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役「まず、これは私の経験と知識で言う事なので、真実事実とは異なっている点があるかも知れない、という事をお断りしておきますが・・・。」
ハ「はい、いつも通りですね?(笑)」

役「そうです(笑)。まず、明治の国家神道、天皇神道で国民の尊敬・信仰の対象を天皇に集めた、集める必要があった訳です。そして、天理教は、弾圧を受ける事を避けるため、逮捕拘禁されないように、教会とか宗教である事を認めて貰う、承認を得るために、中山みきさんの教えを封印し、国家神道の教えを『仕方なく説かなければならなかった』というのが『応法の理』と言われるモノのストーリーです。でもそれなら、『中山みきさんの教えをキチンと守り伝えながら、今は情勢が悪いので表面上は国家神道の形式や教えを説く』という信仰の方法が、あるべき姿です。」
ハ「隠れキリシタンならぬ隠れ天理教ですか?」

役「なるほど(笑)。そして、そういう国家の圧力や方針が変わったら、すぐにも皆が喜んで『中山みきさんの教え』だけを説く、となるはずです。」
ハ「そうですね。」

役「ところが、現実はそうじゃない。旧態依然の組織体制と神への奉仕を説き続け、信者や末端から尽くし運びをさせ続けて来た。『天皇は神だから服従しなさい』という国家神道の天皇が人間になったのに、その代わりに『教祖様は神、真柱は教祖=神の子孫だから神』と入れ替えただけのような信仰を強いています。いや、信仰や教えだけではない。封建的な組織体系も、それを維持する血統主義や世襲制度も、江戸時代そのままの身分制度を残しています。」
ハ「応法の理が続いていたと?」

役「応法の理だというなら、内部では本当の教えが説かれていなければならない筈ですから、応法の理という言い訳をしながら、本当の教えを排除してきた、あるいは、最初から本当の教えなど説く気が無かった、と考える方が妥当です。現在でも、信者や教会によって教えがバラバラだったり解釈が異なったりするのは、本来、隠れながらでも伝えなければならない中山みきさんの本当の教えが伝わっていない、伝えていないからです。」
ハ「しかし、戦後に『復元』という動きがあったのでは?」

役「それ自体もおかしい事なんです。『復元』だとか言われなくとも、あちこちから声が上がらなければならない筈です。中山みきさんの教えを陰ながら伝えていたならば。それが全く上がらない。ほんの一部はあったのかもしれないけど、封じ込められたリ追放されたり、全く知られていません。この事から考えても、本部が何をしてきたか、考えていたか、容易に想像できます。」
ハ「ううむ・・・確かに。」


役「いや、今回、ちょっと古い資料が手に入ったので、昔の事を想像してしまいました。ハルアキさんもお付き合いくださり、ありがとうございます。」
ハ「いえいえ、こちらこそ。」

役「さて、お土産の最後はこれなんですが、どうぞ。」
ハ「なんだ。出来れば最初に出して欲しかったですよ(笑)」
役「これは失礼。大好物なのは知っていますから、ちょっと焦らしてみました(笑)。」
ハ「相変わらず人が悪い(笑)。」
役「類は友を呼ぶ、とも言いますよ(笑)。」


こうして私は、やっと八つ橋を口にする事が出来た。


(今回の資料を提供してくれたI氏に心より感謝申し上げます。)


ハ「今度は何ですか?」
役「ご覧の通り、天理教教典です。」

ハ「何か、箱に入っているようですけど?」
役「ええ、箱に入っています。表書きを確認して、箱を開けて見てください。」

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ハ「表書き?」

よく見ると「梅鉢紋」と「天理教教典」の文字の下に「十章壱組及三條の教憲」と記載されている。

それにしても古めかしい。

ハ「随分古いモノのようですが、何時の時代のモノですか?」
役「正確な年代は分かりません。でも、戦前である事は間違いありません。その『三條の教憲』が物語っています。中身は、明治教典と言われているモノでしょう。」
ハ「三條の教憲?明治教典?」

箱を開けて目に入ったのは「三條の教憲」である。

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第一條
敬神愛国の旨を体すべき事
第二條
天理人道を明らかにすべき事
第三條
皇上を奉載し朝旨を遵守せしむべき事

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ハ「役員さん、この『三條の教憲』というのは、どういったモノなのでしょう?」
役「モノの本によれば、明治政府が国家神道、天皇神道を国民に教え込む内容です。」

ハ「確か、天理教のスタートは『六等教会神道天理教』でしたね?教祖様が亡くなられた翌年だと聞いていますが。」
役「そうです。一派独立するまでは天皇神道・国家神道の教会ですから、その方針を説かなければならない。それが、この『三條の教憲』という訳です。」

ハ「なるほど。いわゆる『応法の理』というやつですね。第一条、神を敬い、国を愛しなさい。第二条、天然自然の理と人の道を明らかにしなさい。第三条、天皇を崇め奉り、朝廷の命令を守りなさい、ですか。第一条、第二条はともかく、第三条は、一列兄弟を説いた教祖様の教えとは真逆のモノですね。」
役「ハルアキさんも随分と歴史や中山みきさんの教えに関して理解が深くなりましたねぇ。」

ハ「いや、それ程でも。役員さんのお話をそのままですから、充分ではないと思いますが。」
役「なるほど(笑)。ここは出来れば、三条全てが中山みきさんの教えとは真逆のモノだと言って欲しいのですが。」

ハ「3条全てですか?」
役「はい。明治政府が推進したのは国家神道、天皇神道ですから、1条の『敬神』は現人神である天皇であり、紀記二典の神話に出てくる天皇家の祖先の事を敬いなさい、と言っているのです。同様に『愛国』も、その天皇家が統治する日本を、その民たる国民は愛しなさい、という事になりますね。」

ハ「いや、なるほど。今の憲法で保障されている『信教の自由』は無かったわけですか。」
役「そうです。同様に2条の『天理人道』というのは、大自然、天然自然の理ではなく、天が造った長幼の序列や身分や立場を維持し守るのが『人の道』であると説いています。これは、明治の貴族制度や明治民法の家父長制度など、江戸時代からの封建体制そのままを法律化したした所からも明らかですね。明治維新になって、江戸時代までの士農工商の身分制度は廃止されましたけど、封建的な考えや制度が全てなくなった訳ではない。上に立つ者や支配する側からすれば、そういう制度や仕組みが有った方が都合が良いのですから、呼び方や形を変えて残しておいたという事でしょう。そういう封建的な制度や仕組みの根拠と言うか、教育的な役割を果たしたのが、この『三條の教憲』とか『教育勅語』だったと言えます。」

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(十章全てを掲載する必要もないと思うので、教典部分はここまで)


ハ「なるほど、そうでしたか。」
役「で、最初の『天理教教祖御一代記』に戻りますが、中山みきさんは『天皇は現人神であり、天皇の祖先は神様である』などとは説いていません。それなのに、この北畠男爵の解説文では、中山みきさんが一生懸命、国家神道、神道教会の教えを説き広めた、という文章になっているのですよ。しかも、この箱の裏面を見てください。」

ハ「箱の裏面?」
教典の納まっている箱の裏を見ると『内務省認可済』の文字がある。

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ハ「内務省認可済み、ですか?」

役「そう、当時の宗教関係、教会関係の管轄がどのようになっていたかまでは正確ではないですけど、この明治教典が印刷発行された時には、『内務省』がこの内容と中身を審査していたのでしょう。完全に、国家神道、天皇神道の教えだけを伝える教会であり、教団だったという訳です。」
ハ「しかし、それはいわゆる『応法の理』というやつで、教典だの祭式儀式だのは国家神道や天皇神道の流れに従わなければならなかったのだと・・・。」


役「それに、これは現代に繋がる『大きな誤り』に通じる部分でもあります。」
ハ「大きな誤り?」


(続く、はずである。)

ハ「前に書かれている部分というと、この□で囲まれた『解説』のようなモノの事ですか?」

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役「はい。写真では読めないかもしれませんし、旧かな使いなどで分かり難いので、『勝手ながら』私が現代文に直したいと思います(笑)。」

(古文に詳しい方のご指摘、修正をお待ちしています)

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天理教会の教祖は、奈良県山邊郡三昧田村前川半七正信氏の長女として、名は美伎子と名付けられ、寛政十年四月に誕生した。文化七年九月、同郡庄屋敷村の中山善兵衛氏に嫁ぐ。生まれながらに美妙が備わり、幼少の時より慈悲慈愛に富み、遂に神勅が下り、天理教の真理(を)社会に宣伝するが、其の間、剣苦艱難(剣の苦しみや辛い出来事?)を積みながら、苦労を厭わず乗り越えて来た事が実現したと言うべきだろう。(天理)教会が盛んになり、本土内外(当時は台湾と朝鮮半島も「日本領」であった)に数百万の信徒を有するまでになったのは、全て教祖の布教と宣伝によってである。ここに天理教奉賛会を設立して、教祖の一生のうち一部を伝記として発行し、広く社会に教祖の『高徳』を伝えようと思う。

    男爵 北畠具雄

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ハ「役員さんが興味をそそられる部分というと、どこでしょう?」
役「まず一つは、この『解説文』を書いたのが、『男爵 北畠具雄』だという事です。」

ハ「男爵ですか。戦前は貴族制度が残ってましたからね。」
役「そうですね。北畠家というと、歴史に興味をお持ちの方ならご存知かと思いますが、戦国時代の北畠具教(とものり)、具房(ともふさ)親子が有名でしょう。」

ハ「ええと、剣術に優れた剣豪大名として知られ、織田信長と熾烈な戦いをした北畠具教ですか?」
役「そうです。織田信長に敗れた北畠家は、信長の次男信雄を養子に迎えて江戸時代に入るのですが、その最初の領地が『大和の国』だったのですよ。」

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ハ「え?そうすると、その縁というか自分の領地内の宗教の事なので、男爵自らが筆を執ったということですか?」
役「私は歴史研究家でも学者でもないので正確な所は分かりません。北畠家も、その後別の養子を迎えたり関東に転封(領地変え)したりしていますが、明治になり貴族制度が採用されると共に『男爵』に任じられたようです。明治時代の日本の貴族制度は、広い領地を所有したり支配したりする訳ではなかったようですが、特権的身分として、こういう商売だの宗教だのについては『何らかの権利』を与えられていたのかも知れません。」

ハ「なるほど、なかなか興味深いですね。」
役「まぁ、実際の所は、学者や歴史研究家の研究や調査で調べてください。私が言った事は全て想像です(笑)。」
ハ「なぁんだ(笑)。で、他にはどのような事が?」

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役「はい。二つ目は、全体として、中山みきさんが艱難辛苦を乗り越えて一生懸命神様の教えを宣伝して天理教を信じる人が数百万人も増えた、という印象を持たせるような文章になっている事です。」
ハ「立教以来、教祖様が教えを説き続け、多くの人に伝わったのは事実ですよね?教祖亡きあと、日本全国に600万人とも800万人とも言われますが、教祖様の教えを守る人が伝えて行った結果でしょうから、間違いとは言えないと思いますが?」

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役「そうですね。たしかに、中山みきさんが教えを伝え、その教えを受けたお弟子さん達が全国に散らばり、多くの人を信者にしたのは間違いないでしょう。問題なのは、その中身なんですよ。」
ハ「中身、というと?」

役「勿論、中山みきさんが伝えたかった『教え』とは何なのかという、中身です。」
ハ「それは勿論、教祖様が残した『みかぐらうた』であり『おふでさき』であり『つとめ』ですよね?」

役「そうです。でも、それらの物はこの時代、まだ印刷物になっていなかった。印刷物になっていたのは、これなんです。」


そう言うと、役員さんはまた脇に置いた鞄から細長い箱のようなモノを取り出した。


役「もう一つのお土産です。どうぞ、ご覧になってください。」

(続く、と思う。)

久しぶりに役員さんに呼び出された。

役員さんが、先日関西方面に行き、そのお土産があるらしい。

関西といえば、当然、『天理教の本部』もあり、役員さんの繋がりなら『櫟本分署跡保存会』もある。他にも独立して中山みきの教義を探求している教会や活動をしている教会もあるのだから、色々と情報を集めて来たのかもしれない。例え『情報』でなくても、京都の『八つ橋』でも買って来てくれたと期待したい(笑)。


役「ハルアキさん、お久しぶりですね。」
ハ「ご無沙汰してます。」
役「毎月とは言いませんが、たまには教会に顔を出して下さいよ。ハルアキさんには色々とお話したいこともあるのですから。」

ハ「すみません。私用が重なってしまって。月次祭は毎月相変わらずですか?」
役「えぇ、毎月第一土曜日に変更して行っています。『神様のお話』と『簡略したかんろだいつとめ』はそのままですが、信者さんの健康と体力維持のために時間をとることにしました。」

ハ「なるほど。失礼ながら高齢な方が多いですからねぇ。」
役「私の両親もそうですし、他の方も高齢ですから、皆さんの健康維持を考えてます。私自身、色々調べたり、体験したりして、それを実際に教会で信者さんにやって頂こうと思う訳です。」

ハ「なるほど。最近は全国的に『健康クラブ』とか『認知症予防サークル』とか、色々ありますよね。」
役「えぇ、そうです。その中から教会の信者さんに向いてる、簡単で効果のありそうなことを選んで体験して頂こうと思ってます。まだ、内容が固まってないので試行錯誤の段階ですが。」

ハ「そうですか。ある程度の形が出来たら教えて下さい。それはそうと、今日は関西に行ったお土産があるそうで?」
役「あぁ、そうでした。これです。」


そういって役員さんが取り出した物は、1本の巻物であった。

ハ「巻物?何ですか、これは?」
役「表のタイトルを見てください。」

巻物タイトル

ハ「『天理教祖御一代鑑』ですか?教祖の伝記のようなモノでしょうか?」
役「そうですね。珍しいでしょう?」

ハ「教組伝だとしても、巻物とはちょっと時代がかった感じですが、いつの時代のモノですか?」
役「まぁ、まずは中を見てください。」

言われて、紐を解き、巻物を目の前に広げて延ばしてみた。

まずは、本部の建物、教組殿などの建物が、絵巻物風に描かれている。
いや、絵巻物風ではなく、絵巻物なのだろう。

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続いては、祭典の様子、月次祭の様子だろうか?

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そして、中山みきの生涯を描いた挿絵と解説文が書かれている。

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誕生から嫁入り、乞食の子供に自ら乳をふくませた逸話や、泥棒に米を持たせて帰してやった逸話、鏡が池に身を投げようとするシーンなど、『稿本教祖伝』でもおなじみの逸話だ。

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ハ「最後は豊田山舎に埋葬する参列の様子ですか。なるほど、正しく教祖の一生を描いた絵巻物ですね。」
役「まぁ、そういう逸話も事実かどうか、怪しいモノがありますけど、広く信じられている、説かれている中山みきさんの一生を描いたモノですから、現在の『稿本 教祖伝』の元になった逸話を集めた絵巻物ですね。」

ハ「なるほど。最後に発行年と発行者が記載されてますね。発行年は大正14年12月25日ですか。大正の終わりギリギリですね。発行者は『上田秀夫』、発行所は『天理教奉賛会』となっていますね。この上田秀夫という人物と、天理教奉賛会というのはどういうモノなのでしょう?」
役「いや、分かりません。私の力では調べられませんでした。これだけのモノを発行するのですから、本部と強い繋がりがある人物や団体だと思いますが、私には分かりません。」

ハ「それは残念。」
役「でも、大正14年。中山みきさんが亡くなって40年弱の段階で、今でも伝わる逸話を描いた巻物が発行されていたというのは、意味が有る事だと思います。」

ハ「なるほど。」
役「それに、私が興味を惹かれるのは、発行年や発行者の前に書かれている部分なんですよ。」
ハ「前に書かれている部分?」

(続く、かもしれない。)