にするのがおかしいし、天理教で言われているような『天から神様が降りて来て宿った』と云うのが本当なら、人間は何もせずに神様が下りてくるのを待っていれば良いだけになってしまいます。」
ハ「しかし、何もせずに待っているだけでは神様が降りて来るかどうかなんて何の保証もありませんから、そこは『中山みき様を目標にひとだすけに精を出している人』に降りて来るとか・・・。」

役「ハルアキさん、自分で言っていて、矛盾に気が付いていますよね?言葉を出すのが苦しそうです。」
ハ「ええ。先程からの話を総合すると『事情身上のたすけ』だけで考えると矛盾が出てしまう。それを解決するのはオカルト摩訶不思議の世界になってしまうので、理論が破綻してしまいます。ただ、そういう『事情身上のたすけ』は必要ないとか関係ないという風に断言できないような気がして・・・。」
役「それが正解だと思います。『事情身上のたすけ』は必要というか基本なのです。そこがスタートである事は間違いありません。でも、中山みき様の教えは『事情身上の無いと思われている人を含めて世界中全ての人をたすける教え』だという事です。」

ハ「たしかに、経済的に豊かだとしても幸せとは限らないし、今は健康でも人間いつ何時事故にあうか病気になるかは分かりませんからね。でも、そういうのって仏教の世界のように思えますけど。」
役「良い所に気が付きましたね。確かに仏教では世の中の思うようにならない事として、四苦『生・老・病・死』と『愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦』の4つを合わせて、四苦八苦と呼んでいます。これらは無くそうと思っても無くなるものではないので、逆に、これらに執着して気に病んだり悩み続ける事そのものを『煩悩』としています。」

ハ「結局、煩悩を捨ててあるがままに受け入れなさい、という事になりますか?」
役「まぁ、四苦八苦をどうするかはその道の専門家に任せるとして、中山みき様は全く違う方向に行っている、行っていたと思いますよ。」

ハ「全く違う方向ですか?ちょっと想像できないのですが。」
役「まずは、先程の『事情身上のたすけ』だけではなく、『世界中全ての人をたすけたい』という部分です。つまり、中山みき様の立教の段階で『全ての人がたすける対象』だったという事を考えなければいけません。おそらく、今現在も『全ての人がたすける対象』でしょうし、そういう『たすけ』が中山みき様の教えであり内容だと理解しないと、いつまで経っても『皆が陽気に暮らせる世界=陽気づくめの世界』は実現しないと思います。」
ハ「今現在、困った事や悩みがない人でも『たすけ』の対象である、という事ですか?」

役「そうですね。今現在『事情身上の無い人』でも『陽気ぐらし』をしているかどうか、と考えた場合、どう思いますか?」
ハ「それは、そういう立場や環境でそれぞれが感じる事でしょうから何とも・・・。でも、スポーツ選手や芸能人など、収入や生活ぶり、大きな家に住んだり高級車に乗ってそれなりの暮らしをしていますよね。先の事は分からないとはいえ、若いうちに十分な貯えをして老後も心配ない生活をしている人が居るでしょうし。あるいは、大企業の経営者家族や大物政治家とか高級官僚と言われる人達も、普段の生活もそうですけど、退職金まで世間一般の人より多いですよね?」

役「まぁ、それが私達の世間一般の価値観や考え方だと思います。それなりの収入があってそれなりの生活を送ることが出来れば、『幸せ』だし『陽気な暮らし』じゃないか、という。」
ハ「それが違う、という事でしょうか?」

役「はい。実際にそういう人達は『幸せ』を感じているのでしょうか?毎日の生活が充実していて、気力や気持ちが喜びにあふれている『いさみ』の毎日なのでしょうか?そうではないのではないか、決してお金や周囲の人と比べて、高級なモノを持っているからといって幸せとか喜び溢れた生き方は出来ないのではないか。という今現在のそういう価値観では『人間は陽気ぐらしできない』し『成人も出来ない』と教えているのが『みかぐらうた十二下り』なんですよ。」
ハ「確かに『幸せは他人との比較や銀行口座の残高で決まるモノではない』とも言われますよね。」

役「逆に言えば、そういう他人との比較や資産の過多で幸せかどうかを判断する『心』が問題なのです。身体は『貸しもの借りもの』なのですから、どのように使うか、使わせて貰うかで『心が喜びを感じられるかどうか』に繋がります。勿論、豊かで便利な世界、世の中の方が良いのは間違いがありません。でも、現在のように偏った豊かさや資源や利権を奪い合うような世の中は、人間の心が歪んでいるから発生している訳です。その辺りも十二下りで教えて下さっています。」
ハ「なるほど、教えはそのように繋がっているのですね?」

役「ええ、教えの言葉はほぼ全て繋がっています。単独に取り出してしまうと、個人個人で勝手な解釈になってしまうので、全体が滅茶苦茶になってしまうのです。それに、従来のおつとめの方法では『十二下り』ですら神様に対するご祈祷や奉納の手踊りみたいになってしまっています。それでは、心の入れ替え、つまりは銘々が中山みき様の教えてくれた『本当に生れ変った人間』になれないし、陽気づくめの世なんて実現出来ませんから。」
ハ「なるほど。では、まずは『十二下り』の意味を考えないといけない、という事ですね。」
役「はい、長くなりますのでじっくり考えていきましょう。」

役「ハルアキさん、ちょっと神様のお話をしませんか?悪い話じゃないですよ。この世界を形造って、人類の始まりを創った、元の神様のお話です。」
ハ「何ですか、藪から棒に。何かと思えば『おつとめ』の『ちょいとはなし』じゃないですか(笑)。」

役「(笑)。いえね、私の方から神様についてのお話をする場合に、何か切掛けとなるような言い回しはないかと思っていたのです。」
ハ「私に対しては、そんな言い回しは結構ですから。」
役「そうですか?では本題に行って良いですか?」
ハ「どうぞ、どうぞ。」

役「ハルアキさんも天理教用語と言われる『言葉』が沢山あるのはご存知だと思いますけど、その中から重要なモノというか、勘違いされやすいモノを拾い出して考えていきたいのですよ。」
ハ「なるほど。天理教の教えというか、理解をするには重要な事ですね。」

役「今日は『人を助ける』という言葉と内容を考えていきたいと思います。」
ハ「教外でも『人助けの天理教』なんて言われる事もありますね。」

役「はい。教内では上級から部下教会や信者さんに対して『においがけ、お助けしなさい。』という叱咤激励が飛ぶことは良くあります。というより『お助けする事』が天理教の信仰だと言えます。『おふでさきやみかぐらうた』にも『助ける心が真の誠』とか『助ける心がないのが残念』というような言葉が沢山出てきます。」
ハ「なるほど、信仰する人の役割というか行動原理、信仰心の発露とも言える内容でしょうか。」

役「ええ、私の両親(会長夫妻)なども、会長会議などで大教会長から毎月のように『においがけ、おたすけが足らない。』と檄を飛ばされて、教会に戻って来てはあれこれ思案はするものの、結局大したことも出来ずに一月が過ぎる。そして、会議でまた同じ事を言われる、と溢していましたよ。でも、大教会長も『においがけ、おたすけしろ』とは言うものの、『どういう人』に対して『何をしてあげる事』がお助けで、『最終的にどうなれば』お助けした事になるのか、という話や議論は殆どされないのですよ。」
ハ「ええと、ビジネス的に言い変えれば、『Plan・Do・See』が曖昧だという事でしょうか?」

役「そうです。信者も教会長の殆ども『お助けしなさい』という言葉から、銘々の考えや価値観で判断してるのが現実だと思います。勿論、ひながたである『教祖様』の『お助け』が逸話や伝記で残っていますが、正確とは言えませんし怪しいモノが多いのです。」
ハ「それでは、信者さんも困りますし、誰かに訊いても判断がバラバラでは意味が無いに等しいですね。教団や教義として、行動や判断が統一されていないのでは、何の為の組織かとなります。」

役「それが今の天理教全体の問題にも繋がっていると思います。そこで、ハルアキさんは『人を助けなさい』『お助けしなさい』と言われて、『どういう人に』『何をしてあげる事』だと思いますか?」
ハ「そうですね。色々あると思いますが、困っている人に手を差し伸べたり、親切にして上げたり、例えば、電車の中でお年寄りに席を譲るとか親切にしてあげる事。悩んでいる人の相談の乗ってあげて、悩みを聞いてあげて、解決策を一緒に考えたり具体的な行動を示唆してあげたりとか。後は、実際の募金やボランティア活動も人助けでしょうし、目の前で事故か何かあって怪我をした人がいれば、救助や治療の手助けとかでしょうかね。火事の現場で素人の私が火の中に飛び込んで人命救助は出来ないかもしれませんが、その人への経済援助とか。近年、地震や大雨などの自然災害も多いですから、被災者への経済的支援やボランティアに参加するなどのサポート等が人助けだと思います。天理教の中でも『災救隊』というのが有ったのではないですか?」

役「はい。『災救隊』の話は後にして、ハルアキさんの意見をまとめると、人に親切にする、個人的問題の解決の手助けや援助、災害などの現実問題の人的金銭的援助やサポート、といった感じですね。天理教では事情身上と言われている部分の『人助け』ですね。」
ハ「そりゃぁ、まぁ、現実に問題なり困っている事があって、誰かの助けが必要とか、助けがあった方が良いから『人助け』になるのでしょうし。何も困っていない人を『助ける』事は出来ないし、必要ないでしょう?」

役「普通はそう考えますよね。いや、天理教関係者だけでなくほぼ全ての人がそう考えると思います。ではもう少し掘り下げさせて頂きますが、例えば、ハルアキさんが道を歩いていたら、その少し前に水道管の破裂か何かで路面が陥没して、落ちて怪我をしてしまった人が目の前にいるとしましょう。どうしますか?」
ハ「そりゃあ、そういう事故なら駆け寄って怪我の状態を確認して、必要なら応急手当てをするとか、救急車や警察を呼ぶとか、必要なら家族に連絡を取ってあげるとか、ですかね。まあ、警察や救急車が来れば、後は任せてあまりお節介な事はしない方が良いでしょうけど。」

役「そうですね。とりあえず目の前の困ってる人を助ける、何かの手配をするのが人助けでしょうが、この場合、それで終わりでしょうか?」
ハ「これで、というと?」

役「はい、穴に落ちた人を助けるのは勿論ですが、事故の場合は『二次災害を防ぐ』という重要な事があります。つまり、他の人が穴に落ちないように呼びかけをするとか、囲いをするとかして、これ以上怪我人が出ないようにしなければなりません。更に言えば、その穴そのものを塞ぐ、復旧させなければ終わった事にならない訳です。」
ハ「それはそうかもしれませんが、そこは警察だの行政だのの役割ですね。」

役「はい、勿論そうです。我々一般の人間が交通規制をしたり、道路の陥没を埋めるとか復旧させる事は出来ませんが、そうやって、問題の原因を取り除くまでが『人だすけ』なのではないかと思う訳です。もともと行政や警察などの仕事や目的には市民へのサービスや生活の安全を図るというモノがあるのですから。」
ハ「なるほど。現代社会ではそれを分担してやっている、という訳ですね。」

役「はい、まあ、仕事の分担はともかく、目の前の困っている人を助けるのと同様に、その原因や問題そのものを解決する、解消する事も大事だという訳です。」
ハ「確かに必要な事ですね。他の人が同じような事で困ったり、苦しむ事が無くなるならその方が良いです。」

役「そういう事です。では別の視点から考えますが、そういう『人助け』って中山みき様が教えてくれなかったら、誰も知らなかった事でしょうか?日本人は誰もそういう『人を助ける事や心』を持っていなかったのでしょうか?」
ハ「え?いや、そんな事はないでしょう。もっと昔から当たり前にあった事でしょうし、皆がそれなりに持っていたと思います。まぁ、先年の東日本大震災の時に話題にもなった日本人の秩序正しさと、互いを尊重して助け合う気持ちや行動、日本人の美徳とも言える事は、何時からとは言えませんけど、昔から有ったと思います。」

役「そうですね。災害などの時に必ずではないでしょうが、他所の国なら暴動だの略奪だのが起こりやすいのに比べて、日本人は秩序と冷静な行動が際立っていて世界からも称賛されています。あの様子は、戦前の大正時代に起きた関東大震災の時も同じように日本人は秩序を保った行動と助け合いをして、世界から注目されていた報道記事が残っているのですよ。」
ハ「そうなんですか?関東大震災というと、日本人がデマに扇動されて朝鮮人の大量虐殺をしたとかいう事件ばかりが聞かされていますが。」

役「それもどうやら事実と異なるようです。当時の記事を調べていくと、不逞鮮人が日本政府の転覆を図って計画していた所、関東大震災が起こってしまったので略奪暴行の直接行動に切り替え、それを各地の自警団や警備の日本人と衝突して両方に被害が出た、という記事が沢山見られます。今、その記事は手元にはありませんけど、ネットって便利ですね(笑)。まぁ、その問題はともかく、関東大震災も一応中山みき様の亡くなられた後の事ではありますが、中山みき様が、そういう『人助け』を教えてくれたから日本人がそういう行動をした、という訳では無いと思いませんか?」
ハ「まぁそうですね。え、という事は・・・?」

役「気が付きましたか?まぁ、順番に考えていきましょう。中山みき様が教えてくれた月日親神は、世界一列皆が可愛い子供で、一列全てを助けたい、という神様です。今現実に困っている人だけ、悩んでいる人だけ、事情身上を抱えている人だけの神様ではないのです。」
ハ「はい、では、現実に事情身上の無い人には何をしてくれる神様だという事なのですか?」

役「先程の箇条書きからすると、月日親神は非常に人間臭い神様だと思えませんか?」
ハ「ええ、そうですね。まるで、日常の生活に潤いが欲しいから花でも育てようか、という感じで人間を創ったと・・・。」

役「そんな感じですよね。花壇に花を植えたのなら、水をあげたり雑草抜いたり、色々手入れをするのが普通ですけど、月日親神は人間に『知恵と言葉と文字』を仕込んだだけで、他には何もしてくれていません。」
ハ「あぁ、役員さんは月次祭でもそう言っていましたね。世話をする代わりに、知恵と言葉と文字を仕込んで、後は自分達でやれ、と。」

役「そうです。まぁ、でも人間たちが上手くやれないのでシビレを切らせて中山みき様に降りて来た、とも解釈できますけどね。」
ハ「なるほど、それも人間臭いな。」

役「ところが、神様について重要な事があります。

『理が神である』

という言葉です。」

ハ「『理』というと天理教では様々な意味で使われているように思いますが。」
役「そうですね。具体的に全てをあげて解説すれば一冊の本が書ける位になりそうですけど、大まかには、理立てという『お金』と、発言者の主張や考えを基にした『立場』と、組織や教団維持の論理構成を擁護する『根拠』の部分かなと思います。全て上の者の都合の良いように使われている感じですけど。
今回の被包括関係廃止手続きの中でも、上級や大教会側から『理がない』とか『理が違う』等という言葉を何度も言われました。私の主張や話は、法律や社会常識、規則の文言を一応は正確に解釈して言っているにも関わらず、ですよ(笑)。」

ハ「それは原稿を読ませて頂いて感じました。原稿に書かれていない部分でも、結構言われていますか?」
役「えぇ、勿論(笑)。このおメドウにしてもちょっとした事件というか騒動があったのですが、原稿に全ては書き切れません。
まぁ、それはそれとして、この『理が神』という場合の『理』なのですが、国語辞典的解釈をするべき、しなければならないと思います。というか、みかぐらうたやおふでさき全般にわたって、国語辞典的意味で考えなければならないのではないかと思っていますが。」

ハ「なるほど。するとこの『理が神』というのは、理論、法則、真理、道理、といった意味ですか?」
役「そうです。『教えの理論、法則が神様なのだよ』という訳で、先程お話しした『人間臭い神様』とは全く違います。」

ハ「あぁ、理論や法則に人間臭い感情は入る余地は有りませんからね。その時の気分で言う事ややる事が違うのでは真理とは言えませんね。」
役「そうです。同じ天理教信者や関係者でも、月日親神の事を『人格神』と考えている人も多いです。人格神というのは、一神教の神様のように人間臭いというか、元々人間同様だけど天地創造の力を持った特別な存在で、その時の気分や感情、状況によって人間にご褒美をくれたり、災害を起こして罰を与えるといった事をする訳です。旧約聖書の神様なんて、正しくこの通りですよね。」

ハ「という事は、役員さんは、少なくとも中山みき様の神様、月日親神は人格を持った存在ではなく、理論や法則で成り立つ神様だとお考えですか。」
役「はい。天理教内でも色々な意見や考えはあるでしょうが、私個人としては元々オカルト否定派ですし、理論・法則・真理といった教義体系が本質だと思っています。
こう考えると、稿本教祖伝の矛盾や逸話編でもおかしな所、不条理な所が排除できるのです。というより、排除して行かなければ本当の中山みき様が残された教えが歪んだままで終わってしまいます。
勿論、私の考えを押し付けるつもりもありませんし、私が言う理屈や理論で答えをはじき出すような『神様』を味気ないと思う人もいるでしょう。
それに、天理教内で話されている教義は、断片的だし統一された流れが見えないと思いませんか?まぁ、個人の事情身上の相談なら、その人その場に合わせた話だけでも良いのでしょうけど、天理教の教義全体を勉強したいと思う人に、断片的で矛盾するような内容では、全く理解されません。
もっとも、信仰は自由ですから、ハルアキさんがどちらを選択するのも自由ですよ。」

ハ「それは難しい選択だなぁ。でも、私もそれを理解する立場を取らないとこの先の原稿が書けないですよね?」
役「立場というか、『理』ですから話を聞く、体験する、じっくり考えれば分かる事だと思います。中山みき様が教えてくれたのは、文字としては『おふでさき』、言葉と手振りを合わせた『みかぐらうた』です。後一つ、これが重要ですが、形や全体の雰囲気、人間が体験するという状態で『かぐらつとめ』を教えて下さいました。この教会では『かんろだい』や『面』ですらまともに揃っていない状態ですが、その意味する処や中身について、学ぶべき事については、全体の入り口程度かも知れませんが伝えられると思っています。」

ハ「形や全体の雰囲気、体験する状態?それが理なのですか?」
役「はい。文字や言葉だけでは伝えきれないモノがあるのですよ。その目で見て貰う、実際に体験する事で理解出来る部分かと思います。例えば、地球と世界の国々の事を誰かに伝えるのに、言葉だけで話をしようとしても理解されにくいでしょう?」

ハ「形とか大きさとか、海に覆われていて大陸があって、沢山の国々に分かれている、とかですかね。」
役「そうですね。でも、世界地図を見せればその形や様子を理解しやすくなりますよね?」

ハ「国の大きさとか、地形とか、数字や言葉を並べても想像しにくいけど、地図を見れば比較もしやすいです。百聞は一見に如かず、ですね。」
役「でも、元々地球は丸いものです。それを平面に落とし込むと歪みが生じます。モルワイデ図法とかメルカトル図法とか、色々工夫はされていますけど、実物と同じ、という訳には行きません。」
ハ「なるほど。」

役「そこで、地球儀を見せれば、より正確に理解できるようになる訳です。日本からアメリカに飛行機で行く場合の最短距離が、メルカトル図法では弧を描く曲線になってしまう理由も地球儀の上で糸を使ってみればすぐに理解できます。」
ハ「あぁ、小学校の時に授業でやりましたよ(笑)。」

役「私もやりました(笑)。まぁ、地球の全体像はロケットで宇宙に飛び出してみれば見えるでしょうし、いずれ誰でも宇宙旅行が出来る時代が来るでしょうから、そこで宇宙船の窓から見る事が出来るようになるかもしれません。
でも、中山みき様が教えてくれた『かぐらつとめの理』は、人類創造から始まる人間の心の中、本質、月日親神の世界の話なので、見えないモノを形にして見せてくれて、体験させて理解しやすいようにしてくれた、という事です。」

ハ「人間の精神世界、潜在意識、それが月日親神の世界でもある、という事でしょうか。」
役「中山みき様存命中の明治初期には、『精神世界』だの『潜在意識』といった言葉自体も知られていません。多くの人が漠然と把握していたと考えることも出来ますけど、間違いなくその事を指していたとしか解釈できない内容や言葉が沢山あるのです。」

ハ「ええ?それが本当なら、中山みき様は今から150年も前に心理学の一大体系を理解していた、教えていた、となりますよね。凄い事じゃないですか?」
役「そうです。そして、中山みき様の教えは、心理学だけでなく、『全ての人が陽気にくらせる社会』を実現する為の経済思想や政治思想にまで及んでいると考えられます。」

ハ「すみません、『神様』の事がそこまで話が広がると、ちょっと理解の範囲を超えてしまうのですが。多分、これをこのまま記事にしたとして、読む人にもどう思われるか・・・。」
役「(笑)。すみません、一応私の解釈とさせてください。機会があれば、段々にお話しさせて頂きたいと思います。」

ハ「そうですね。今日は有難うございました。」

ハ「『神様とは何か?』というお話ですね?」

役「当たり前の話ですが、世界の三大宗教と言われているモノにキリスト教、イスラム教、仏教があります。仏教には『神様』という存在は有りませんので、世界中の人の殆どが信じている『神様』は、キリスト教とイスラム教の神様という事になります。勿論、その中身や教会・教団も分派や派閥がありますし、国や地域で解釈や教えも多少は異なりますし、宗教という点では沢山の種類がありますけど、根本となるモノはどちらも『ユダヤ教』の『旧約聖書』に行きつくと言われています。どちらも『一神教』を信じる宗教です。」

ハ「旧約聖書というと天地創造の神様ですね?」
役「そうです。神が1日目に天と地を造った。光をつくり昼と夜ができた。6日目までに大地や動植物、神自身に似せた人間まで造って、7日目に休んだ、というお話です。」

ハ「世界中の殆どの人が『絶対的な力を持つ天地創造の神様』を信じている、という事でしょうか?」
役「そういう事になります。勿論、神話の世界ですから、科学的な根拠も証明もされていません。でも、世界の多くの人は、そういう『一神教の神様』を信じている、という事でしょう。」

ハ「その点、日本の事情は大きく違っていますよね?」
役「はい。古代の日本では『八百万の神様』と称される多くの神様がいました、というか信仰されていました。太陽であったり星々であったり、大自然であったり、時には大きな岩や樹齢数百年の大木とかでも『神の宿る存在』として、信仰されたり大切に扱われる存在だったわけです。それどころか、生活の道具である針だの農具などにも神が宿ると考えられていて、そういった多くの神様的存在と共存しながら日本人は生活をしていた訳です。今でも日本人の心の寄り所と言えるでしょう。」

ハ「他にも、学問の神様とか、村を救った英雄を神様として祀ることがありますよね?」
役「そうですね。そういう多様性を認めている、受け入れられるのも日本独特の宗教観というか、世界でも類を見ないほどの、日本人の特徴と言えるかもしれません。」

ハ「一神教の神様なら、そんな神様は認められない、崇める対象にはなり得ない訳ですね。」
役「でも、日本にも一神教というか他の神様を認めない宗教もあるのですよ。それが顕著になったのが明治政府の推し進めた天皇を中心とした『国家神道』です。」

ハ「歴史的に見れば、西欧列強が世界を支配し植民地化を進めていた時代でしたね。アジアでも日本と緩衝地帯になっていた『タイ』以外は植民地にされ、眠れる獅子といわれた大国『清』もかなり浸食されたり領土を奪われていたと記憶していますが。」
役「はい。そんな西欧列強の世界進出の波の中で鎖国政策を採っていた徳川幕府が崩壊し、日本は世界の国々の中で自らの方針と方向性を決めて行く必要があった訳です。明治維新の文明開化と富国強兵という道を急速に歩まなければならなかった訳です。」

ハ「なるほど。流石に植民地の奴隷身分や世界各国の分割統治を受け入れる訳には行きませんからね。」
役「それには、日本を一つの力で纏めなければならない。いくら天皇制や天皇の存在が有ったとしても、それまで全国300藩に分かれて統治されていた日本国民の意識をまとめて、目標に向かって同じ方向に歩ませなければならなかった訳です。西欧の進んだ文明や技術、社会制度を取り入れるとともに、国民意識を日本全体という方向に切り替えさせるために、教育だけでなく宗教観も統一する必要があった訳です。」

ハ「それで天皇を現人神として、国民の尊敬と信仰の対象にした訳ですね。」
役「はい。私はそう解釈しています。」

ハ「分かります。しかし、その結果日本も海外に進出し、戦争をする国になってしまったと思いますが。」
役「歴史の事実だけを見ればそうなりますね。ここで善悪正誤、是非を話しても仕方がないので、当時は世界中がそういう流れだった、という事にしておきましょう。西欧列強の一神教の神様と日本人の信じる一神教の神様、互いの信じる神様が違うのですから、いずれぶつかるのもやむを得ないのかも知れません。」

ハ「まぁ、神様同士の喧嘩ですかね?」
役「神様の名前を借りた人間同士の代理戦争でしょうけどね。」
ハ「なるほど。」

役「だって、これ(おメドウ)が人間に『戦争をしなさい、世界を征服しなさい』なんて言いますか?」
ハ「いや、そんな事は有り得ませんね。」

役「では同様に、西欧の神様やイスラム教の神様が、人間に植民地を増やしなさいとか、アジア・アフリカを支配しなさいなんて、その都度言いますか?」
ハ「それも無いでしょうね。教え全体に流れる思想や解釈にそういった内容が含まれていると考えることは出来るでしょうけど、その場その都度で作戦を立てたり指示をしたり命令する神様が居るとは思えません。」

役「どの世界でもたまに『神様のお告げ』とか『神託を受けた』という人が現れますけど、現実に神様が言っているのか、その人の頭で考えて言っているのか、周囲からは判断が出来ません。何しろ、神様そのものが実体を持っていないし、目で見えないし、確実にその存在を示すような事象やデータは有りません。」
ハ「確かに実体がありませんね。たまに奇跡とか神の力等と言われる出来事もありますけど、それが本当に神様の起こした事なのかは疑問がありますね。では『神様とは何か?』という事ですが。」

役「と、ここまでお話しさせて頂いて申し訳ないのですが、それを一言で表すのは難しいのです。人によって『神様』に対する考え方も解釈も理解も全然違います。違う宗教なら勿論ですが、同じ宗教や信仰をしていても個人によって違うのではないでしょうか?」
ハ「あれれ?結局、結論は無しですか?(笑)」

役「そうです(笑)。とはいえ、それではハルアキさんも困るでしょうから参考になる事を挙げて行きましょう。」
ハ「天理教の神様ですね。」
役「私は『月日親神』と呼んでいます。その性質や内容をイメージするのに一番良いと思うので。原典の正確な表現ではありませんが、『みかぐらうた』や『おふでさき』で書かれている事を箇条書きにします。

・泥海の地の様子を見て残念に思った。
・人間を拵えて、人間が陽気に暮らすのを見て共に楽しみたいと思いついた。
・人間を創る為に10の道具を集めた。
・10の道具を使って(働かせて)人間を創った。
・人間は月日親神からすれば、可愛い子供であり一列兄弟である。
・月日親神は、可愛い子供を全て救いたい助けたいと思っている。
・人間に知恵と言葉と文字を教えた。

そして、天保九年10月に中山みき様の身体に天下って、一列世界を助けるために真実の神の姿というか、行動を見せた訳です。」

ハ「立教の旬刻限ですね。しかし、元の理で語られている子数とか年限、出直しとか動物への生まれ変わりなどを目一杯省きましたね?(笑)」
役「あぁ、正直言って、中山みき様の教えを解釈する上ではあまり関係がない感じですので(笑)。どんな神様かを考える場合には、神様自体を表現した部分だけで充分でしょ?もっとも、科学的に考えれば、人類の発生がドジョウだとか、神が創った、という事自体おかしな話ですが、神話の世界ですね。」
ハ「なるほど。」

役「では、この月日親神がどんな神様なのかを考えて行きましょう。」

私、加藤ハルアキ(ペンネーム)は、今月の月次祭が終わった「国々所々つとめ場所(通称)」の責任役員を尋ねた。


ハ「責任役員さん、先日の月次祭、お疲れさまでした。」
役「ありがとうございます。ハルアキさんも有難うございました。」

ハ「結局、いらっしゃって頂いた信者さんは数名でしたね?」
役「そうですね。それも特に信仰熱心とか天理教の教義には興味のない、知人や親戚関係で来ていた方です。」

ハ「なるほど、ちょっと寂しい気もしますが。」
役「いやいや、これからが本当の信仰ですから。中山みき様の教えてくれた『おつとめ』とそれに関するお話をさせて頂くだけです。」

ハ「そうですか。それで少しお伺いしたい事があるのですが宜しいでしょうか?」
役「はい、何でもどうぞ。」

ハ「役員さんがお話しされる『月日親神』についてなんですが、最初に特徴をお話しされていましたが、ちょっと私には理解できないことも有るのでお伺いしたいのです。そもそも『神様』とは何なのでしょうか?」
役「それはまた、漠然とした、でも重要なテーマですね(笑)。」

ハ「そうですか。でもこれが分からないと『信仰』そのものが成り立たないような気がします。」
役「そうですね。とはいえ、私は学者でも研究者でもないので、正確な事や学説等からお話しする事は出来ません。私がこれまで見聞きしたり研究したり調べた中で、これが『中山みき様の教えてくれた月日親神だ』というお話で宜しいでしょうか?」

ハ「ええ、結構です。私自身が納得して文章にしたいのです。」
役「了解しました。神様のお話をするのに、まずはこれを見てください。」

目の前に置かれたのは、ちょっと古ぼけた感じの巾着のような包みであった。

DSC_0294

ハ「中に何か入ってるようですね。開けて見て良いですか?」
役「どうぞ、中から取り出して、裏表をよく見てください。」

ハ「チョット重みのある、鏡のような置物のような、これは何ですか?」
役「これは、『おメドウ』と呼ばれているモノです。」

DSC_0297画像


ハ「おメドウ??」
役「はい、あの神殿の中央『天理王の命』のお社の中に祀ってある『ご神体』ですね。一応、八咫鏡(やたのかがみ)の模造品というか、八咫鏡として扱われて拝む対象になっています。」

ハ「え??そんな大切なモノを、良いんですか??」
役「構いませんよ。天理教の信者さんでも、あるいは全国の会長さんなどでも、中身をじっくり見た事のある人は少ないかもしれません。まぁ、中山みき様の教えに従えばこんなモノに意味はありません。あ、ちなみにこれは、当分教会に祀られていた『おメドウ』で、他の教会や布教所、講社祀り等の『おメドウ』とは違うかもしれません。大きさが違うという情報もありますから。」

ハ「八咫鏡といえば、天皇家に代々伝わる三種の神器の一つですよね?」
役「そうです。日本神話において天孫降臨の際、ににぎのみことが天照大神から授けられた『八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)』のうちの一つです。」

画像
(三種の神器 イメージ)*実物は実在しているかどうかも不明

ハ「それがどうして天理教の教会のご神体になったのでしょう?」
役「もともと天理教は明治時代に六等教会神道天理教会として認可されていますから、当時は『天皇が神である』という教えを説かなければならなかったし、形式としてもこういうご神体を祀らなければならない経緯があったのでしょう。本部側からは『応法の道』という宣言が出されていますが、要は、中山みき様の教えや本席様の忠告や叱責を聞き流して、時の権力者や政権にすり寄って自己の身の安全と権勢を守ったという事でしょう。その点の歴史や流れをお話しすると長くなりますから、教会設立段階から『中山みき様の教えに反している』という事だけ理解して下さい。」

ハ「しかし、戦後に二代真柱が『復元』を打ち出して、中山みき様の教えやお話に戻っているのでは?実際、神道系の榊やしめ縄なども廃されて、文科省での分類でも神道系ではなく諸派として独立した天理教として存在している筈ですが。」
役「役所や登録上はそうですね。でも、天理教の教義や中身については『復元』など全然おぼつかないし、中山みき様の教えに『復元』されたなんて口が裂けても言えないような有様です。組織の形態や上下関係の厳しさ等封建社会そのもので、それを擁護するような話や教義解釈がされているのは理解できるでしょう?それが嫌で、否定するべきだと思って、当教会は『被包括関係廃止手続き』をしたのですから。」

ハ「そうでしたね。一連の手続の中でも、上級の発言ややり取り等を見る限り、今の世間一般からしても歪んでいるというか、一種独特な価値観を持っていると思わざるを得ませんね。」
役「そうです。こうしてこんなモノを祀っているから、こんなモノを信仰の対象としているから、教えやお話が歪んでしまうし、間違った方向を修正も出来ないのです。勿論、中には修正するべきだ、直すべきだという意見も多く出ていますが、その改善や改革をする権限や力を持っている人達が、自分達の権益や立場を守ることに専念していて『復元』の邪魔をしている、としか思えません。」

ハ「歪みや間違った方向ですか。具体的にはどのような事でしょうか?」
役「この教会でも、以前の朝夕のおつとめ、月次祭の祭典の様子はご存知ですよね?」

ハ「親神様、教祖様、御霊様の三殿に一列に並んで『おつとめ』したり、参拝したり、手踊りをしていましたね。」
役「そうです。その『おつとめ』の目標、頭を下げたり、手踊りする対象が、これなんですが、その様子を見て『何をしている』と思いましたか?」

ハ「そうですね。私の個人的感想ですけど、神様に何かをお願いしをしている、お祈りやご祈祷をしているとしか見えませんでした。」
役「そうでしょう。中山みき様は『理が神である』と教えてくれているのですから、こんなモノを拝んだり後生大事に扱って、ご祈祷したところで何の意味もない訳です。もともと『拝み祈祷』でも『伺い立てる信仰』でもない、と言っているのですから。」

ハ「なるほど。」
役「次に、教祖伝ですね。現在教団から発行されている『稿本教祖伝』は、あまりにもオカルトや史実にない事、史実だとしても曲解したり、原因や理由を正確に伝えていない事が多すぎます。」

ハ「あぁ、役員さんが常々言っていた『中山家が母屋を売り払ったのは、教祖様が施しをして貧乏になったからではなく、秀司が米相場で失敗をして借金をしたからだ』というような事ですね?」

役「そうです。その原因や理由を隠して、施しをして貧乏になるのが中山みき様の教えだという教義に歪めて、信者さんからお供えや神様へのお礼を出させるという教義に歪めている訳です。他にも沢山ありますから、真実の教祖の『ひながた』も『教え』も歪んでしまっているのです。あ、こういう話をすると尽きませんので、最初の質問の中身を考えて行きましょう。」

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