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ハ「おふでさきに書いていないモノが教理として平然と語られている事にも問題があるように感じます。」

責「五つの埃が八つの埃になって、その内容や解釈も歪んでしまった。こういった事も『神の心を受け入れられない考えや価値観』の圧力というか、対立の結果でしょう。なにしろ、『神の心を受け入れられない』という事は、『神の心に真っ向から反対する、対極にある価値観』ですから。こういった事はキリスト教などにも語られている事で、聖書の中にもイエスが『眼の中の丸太』と言っています。」


ハ「眼の中の丸太ですか。どういう事でしょう?」

責「私は日本語訳の聖書しか読んでいませんし、文章そのものは忘れてしまいましたので間違っているかもしれませんが、
たしか、イエスが神の心を受け取ることが出来ない人たち、聖書の中では律法学者とかファリサイ派の人達と呼んでいますが、その人達に向かって

『あなた方は民衆に向かって、眼の中のおがくずを取りなさいと説法をするが、何故あなた方自身の眼の中の丸太を取り除こうとはしないのか?』

と批判する場面があります。
この、おが屑にしても丸太にしても、神の心と違う、神の言葉を見ることが出来ない、神の教えを受け取れない人達が持つ考え方や価値観です。」


ハ「おが屑に対して丸太とは、ずいぶん頑固な考えというか、なんというか。ちなみに、イエスの言う丸太とは、教祖の言う埃と違いがあるのでしょうか?」

責「イエスは、丸太が何であるかを具体的には言っていません。

あくまでも例えとしておがくず、丸太と言っているだけなので、どのような考えや価値観の事を指すのかは聖書を読んだ人が自分で判断するしかありません。

その点では、中山みきさんは

『おしい、ほしい、かわいい、よく、こうまん』

と具体的に言っています。

イエスは『神の国』という表現で神の心が実現された社会や世の中の事を言っていますが、中山みきさんは元の理から始まる『かんろだいつとめの世界』で神の心が実現された社会や世の中の事を教えています。

かんろだいつとめの意味や内容については以前もお話ししましたので省きますけど。」


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ハ「あれ、ちょっと待ってください。キリスト教では人間社会とは別の、死後の世界として善人や教えを受け入れて悔い改めた人達が行ける世界として、神の国とか天国の事を教えていますよね?」

責「そういう解釈が一般的だと思うのですけど、そこも一歩踏み込んで考える必要があるでしょう。仮に、キリスト教が死後の世界としての神の国や天国の存在を主張しているだけなら、この世、人間が生きている間にするべきことは、死後に天国に行きたいから教えを守り、地獄に行くのが嫌なら悪い事をしてはいけない、という教えになります。」


ハ「そうですね。そういう宗教ではないのですか?」

責「じゃぁ、天国も地獄も死後の世界なんて信じない、という人達に対してはどういう説明をしますか?」


ハ「ええと、そういう人達は神様の存在そのものを信じないのだから、説明出来ませんし、説明する必要もないでしょう。」

責「そうなりますよね。でも、イエスの言った神の国、天国を、今この世で生きている人達の社会で実現するために『悔い改めなさい』と説いていたのだとしたら、どうでしょう?」


ハ「あれ?それは、本当の話ですか?仮定の話ですか?だとしたら、と言うのですから仮定の話ですよね?」

責「はい、仮定の話です。ハルアキさんはイエスの教えが、死後の世界に天国に行くか地獄に行くかの違いがあるから、生きている間に悔い改め神の言葉を受け入れて生活しなさい、という教えだと理解している訳でしょう?」


ハ「そうではないのですか?少なくともキリスト教ってそういう教えだと思っていましたが。」

責「生きている間に悔い改めれば天国に行けるという教えなら、極端な話、死ぬ直前に悔い改め洗礼を受ければ良いのだから、それまでは好き勝手な生き方をしよう、という解釈も成り立ちませんか?」


ハ「まぁ、そう言われればそうなのかもしれませんが、実際のキリスト教ではどう解釈しているのでしょう?」

責「知り合いのキリスト教関係者に質問した限りでは、そのような都合の良い考え自体が神の受取る事ではない、と言ってましたけどね(笑)。」


ハ「まぁ、そんな考えでは、死ぬ間際に本当に悔い改めたかどうかも分からないし、それで天国に行けるとなると早くから悔い改めた人に失礼というか、不公平のように思えますが。」

責「まぁ、普通に考えたらそうなりますよね(笑)。
でも、神の世界、神の思し召し、神の物差しで見たら、そうとばかりも言えません。
というのは、イエスの言葉でも『罪深い者ほど赦される』という趣旨の内容が沢山あります。お金持ちが神の国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しいとか、身を売って生活の糧を得ていた娼婦などが真っ先に救われる、などという話もあります。
我々の人間世界で当たり前とか常識だと考えられている尺度や価値観と、神の世界の価値観は違う訳です。」


ハ「我々人間社会の常識や当たり前などの考え方では、世の中はダメだと?」

責「当然です。現実世の中は、仏教では『苦の世界』ですから。実際、絶えず世界中で戦争や紛争は起こっています。貧富の差は広がる一方だし、貧しい国や子供たちは今日食べるパンもない、なんて事がある訳です。」


ハ「その点、日本は平和で豊かですよね。本当に良い国だと思います。」

責「何を言ってるんですか。戦争や紛争はないものの、日本だって貧富の差はあるし、差別や凶悪犯罪は無くなりません。特に、ここ20年以上も続くデフレで国民全体が貧しくなっています。子供の貧困問題、国民全体の実質所得の減少、災害の度に指摘されるインフラの未整備、お年寄りの交通事故やブラック企業の問題、毎年の人口当たりの自殺者数は世界でも類を見ないほど多い、などなど、挙げたらキリがありませんよ。」


ハ「え、あの、日本の経済や政治、社会の様々な問題があるのは確かですけど、それとこれとは。」

責「ハルアキさん。そういう現実の問題の殆どは、多くの人が持っている『神の心を受け取ることのできない考え方や価値観』から起こっている事です。

社会全体の『心どおりの守護』の姿です。

東日本大震災で亡くなられた方、行方不明者は18,000人を超えるそうですが、日本国内で毎年の自殺者は30,000人を超えます。
今でも避難所生活をされている方が大勢いるし、建物や建築物への被害は地震の方が圧倒的に多いでしょうが、人命だけでいうなら毎年の自殺者の方が多いのです。
インフラや建物はお金を掛ければ修復する事は出来るでしょうが、亡くなられた方の命は戻りません。」


ハ「政治や経済と宗教は別だと思うのですけど。」

責「キリスト教の『神の国』や中山みきさんの『かんろだいの世界』に政治や経済は無いと思いますか?

キリスト教の『天国』や『神の国』は死後の世界の事なので、その世界の人間たちは飲み食いも着る物も必要とせず、生産も消費もしないから現実のような経済とは無縁の世界だと言う人がいるかもしれません。

あるいは、食べ物も人が望んだり考えただけで何処かから湧き出て来るとか言いそうですけど。

でも、現実社会に生きている私達が、現実社会の政治や経済を全て棄てて生活は出来ません。

勿論『神の国』や『かんろだいの世界』と違うからと言って全てを否定する訳でもありませんし、今すぐ全てを変えろと言っている訳でもありません。
しかし、宗教や信仰が今現在私たちの生きている世の中を『神の国』や『かんろだいの世界』に導くものでなかったら、信じる事も考える事すら無意味になってしまいます。

みかぐらうた12下りの1下り目が経済の教え、2下り目が政治の教えだという事は以前にもお話ししましたよ。」


ハ「あぁ、そうでした。」

責「『神の国』と『かんろだいの世界』が同じものだと言うつもりはありませんが、どちらも神の理で運営されている状態です。

理想と言われればそれまでですが、そこにこそ人間社会、人間個々人が目指すべき生き方や社会があるのではないでしょうか?

そういう社会に少しでも近づく為に働くのが『ようぼく』たる役割です。今の社会の中で産み出される難渋を助けるのも大事な人助けですけど、それで終わりではないと言えます。」






責「という事を前提にして考えた場合、おさしずに『自由自在』という言葉があります。あくまで私個人の解釈ですけど、この『自由自在が陽気ぐらしの心使いの始まり』だと思います。」

ハ「自由自在、自分の思ったように、好きなように、ですか?」


責「勿論、個人主義が認められた現代の『自由』とはちょっと意味合いが違う点に気を付ける必要があります。現在の自由は、個人の勝手、やりたい放題、他人に迷惑が掛からなければいい、という感じになっていますけど、そういう方向の『自由』ではない事はお分かりかと思います。教祖のお話しでは『米』、本席のおさしずでは『宝』が出てきますが、そういうモノに執着しない、囚われない、拘らない、という『自由』でしょうか。」

ハ「食べ物や宝よりも大事なモノ、健康や家族、命という事でしょうか?」


責「私も最初はそう考えたのですけど、教祖のひながたを考えると、自分の命すら拘っていない感じがします。

『劇画 中山みき物語』を読んで頂いてお分かりと思いますけど、教祖は89歳という高齢で『最後の獄舎』の拷問を受け、実際に床から離れられないままで一年後に亡くなっています。

自分の命が大切ならば、警察に捕らわれるような教えを引っ込めて、秀司や真之亮がやったような認可を受けたり、教会の公認運動や、表向きだけでも政府のやり方に逆らわないようにする方法はあった訳です。

実際に、以前見て頂いた『明治教典』は、最初に国家が打ち出した『三条の教憲』で、後の十章のうち、最初は『敬神の章』として八百万の神と十柱の神を、教祖の教えていない、天皇家の祖先の名前を連ねて『総称して天理大神』と呼んで『奉祀す』となっていますから。⁺

でも、教祖はそうはしなかった。

そうすることで自分の命はなくなる事が分かっていながら、正しい教えを説き続けた訳です。

『親の命25年縮めても正しい事を説き続けた自由自在の心』の使い方です。

もっとも、私などにはとても真似の出来ない『自由自在』ですが。」


ハ「命にも拘らない『自由自在』ですか。何ものにも拘りや執着を持たないというと、仏教の『無』に通じる所があるように思えますね。全てを棄てて仏の道を歩む、解脱する、最後は、即身仏が思い浮かびますけど。」

責「教祖が子供の頃から仏教の信仰をしていた事は記録にも残っています。とはいえ、即身仏のような道ではなく、郷の仙人の道を歩み、その教えを伝えています。その理由として、親神が人間の『ようきゆさんがみたいゆえから』だと仰っています。世の中の生活を投げ捨てて、一人で解脱や悟りの道を追求するのは違う、という事でしょう。」


ハ「教組のひながたですか?」

責「はい。
『自由自在』は漢字の意味をそのまま考えれば『みずからに由って、みずからが在る』となります。
漢文読みなら『自分が在るのは自分に由る』かな?
仏教用語にも『じゅうようじざい』という読み方で似たような意味の言葉がありますね。」


ハ「何物にも拘らず、執着せず、自分の心の有り様で自らの人生が決まる、という事ですか。」

責「教えの中にも、心通りの守護とありますし、なってくるのが天の理ですから、今の状態や環境は自分の心で作ったものだという事です。


ハ「それって、因縁とか輪廻転生のお話しに通じませんか?」

責「そうですね。単純に考えれば過去の自分の言動が今の自分を作っている、という当たり前の話ですが、時間軸を生まれ変わりの前生まで伸ばすと、前生の行いの良し悪しで、生まれて来た今世の環境が変わるという、輪廻転生の意味になってしまいます。
だけど、逆に時間軸を短くして今現在で考えれば、『自分で決めた瞬間に自分は変わることが出来る』となりますよね?
教えの中身を知らなかったのなら仕方がない事ですが、知った以上は、最大限に活かしましょう。」


ハ「何物にも執着しない心使いと言われても、何をしたらいいのかさっぱり分かりませんが。」

責「物事には順番と段階がありますから(笑)。

金や物、家族にさえ拘らない、執着しない、と言っても、決して粗略に扱えとか、無駄使いしろという訳ではありませんし、全く必要ないとか要らないという訳ではありません。

このあたりを履き違えると、助かりたかったら全財産をお供えしなさいとか、病気を治して欲しかったら100万円出せ、なんて歪んだ解釈になってしまいます。

昔の話ですが、ある大教会の某大教会長が、事故で下半身が麻痺してしまった信者さんに『助かりたかったら100万円お供えしなさい』と言ったそうです。ところが、その信者さんは50万円しかお供えしなかった。大教会長は渋い顔をしながらも50万円のお供えを受け取って、一応、おさづけをしたそうです。

その後、その信者さんは治療やリハビリを頑張ったそうですけど、残念ながら片足しか回復しなかった。それを見た大教会長は、皆の前で『俺が100万お供えしろと言ったのに50万しか出さなかったから、片足しかご守護を貰えなかったんだ』と言い放ったそうです。

本当に酷い話ですが、いえ、この信者さんがお金に執着していたから良くないという訳ではありません。

執着しているのは大教会長の方です。

こんな教理解釈をするような大教会長の下では、信者さんも部下教会も、ようきゆさんの心使いなんて、とても出来たモノではないでしょうね。」


ハ「それは何とも、酷い話ですが・・・。」

責「そういうお金や物に縛られた考え方や価値観では、どれ程良い話や教えを聞いても、結局、その縛られているお金や物に引きづられて解釈や判断が歪みます。
かと言って、そういうモノから全て解放された『自由自在の心使い』をしなさいと言われても、その境地に至るまでにはそれこそ『即身仏』にでもなるしかない。

私に出来る事は、一つ一つの考えや判断、言葉や行動が『自由自在であるか?』と『神の理に添っているか?』のチェックをする、常に自分の心をチェックする、自分の心の中に別の心を持つ事を忘れない、という事くらいです。」


ハ「何か、常に反省している、という感じですか?」

責「まぁ、ひと言で現せばそうなりますね。」


ハ「でも、信仰心のある人なら、常に自分の心を見直す、反省するというのは、結構当たり前にやっている事ではないでしょうか?」

責「そうですね。天理教に限らず、宗教は自分の内面、心の在りようや考え方、物事の受け取り方や自分の言動を見直す、という教えや教義を基に自分の内面に向かって行くものだと理解している人は、当たり前にやっている事でしょうね。
天理教関係者でも、熱心な信者さんほどそういう傾向が強いと思います。
この、神様の教えや教義を使って、自分の内面に向かうか、外面に向かうかという姿勢が、同じ宗教を信じるという事でも、その人の姿勢や解釈で大きく違ってくると思いますけど。

まぁ、私個人としては、これもバランスと調和が大事だと思います。

内ばかりに向かっていても独りよがりの信仰になってしまうし、外ばかりに向かっていても自分の事がないがしろになってしまう。

内と外のバランスを取ることが『陽気』ですから。

ま、普通は『反省』というと、何か間違ったり問題が起きた時に、叱られたり怒られて自分の行動を見直して『もう二度としません』なんて反省文を書かされたりしますよね。
私も子供の頃はいたずら好きだったので、学校で先生に叱られ居残りさせられて、よく書かされましたよ(笑)。
大人になってからだって、仕事や人間関係、日常生活でも、問題やトラブルがあれば、その原因が何だったかを考え、どうすれば良かったかを心に刻み込み、二度と同じ間違いやトラブルを起こさないように気を付ける、注意するのは当然です。」


ハ「そうですね。子供の頃は学校でよく二人で叱られましたよね?大抵のイタズラは、責任役員さんのアイディアで、私はそれを実行するだけだったと思いますけど。」

責「あれ、そうでしたか?ハルアキさんも一緒に楽しんでいたと思ってましたけど。それに、子供のやる些細ないたずらにあれほど怒らなくても良さそうに思いますけどね。」


ハ「嵐の日に学校の窓の桟に洗剤を注入して廊下中を泡だらけにしたり、気にくわない先生の授業の時に大きなカエルを教卓に乗せて、箱を被せて置いておきましたよね?先生が箱を持ち上げた途端に教室中がパニックになりましたけど、これも『些細なイタズラ』ですか?」

責「どちらも後片付けが大変でしたね。どれも良い思い出です(笑)。子供なら誰だってその程度のイタズラはするでしょうし、学校生活のイベントのようなモノですよ。」


ハ「そりゃぁ、イタズラは楽しかったけど、叱られるのは私の方が多かったのも事実です。」

責「実行犯ですから仕方ありません(笑)。でも私も逃げずに、ハルアキさんを庇って一緒に怒られたでしょう(笑)」


ハ「まぁ、それはそうですが、最後は責任役員さんとは遊んじゃいけない、なんて親に言われたことも有りましたよ。」

責「まぁ、大人達の無理解とお仕着せの教育というのは、困ったモノです(笑)。」



ハ「あれ、何の話でしたっけ?」

責「ハルアキさんが子供の頃の話をし始めたからですよ。まぁ普通『反省』というと、間違ったり問題が起きた時の原因を反省し、どうすれば良かったのかを考えることになります。それが次に活きてくる訳ですから、失敗や間違いは大いに結構な事なんです。エジソンも『天才は1%のヒラメキと99%の汗である』と言っていますから。」


ハ「ちょっと待ってください。悪戯で叱られて反省文を書くのと、エジソンの言葉は同じ事を言っているとは思えませんけど?」

責「おや、どう違うと思いますか?」


ハ「ええと、子供のイタズラや大人の間違いなどは、ルールや決まりを破ったり外れて起きたトラブルや事故などに繋がる訳ですから、周囲に迷惑を掛けますし、二度とその様な事を起こして貰っては困りますので、厳しく反省する必要があるでしょう。でも、エジソンの話は発明の心構えと言うか、偉業をなしとげた人には見えない失敗や隠れた努力の積み重ねがあるという教育的格言ですよね?並べてお話をされても納得しにくいです。」

責「そうです。単なる反省というと、嫌な事、叱られることに繋がりますけど、神様との関係の中で反省する事は、エジソンが多くの発明品を生み出したような、前向きで楽しみな反省なのです。それで、自分も、周囲も、世の中も明るく元気になり『皆が陽気に暮らせる社会』に近づくのですから。」


ハ「ルールを破っていたずらしたり罪を犯したりする事の反省とは違う感じですけど・・・。」

責「そう、その『ルールや決まり』という奴です。
憲法だの法律となれば国民全員が守らなければならないモノでしょうが、それでも常識とか当たり前だと言われているルールや決まりだって、おかしなモノは沢山ありますよね。

そもそも、そのルールや決まりは、何のために、誰のために、誰が決めて、皆が守っているのか、という事ですよ。

常識とか普通は、などと言って納得させようとする人が多いですけど、言っている本人、守らせようとしている本人だって根本を考えていない場合が多いのです。」


ハ「ええと、例えば、責任役員さんが被包括関係を廃止しようとしたとき、大教会から派遣されてきたS教会長のように『こういう規則でやって来たのだから、変えろと言う方がおかしい』というような事ですか?」

https://ameblo.jp/kyoukai-sitei/entry-12303420280.html?frm=theme

責「そうですね。この教会規則が教祖の教えに反している、沿っていないという事が分かっていながら、一番大事な事を考えることもせずに、『離脱する教会が悪い、間違っている』と言うだけでしたから。」


ハ「それが『自由自在』ではないという事でしょうか?」

責「まぁ、S教会長に教祖の教えがどうとか、教義解釈がなどと幾ら話しても、自分が世話をしている、自分の部下や子分だと思っていた末端教会の子弟から言われたのでは、一切受け付けないという事は分かっていましたけどね。
心が組織や大教会に囚われているのに気付かず、考え方や価値観が歪んでしまっている典型だと言えます。あの時は、S教会長との話は時間の無駄だと判断して早々に話題をずらしましたけど(笑)。

これと同じで、いくら教祖の教えや教義を勉強しようとしても、その人の心が組織やお金、何かにに囚われていたら、全く理解できないし考えることも出来ないと言えます。」


ハ「なるほど、確かに、何かに囚われていたら、判断や結論は歪みますね。」

責「そういう、自分の中にある考え、価値観を取り除かないと、どれほど良い教えや真実を眼にした所で歪む可能性があるのです。かと言って、誰でもそうなのですが、自分の考えや価値観で自分の判断基準が歪んでいるという事に気が付かないのが普通なのです。これを中山みきさんは、『くせしょうぶん』と言って、『とりなされや』と教えた訳ですから。」


ハ「それって、その人の問題になる性格とか、ついついやってしまう癖の事ではないのですか?」

責「広い意味ではそういう個人的な癖や性格も含まれますけど、おそらく、中山みきさんが言いたかったのは『神の心を受け入れられない個人の考えや価値観』の事でしょうね。

人間はロボットではないのだから、ハルアキさんの言う癖や性格の違いなんて多少あっても問題は無いでしょう。

まぁ、酒乱とか女癖が悪いとか言うなら問題でしょうが、性格なんて言葉の言い方で良くも悪くもなりますから(笑)。

でも、神の心を受取ることの出来ない考えや価値観を持っていたら、心の鏡が曇っていたら、真実や物事を見る眼が歪んでいたら、神は居ないも同然ではないでしょうか。

その最たるモノが『埃』だという事です。」


ハ「八つの埃、ですか?」

責「以前もお話ししましたけど、おふでさきに書かれているのは、おしい、ほしい、かわいい、よくとこうまんの5つです。にくい、うらみ、はらだち、は入っていません。」


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