責「そう改まって言われても、今までも言って来た事なのですから。まずは、『元の理』で月日親神が人間を創造したときの目的と言うか、気持ちですが・・・。」
ハ「泥海の地上を見て味気なく思い、人間が陽気にくらす様子を見て共に楽しみたいと思った、という部分ですか?」
責「はい。『陽気ぐらしの天理教』とも言われる位、教え・教義と切っても切れない関係にある『陽気ぐらし』ですが、ハルアキさん、どういう状態が『陽気ぐらし』だと思いますか?」
ハ「陽気ぐらしですか?そりゃあまあ、まずは身体の健康でしょうか。で、生活や必要な事に困らない位のお金があって、仕事はしてても家族と過ごせる休日や時間があって、家族の笑顔と気の合う友人たちがいて、あとは・・・。」
責「結構、色々と必要なモノがありますね?(笑)」
ハ「そりゃぁ、いつも明るく楽しい生活を送るとなったら、色々と必要なモノや家族友人は欠かせません。」
責「以前、ハルアキさんには陰陽二元論の陰と陽、陰気と陽気についてお話しした事があったと思いますけど?」
ハ「あぁ、天と地、明暗、温かい寒い等の、対立する陰と陽の分類と、その対立する二つのバランスが取れている状態が『陽気』で、バランスが崩れている状態が『陰気』だと。」
責「はい。
そして、バランスがとれている、全体が調和している『陽気』は、プラスの方向、成長や発展、新たな命が生みだされる様子です。
その逆の『陰気』は、衰退、消滅、死などに至る様子です。
先程の食物連鎖の話しにしても、『陽気』なら、植物は太陽の光を一杯浴びて成長し、虫たちが大いに食べて沢山卵を産む。当然、小鳥や捕食動物達もお腹一杯で子育てに忙しいくらいだし、それらを捕まえる鷲や鷹も安心して卵が産めます。
火山の噴火や山火事などで植物が減ってしまうと、虫も食べるモノが無くなってあっという間に飢え死にです。昆虫や虫が減れば、小鳥やカマキリたちもエサが少なくなって安心して卵を産むことが出来ないでしょう。最後は、鷹や鷲だってエサが食べられなければ死んでしまいます。
こういう状態が『陰気』ですね。」
ハ「まぁ、陰陽二元論は理解できますけど、どうして『五体満足健康でお金と時間があって、家族や友人と仲良く暮らす』ではダメなのですか?」
責「だって、そんな、物だのお金だの、遊ぶ暇だの、仲の良い家族や友人だのと、即物的過ぎますよ。それが教祖の教えてくれた事の答えだとしたら、ちょっと宗教っぽくないと思いませんか?(笑)」
ハ「でも、責任役員さんは以前から『中山みきさんの教えは宗教という範疇ではない』と言っていたじゃないですか?」
責「それはそうです(笑)。
まぁ、ダメな理由としては『教祖の50年のひながた』でしょうか。
立教以来、教祖の置かれた状況は、
夫を失い、
秀司の失敗で貧乏になり、
近所や村方からは笑われ、
子供にも先立たれ、
他宗教や医者からの妨害はまだしも、
世間では隠居する年齢でありながら、警察に17度も逮捕拘留されるという道すがらです。
そんな人生にも拘らず、ひな型として歩みなさい、
と皆に説いているのです。
物や、お金や、時間や、家族や、名誉などではないのだ、陽気ぐらしは『銘々の心の使い方ひとつ』なのだと教えて下さっている訳です。」
ハ「そんな不幸な部分だけを抜き出さなくても。あれですか?天理教の言葉に、『食べるモノが無くても、水を飲めば水の味がする』というお話がありましたよね?そういう、不足や不満を言わずに有るモノを喜びなさい、という教えですか?」
責「中山家が貧のどん底に落ちたとき、こかんさんが『今夜食べるお米がありません』と言ったら、教祖が諭したという天理教関係者なら誰でも知っている逸話ですね。
その逸話が事実かどうかは分かりませんが、
おさしずにも
『何程宝がありても、身の内より病めばこれ程不自由はあろうまい。自由自在心にある。この理をわきまえ(明21,1.8)』
というお話があります。
心の持ち方、考え方は自分が自由自在に変えられる、決められるのだというおさしずです。」
ハ「教組の言葉は事実ではないのですか?
でも、本席のおさしずにも食べ物が宝物に変わっていますけど、同じようなお話があるのですから、無いモノに不足や愚痴を言うより、有るモノを喜び感謝して喜んで通りなさい、という心や気持ちを切り替える素晴らしい教えですよね?
世の中でも、例えばお酒を飲んでいて、『もう酒がコップに半分しかない』という考え方より、『まだ酒がコップに半分もある』というようなポジティブシンキングをしなさい、という話をよく耳にしますけど。」
責「不足や愚痴で心を満たすより、感謝と喜びで心を満たした方が良いというのは間違いないでしょう。
ただ、この『水を飲めば水の味がする』という教祖のお話しと『何程宝がありても』という本席のお話しは、単純に同じ内容とは言えないのです。」
ハ「え?そうなのですか?どう違うのかよく分かりませんが。それに、責任役員さんが教祖の逸話が事実ではないと考えている理由って何ですか?」
責「理由は簡単ですよ。
中山家が秀司の失敗で貧乏になったのは事実で、その日に食べる米にも不自由になった時期はあったかもしれない。
でも、その時の家族、こかんさんと教祖の会話を誰が聞いていたのでしょう?
稿本教祖伝に載っている有名な話ではありますけど、もしこの状況と会話があったとしたら、その事を知っているのはこかんさんと教祖の二人だけです。
その時代には信者はもとより後のお弟子さんもいません。
同居人もいなければ下女や下男もいません。
その二人だけの会話が後に伝わるとしたら、こかんさんか教祖が後になって皆に話したという事になりますけど、そういう記録も、誰が聞いたという話もありません。」
ハ「なるほど、確かに。」
責「そして一番重要なのは、教祖の逸話だけで考えると、
現実の『食べるお米が無い』という問題を無視して考え方や心の持ち方だけを変えれば良い、というかなり乱暴な教えだという事になってしまいます。
水だけでも数日は生きられるでしょうが、人間一生水だけ飲んで生きて居られる訳はありませんから、
『愚痴を言ってないで隣の家から借りて来なさい』とか
『米は無くても大根があったでしょう?』とかいう問題を解決する方法ならまだしも、
お腹が減るという問題を先送りにして、我慢して違う事で喜びなさいと言われても腹の虫は言う事を聞いてくれません(笑)。」
ハ「では、この教祖の逸話も、例の『芝居の脚本』だという事ですか?」
責「芝居の脚本とは断言できませんが、本席の『自由自在心にある。この理をわきまえ』という部分が抜けているのです。
心の持ち方や考え方は銘々の自由自在で、不足不満で満たすのも、喜びと感謝で満たすのも自由、問題解決に動くのも、放って置いて見えないふりをするのも銘々の自由な訳です。
自由ならば、解決させる方向で心を満たす方が建設的だし、明るく頑張ることが出来ます。
天理教で言われている
『御馳走が目の前にあっても、病気で食べられない人も居る。私達は水を飲めば水の味がする、ありがたいと感謝しなさい。』
という教えだけでは、
『無いモノに不満や不足を持つな、我慢しろ、有るモノを見つけて感謝しろ』
という話しや印象しか受けないのです。
そうすると、不足や不満を持つ事、感じることが『悪』になってしまう。
どんな環境でも不幸な出来事があっても、喜びと感謝で過ごせないと『教えを理解していない』という話になってしまう。
一列兄弟で子供可愛い、この屋敷に来た者は喜ばさずに帰されん、と説いた中山みきさんの教えとは、お話の印象が違うと思いませんか?
だから、この教祖のお話しは、理解が足らない人が話を作ったか、重要な説明や解説を外してしまった結果だと感じられるのです。
これが多くの信者や末端教会を苦しめている『本来の意味を知らずして、遺憾な結果』になっています。」
ハ「根が深いですねぇ。責任役員さんは、不幸や不自由な中での陽気ぐらしの心使いとは、どういう状態だと考えますか?」
責「いきなり本質的な質問ですね(笑)。
勿論、陽気暮らしの心使いが物や金、時間や人間関係などだけで出来るモノではない事は明らかですが、それらを全く無視して心の持ち方や考え方だけで出来るモノでもありません。
言い換えれば、物質と精神、唯物論と唯心論の対立となりますが、どちらか一方が正しいとか、間違っているというお話ではないと思います。
その両方のバランスと調和が大事です。
その上でどのような心や価値観、考え方を作っていくのか、ですかね。
例えるなら、何を基礎にして、どんな柱を、どのような壁を、梁を、天井を、屋根を作っていくのか、どのように心を建て替えていくのかが、教理を勉強する心得です。
優秀な大工さんが建ててくれた家なら、まぁ、安心して住めるでしょうけど、腕の悪い、金儲けの事ばかり考えて手抜きや材料費をケチったりするような大工さんが建てた家では、住み難いかもしれませんし、ちょっとの台風や地震で倒れてしまうかもしれない。
だから、大工さん選びも大事なのですが、根本に必要なのは大工さんを選ぶ自分たちの眼という事になります。」
ハ「ふむ、その眼が先ほどの、使われている言葉、教語の意味や定義、中身をじっくり見る、考えるという事ですね。」
(続く)
責「まず大事な事は、言葉の意味や定義をキチンと考える必要があります。先程も、言葉の意味も定義もしないままで議論したところで立っている位置や見ている方角が違うので意味はない、とお話をしましたけど、同じ教えの言葉でも、人によってイメージや定義、理解の仕方が全く違うのです。極端な事を言えば、『神様』という言葉一つでも人によってイメージや解釈が違うからややこしいのです(笑)。」
ハ「オカルト親父は、教祖に降りてきた神は、他所の宗教の神がどうたらと言っていましたが。」
責「オカルト親父さんは、教祖に降りて来た神の呼び名を、自分が信じる宗教で呼ばれている名前で言っているだけだったと思います。掲示板を読ませて貰った限りでは、神様の定義や能力や役割などは何も説明していなかったように見えましたけど。その神がどんな存在だとか、どういう働きをするとか、どんな力を持ってるとか、一切説明も定義もしていなかった、意図的に説明しないのか、本人も理解してないので説明できないのかは不明ですけど。」
ハ「なるほど。」
責「で、ハルアキさんの方は、『理が神である』として『神様の定義』を説明していますし、それをもって相手の神を否定しようとしていたと思いますけど、相手が『定義していないモノ』を否定したところで議論にもならないし結論も出ませんよ(笑)。」
ハ「あ、いや、ははは。。。」
責「『全知全能の絶対的力を持った神』という存在だって、これが人間界に現れて、悪人を懲らしめ善人には惠をくれる、とか言うならオカルトですけど、人間界には全く手出しをしないで見ているだけだというなら、私達の考える『理が神』と違いは無いんです。」
ハ「確かにそうですね。この宇宙の規則やルール、万物を支配する法則などは存在していますから、それをどんな名前で呼ぶかという違いでしかない訳ですね?」
責「えぇ、人間のような人格を持っていて、好き嫌いや善悪正誤の判断をして、それで世の中にちょっかいを出すと言うならオカルトですけど、厳然と一定不変で存在する基準やルールや法則を神というなら、私達が考えるモノと一致します。オカルト親父さんは、神様の定義をしないでいるのですから、どんな神様をイメージして言っているのか分からないですね。それに、神様以外の話は『世間的にはそこそこ』な事も言っていますから、オカルトとは断定できませんよ。まぁ、どっちでも構いませんが。」
ハ「そうですね。」
責「話を戻すと、教え、言葉、教語の定義については、2代真柱が『続 ひとことはなし その2』の序文でこんな話しをされています。
『その頃、つまり筆を執りかけた頃、私の心を強く打ったものは、種々語られている天理教用語の解釈という事だったのです。つまり、平気で交わしている言葉も使っている人々勝手な解釈のために、その意味を間違って伝え、意志の疎通を欠く結果とさえなると云う事なのです。
勿論言葉にも生命があり、「生きもの」として時代々々によって、その意味内容もかわるものです。しかし、教義内容を、勝手に使い広められた意味で解釈する時には、思いもかけぬ誤りに陥るものであり、又、その自己流な、或は第二義的な意味に固まってしまう、本来の思召しを失ってしまう結果を招く感が多いのであります。
(中略)
それは、教理を自己勝手に流し、それで教理を語り、責任を教語に託して曲道に導入するからであります。
「ぢば」だけではありません。「ひのきしん」や「ほこり」の解釈についても、段々と都合よい様に解釈され、慣用され、それによって漸次、何れが本来の意味かを知らずして、通俗化して遺憾な結果をもたらすものとおそれたのであります。
(後略)』
大変厳しい話しですし言葉です。
教団の歪みばかりでなく、今現在も全国の各大教会や上級教会などで起きている、多くの信者や部下教会の苦しみ、悩み、問題点などの原因を端的に表した内容だと言えます。
『教理を自分勝手に流し、それで教理を語り、責任を教語に託している』
勿論、各所で問題になっている教理の自分勝手解釈、自分に都合の良い解釈は、その口にしている本人が考えたモノではないかもしれないし、先人や何処かから聞いただけかもしれない。
でも、その中身を考えず、吟味もせずに、その場で思い付いたり都合の良いように使ったりして益々歪んでいく、ズレていく。
それに気づかず『~~に書いてある、~~が言った。』等と責任を教語に押し付けて、ますます歪みやズレを大きくさせてしまう。
もう、歪みどころか、原形や本来の道すら何だか分からないような状態になってしまっているのではないでしょうか。」
ハ「そうですね。責任役員さんが離脱手続きをしている時も、教会制度のどこが一列兄弟なのですか?という質問に対して、教会制度と教祖の教えは分けて考えなければならない、と言っていた大教会役員が居ましたが、分けて考えられるのなら、教祖が警察に17度も逮捕拘禁されたご苦労は何だったのでしょうね?」
責「全くです。そういう歪んだ考えや自分の都合の良いように解釈して語って、その責任を教語のせいにしてしまうのですからどうしようもないです。二代真柱の話は昭和25年のことですから、70年ほど前のことです。真柱がこれだけハッキリと、厳しく言っていたのも関わらず、それが解決されないまま時が流れ、代が変わってますます歪みが大きくなっているのが現状の教団や各教会の有り様でしょう。これでは、教えが伝わるどころか、信者が逃げたり、後継者が逃げ出すのも当然です。中山みきさんの教えに含まれている精神や心といったものが全く見えなくなってしまっているのですから。」
ハ「責任役員さんは、常々、『今の教団は、中山みきさんの教えの耳障りの良い言葉だけが残っていて、看板にだけ使われているようなもので、その中身も精神も心も全く別物の教理や教え、指導やお諭しなどが蔓延している』と言っていましたけど、2代真柱でさえ心配していた、懸念していた状態になってしまったという事ですか?」
責「勿論、二代真柱やそれ以前の時代は問題が無かった、という訳ではありません。中山みきさんが存命中からあった問題、起こっていた事だと言えます。ハッキリ言ってしまえば、おふでさきは『教義解釈に関する傍な者への叱責と指導』、おさしずは『教義の解釈と教団運営に関する叱責と指導』だと言えます。そういった種々の歪みや問題が、教団組織が大きくなり、社会の発展と情報の伝達が早くなったので、誰の眼にもハッキリと見えるようになってきたという事でしょう。」
ハ「なるほど、早く教団関係者、本部や指導者が解決する方向に舵を切って貰いたいですよね。」
責「それもそうですが、私の言いたい事は違いますよ。」
ハ「え?」
責「最初に言ったように、教理を勉強する上で、私たち自身が気を付けなければならない事なのです。会長さんが言った事だから、偉い先生が言う事だから、どこそこに書いてあったから、なんて理由で100%信じてしまう事が問題だという事です。全てを疑えという訳ではありませんが、その言葉の意味や定義をキチンと捉えて、どのような使われ方をしているかを考えないと、『本来の意味を知らずして、通俗化して遺憾な結果をもたらす』事になります。」
ハ「勉強する上で、ですか。そういった言葉や教語の意味を覚えるのが、教理を学ぶ事だと思っていましたが。」
責「世の中では、見るも因縁、聞くも因縁、とか言って、見たこと聞いた事は全て受け入れなさい、等と言う人も居ますが、勉強しようと思うならそれだけではダメです。受け入れるというのは、自分が持っているその言葉のイメージや解釈、定義と、いま見聞きした言葉のイメージや解釈との違いをハッキリさせて、二つを比較検討して、どちらが正しいのか、どちらを選択するべきかをジックリ考える必要がある訳です。具体的に言うなら、『神様』なんて言葉だけをとっても、人によってイメージも定義も違います。同じ宗教を信じる者同士でも違いがあるでしょうし、特に天理教などでは明確になっていない部分も多いので、まさに『バラバラ』だと言えますよね。」
ハ「なるほど。『月日親神』だけでも、責任役員さんが言うように『理のみの存在』と解釈もできるし、キリスト教のように『天地創造の絶対神』だと思っている人も居る。神道に出て来る神様のように『天界に住んでいて、何かあったら地上に降りて来る』と思い込んでいる人も居るし、『お願いすれば、人間の病気を治したり困った人に助けの手を差し伸べてくれる不思議な力を持った神様』だと思っている人も居る。教典にも『元の神実の神』として人間を創造した神様で、教祖の身体に降りて来た、という表現がありますが・・・。もう、何が何だか分かりませんね(笑)。」
責「更に言うなら、二代真柱は、昭和25年に天理大学の学生たちに
『今度出た教典も、まだまだそこに使ってある言葉は、教祖がおっしゃったお言葉と違ったり、あいまいに使ってある点があるから、みんながしっかりと教祖のお言葉から考えてその誤りを指摘し、直していかなければならない。これからの勉強はそれだ。』
というように言われたそうです。
今度出た教典というのは、昭和24年に刊行された『天理教教典』で現在も使われているモノです。真柱ご自身が裁定して認めたモノを、1年もたたずして直していかなければならない、と仰ったわけですから、最初から『違う』という事が分かっていて発行した訳でしょう。その話を聞いた学生の中に八島英雄氏もいらっしゃって、八島氏はその言葉でその後の人生や方向性が変わったと記しています。」
ハ「しかし、教典ですらあいまいだとなると、天理教用語辞典や色々出ている解説本なども怪しくなりますね。とすると、あとは・・・。」
責「やはり、原典しかないでしょうね。あとは、原典とはされていませんし、取り上げる部分は慎重に考える必要がありますけど元の理・泥海古記でしょうか。とはいえ、これらをいくら読んでも、言葉や教語の意味や定義、解釈はしてくれません。全体を読んで、話しの流れや繋がり、結びつきや関係性などを考えながら、全体の雰囲気や教えに流れる骨格や精神、神の心というものを読み取っていくしかありません。それがそれぞれの言葉の定義であり、意味であり、使い方になる訳ですから。」
ハ「なかなか大変な勉強になりそうですが・・・。」
責「0からこれをやるのは大変です。おそらく、思考の試行錯誤と迷い道の連続で迷子になってしまうのが普通でしょう。でも、幸いにも先人が居ますし、色々と教えてくれる先生もいます。私は運が良かったと言えますね。」
ハ「では、その教義解釈をひとつ・・・。」
(続く)