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『道の先達の心得』その6


役「という、『お道の結構さ』を十分理解した上で、先達としては行動を起こす、形に表すという事が重要ですから、次の段階に進むことになります。頭の中だけで考えていても物事は進みませんから、具体的な日常の行動という事になります。」

ハ「それが次の章の『にをいがけ』ですか?」
役「そういう事になります。ただ、勘違いしないでいただきたいのは、本来『にをいがけ』とは、他人に対して何か話をするとか働きかけるというものではなく、その人本人が思案を巡らし日常生活やあらゆる事に『教えを実践して行く』事です。野に咲く花が蜂や蝶々を呼び寄せたり見せて歩いたりしないように、花は花としてそこに咲いているだけ、その花の香りや佇まいで『花が咲きましたよ』と周囲に知らせるだけです。周囲が気が付かないなら、それはそれでも良いのです。」

ハ「なるほど。ご尤もです。でも、折角の素晴らしい月日親神の教えですから、他人に教えたり話したくなるのは人として当然ではありませんか?」
役「それも確かですね。本当に素晴らしいと思える事、そしてその教えを実践したらこんなに良い事があったという体験談なら、ちょっとお話するくらいはイイでしょう。でも、押し付けたり無理に誘う必要はありません。あくまでも『自分で実践する事』が大事ですから。」


にをいがけに就いて

一、お道のおてびきというのは、単ににをいがけだけではなく、匂いをかけて導いて行き、おたすけを頂かせ、成人させて行き、更にその人自らを、他人に対してこのようにおてびき出来る導き手にならせて行く、このような全課程をいう。これがお道の布教活動である。


ハ「『にをいがけ』かと思ったら、『お道のおてびきというのは』と説明をしていますね。そして『布教活動』と締めくくってますが、これはどう解釈したらよろしいのでしょうか?」
役「布教活動というのは解釈が難しいですね。先達なら勘違いするような事はないでしょうが、それほど信仰に深くない人は勧誘や布教活動をしなければいけないのか、と勘違いされるかもしれません。

でも、教祖様は教えの事を『宗教』だとか『神を拝め』等とは言っていないのですから、大勢集めてお祭りをしたり催し物をしたりする必要は無いのです。

でも、この教えを実践する、形にする上では、月日親神ののぞみである『人間が陽気に暮らす様』『誰も苦しむ者の居ない世の中』『一列兄弟でろくぢの世界建設』の為には大勢いた方が実現の可能性が高まります。ですから、先ほど言った『にをいがけ』も出来るなら積極的な方が良いのは確かです。

個人が実際に出来る事は、その人自身の身の回り、せいぜい家庭の中だけです。でも、二人三人と集まれば、その人達の間で『誰も苦しむ者の居ない関係』で『陽気で楽しく助け合いのグループ』が出来る訳です。その輪を広げていくのは大事な事ですね。」

ハ「そうすると、まずは自分が教えを理解して自分自身の価値観や考え方を改め、生活の中で実践して行く。そして、それを周囲の人に関心を持って貰えるように形にして、興味を持った人に話をしていく、誘っていく事が『にをいがけ』だという事でしょうか?」
役「難しい所ですが、少なくとも『自分が実践できないのに人を勧誘する』のは間違いでしょう。具体的に何をどう変えたら、何をどうしたら実践した事になるのか、という重要な課題もありますが、銘々の解釈や考え方もあるでしょう。先達と言われる人達なら勘違いするような事はないでしょうが、少なくとも教え全体を十分理解し、把握し、世の中の事、社会の事、身の回りの事が『教えに沿っているかどうか?』を判断できるようにならなければ始まりません。そして、教えに沿っていないなら『何が原因なのだろうか?』『どうしたら良いのだろうか?』と考える事です。常に、判断の基準や根拠を『神様』に置くことが大事です。」

ハ「それが出来てこその、導き手、という訳ですか。」


二、凡そおてびきは、親神のおたすけを、 一波が万波をよぶ如く、次々と人々に頂かせて行くものである。それは親神のお働きの取り次ぎである。故によふぼくたるものは、単に自分の力ですることなのではないから、親神に働いて頂くという自信を持つことが大切である。
三、然も矢張り、よふぼくの誠真実を土台として親神が働かれるのであるから、自分自身としては、一つの理立てを以てつとめさせて頂くのが肝要である。そしてこのような中にこそ、真にこの道の信仰の喜びと楽しさが味わわれる。おてびきをしない人は、どんなに尽し運んでも、又永年信仰しても、いんねんをきりかえて、ほんとにたすけていただくことはむつかしい。


役「という事が理解出来れば、この二、三で使われている『親神のおたすけ』とか「親神の働き」という言葉も充分に納得できます。
これを理解しないでこの二、三を読むと『親神が働いて助けてくれるのだから自分は何もしなくていい。ただ連れて来ておさづけを頂かせればいいのだ。』というような頓珍漢な解釈になってしまいます。
そうではなく、自分の価値観や考え方を『教えに沿う』ようにして次の人を導いていく。次の人が納得してくれないとしたら、原因は誘った人の『心の中の親神』が不十分だったかもしれないし、誘われた人の心の中に『親神の入る余地が無かった』のかもしれない。
それでその人が導かれるかどうか、助かるかどうかは『親神の働き次第』なのです。」

ハ「子供の勉強でも仕事などでも、他人に教えられるようになって初めて理解したと言える、という話がありますから、それと同じような意味なのでしょうか?」
役「その通りだと思います。教える側は教えられる側より、深い知識と理解が無ければ教えられないですからね。
知識も理解もなく『俺は先生だから偉いんだ』などと威張っている人は誰からも相手にされません。
頓珍漢な話しや解釈を押し付けるのも、生徒の方がうんざりしてしまうでしょう。
ましてや、間違った教えを押し付けられたのでは、教えられた方だけでなく、教えた方も不幸になりかねません。諸井慶徳先生も『おてびきをしない人は、本当に助けて頂く事は難しい。』と結んでいます。『おてびき』は自分の理解や知識、実践行動力の不足や問題点を知る上でもとても大切な事なのです。
勿論、先達なら当たり前に出来る事でしょうし、私が言うまでも無い事ですが。」

ハ「導く人を鏡にして自らを省みる訳ですか。奥が深いですね。」
役「また、『どんなに尽し運んでも、又永年信仰しても、いんねんをきりかえて、ほんとにたすけていただくことはむつかしい』という諸井慶徳先生の言葉は、『尽くし運びは意味が無い』という風に受け取れますね。
長年尽くし運びをしても助けて頂けないなら、最初からする必要はありません。そんな事なら、最初から『おてびき』と『にをいがけ』を考えて知識を増やし、理解を深め、実践行動して次の人に伝える事が大事だと言えるでしょう。
諸井慶徳先生がこう仰っているのですから、上級や大教会への『尽くし運び』などは止めてしまいましょう(笑)。
それが『先達の心得』ですから(笑)。」

ハ「なるほど(笑)。」



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