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『道の先達の心得』その7

四、このおてびきの第一歩をなすものがにをいがけである。まだ真にこの道の信仰を知らない人に対して、信仰への誘いであり、導きである。
五、にをいがけには、何にもまして先ず、自分がにをいがけすることによって、必ず先方が幸になるという信念が大切である。信念なくては何事も出来ない。特ににをいがけの場合はそうである。


役「ここでやっと『にをいがけ』の意味と重要性が出てきますね。『信仰への誘い、導き』であると。」

ハ「でも、最初にお話したように、野に咲く花がその匂いで虫を呼び寄せるように、無理な勧誘とか話を聞かせる必要は無い訳ですよね?その『にをいがけ』というのが具体的にどういう事なのか、全く分からないのですが説明して頂けますか?」
役「具体的にですか?言葉で言ってしまえば『何もせずに本人が喜びを感じていればイイ』という事になりますかね。野に咲く花が喜んでいる状態、その生命、精一杯喜びを表現しながら生きている状態が、花が咲く事だと考えれば分かるでしょうか。」

ハ「すみません。何もしないでどうして伝わるのでしょうか?」
役「例えば、ハルアキさんが先日こちらに来た時、最初から妙にニコニコしていて嬉しそうでしたよね?」

ハ「ええ、こちらに来る前日に競馬で勝ったものですから・・。」
役「でしたね。で、私が『妙にうれしそうですけど、何か良い事でもあったのですか?』と訊いたら『競馬で勝った』と教えてくれたわけです。で、そのお裾分けにお酒をご馳走になって有難うございました(笑)。」

ハ「いや、まぁ、その程度は別に。」
役「『にをいがけ』とはそういう事です(笑)。」

ハ「え?」
役「つまり、ハルアキさんが競馬で勝って懐が温かくて、その嬉しさや喜びが表情や態度に出てくる訳です。その匂いを私が感じて『何か良い事があったのですか?』と興味を持ったわけですから。」

ハ「そりゃ、人間ですから、嬉しい事や楽しい事があれば表情や態度に出ますし、行動にも表れるでしょうが、それが天理教で言う『にをいがけ』と同じだという事ですか?」
役「本来は同じなんです。月日親神のご守護を理解し、その教えを心に修めて日々の生活を改善改革し、教えに沿った生活をすると、自然に喜びが湧いて来る、笑顔でいられるようになる。その様子を周囲の人が嗅ぎ取って興味を持ち、訊きに来たり、話しを引き出そうとするようになるんです。これが本当の『にをいがけ』だと思います。」

ハ「本来の『にをいがけ』ですか。そうすると、本人が喜びも嬉しさも感じていないのに、単に勧誘のためのお話などは『にをいがけ』ではないという事になりますが、天理教内で行われている、話されている『にをいがけ』はズレていますね?」
役「私の両親なども、大教会の会長会議で毎月のように『にをいがけ・おたすけをしろ!』と発破を掛けられて来る、という事が常でした。でも具体的に何をしたらいいか分からない、戸別訪問など出来る環境でもないし、身情事情の人を探し回るような事も出来ない。一か月間何もできないままで、次の月の会長会議でまた発破を掛けられる、なんて信仰生活をしていたようです。これなどは、『にをいがけ・お助けしろ!』という大教会長も間違っていれば、両親も勘違いしているという典型的なパターンでしょうね。」

ハ「それが末端教会の会長さんの様子だとすると、何か、憐れみを感じますね。」
役「えぇ、その頃の両親の様子は、見ているこっちが苦しくなるような信仰をしていましたよ。」

ハ「でも、天理教の信仰をしていて、教えを深く勉強するなり理解を深めて行ったとしても、本当に『喜びや嬉しさや楽しさ』を感じられるものでしょうか?」
役「勉強や理解を深めただけでは難しいですね。実際に、それを形にする、行動に移す、家族や教会の中で実践行動してこそ、身体は嬉しさや喜びの『にをい』を出してくれるのです。ハルアキさんが競馬で勝ったことを考えただけで、周囲の人から見て笑顔や態度に嬉しさが現れて来ると思いますか?」

ハ「いや、思い出し笑いならともかく、無理ですね。」
役「でしょう?実際に勝たないと、『にをい』にはなり難いのですよ(笑)。」

ハ「しかし、役員さんのご両親がそうだったように、実際に教会を運営していて、信仰をしていて、喜びだの楽しさだのを感じられるものなのでしょうか?」
役「感じられないのは、信仰の仕方ややり方、現実の状態が間違っているからです。それを改善改革する事が『教え』の主眼です。理想と現実は違う、なんて言い訳は、月日親神の立場では関係ないのです。『人間が陽気に暮らす様子を見たい』というのが神の願いなのですから、それを実現するために、喜べない、楽しめない現実を変える為に日々行動する事が必要なのです。諸井慶徳先生の言葉にも『まず先方が幸せになるという信念』とあります。それには、自分が幸せにならなければ、その『にをい』なんて出ないのですから。これが『先達の心得』です。」

六、そして自分が誠真実ならば、誰にでも好かれる筈であるという信念を持っていなければならない。きらわれるのは欲の心である。


役「さすがに諸井慶徳先生のお言葉は重みがあります。真真実ならば誰からも好かれる訳です。神様の教えを心に修め、自らを律して身の回りから、自分の関わる家族や身近な人から、神の望む関係や状態を創っていく、改善改革していく訳です。その様子を見て『変わった事をやってるな』と思う人はいても、嫌いになる人はいない、という信念が大事です。そして、その様子を見れば興味を持ち、自分も真似をしようと思う人が現れてくる、こうして『にをいがけ』が出来る訳です。」

ハ「現在、天理教で言われているような、単独布教や戸別訪問は『にをいがけ』ではない、という事でしょうか?」
役「勿論違います。諸井慶徳先生もこのように述べられているのですから。」

ハ「では、最後の『きらわれるのは欲の心である』というのはどういう事でしょう?戸別訪問などの『にをいがけ』をして断られたり忌み嫌われる事を指しているのでは?」
役「そういう、自分で教えを理解せずに、信者を獲得しようという『欲の心』で布教をするから『きらわれる』のです。それを教えてくれているのですね。あとは、私は上級や大教会などは大嫌いですけど、それも上級や大教会が『欲の心の塊だから』だと諸井慶徳先生は教えてくれました(笑)。道の先達の心得として、この事は肝に銘じてお行かなければならない事です。嫌われるのは『欲の心』であると(笑)。」

ハ「なるほど。嫌いになる事が悪いのではなく、嫌われる方が悪い、と。」
役「いえいえ、『悪い』等とは言っていません。上級や大教会が『欲の心の塊だ』と諸井慶徳先生が教えてくれただけです(笑)。」

ハ「そうですか(笑)。」



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