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役「『何をしてくれる』という考え方はちょっと違いますが、それを考えるのに、みかぐらうたから引用させて頂きますね。

三下り四つ ようようここまでついてきた  じつのたすけはこれからや
   五つ いつもわらわれそしられて  めづらしたすけをするほどに
四下り五ツ いつもたすけがせくからに  はやくようきになりてこい
   六ツ むらかたはやくにたすけたい  なれどこころがわからいで
   七ツ なにかよろづのたすけあい  むねのうちよりしあんせよ
五下り一ツ ひろいせかいのうちなれば  たすけるところがままあろう
   二ツ ふしぎなたすけはこのところ  おびやほうそのゆるしだす
   七ツ なんでもなんぎはささぬぞえ  たすけいちじょのこのところ
   八ツ やまとばかりやないほどに  くにぐにまでもたすけゆく
六下り二ツ ふしぎなたすけをするからに  いかなることもみさだめる
   四ツ ようこそつとめについてきた  これがたすけのもとだてや
   五ツ いつもかぐらやておどりや  すえではめづらしたすけする
十下り二ツ ふしぎなたすけをしていれど  あらわれでるのはいまはじめ
   六ツ むごいことばをだしたるも  はやくたすけをいそぐから

という風に、十二下りの中で14回も「たすけ」が出てきます。これだけ考えても中山みき様の教えは「たすけ」が中心・重要な事だと分かります。で、この中にも「じつのたすけ」「たすけあい」そして「ふしぎなたすけ」が3回、「めづらしたすけ」が2回出てきます。

仮に、仮にですよ。先ほど言った『事情身上のたすけ』が中山みき様が意図する教えてくれた「たすけ」だとしましょう。
そうすると、この「じつのたすけ」「ふしぎなたすけ」「めずらしたすけ」は何を意味するのでしょう?どんな「たすけ」なのでしょうか?ハルアキさん、どう思います?」

ハ「そうですね・・・。『じつのたすけ』ですから、中途半端ではなく『徹底的なたすけ』とか、『ふしぎなたすけ』は、事情身上がその場でスッキリ解決する、治ってしまう、とかですかね?伝記や逸話編にも眼の見えない人がスッキリご守護頂いたとか、真実誠をお屋敷に運んだら精神的病が治ったとか、幾つかあったと思いますけど。ええと、『めずらしたすけ』は・・・ちょっと区別が出来ませんね。」
役「なるほど。そうすると、中山みき様の教えようとしていた『ふしぎなたすけ』と『めずらしたすけ』は、医者にも見放されたような人にスッキリ治療をする魔法のような『たすけ』という感じでしょうか?癌が治ったとか、くも膜下出血で倒れた人がその場で回復したとか。」

ハ「はぁ、ちょっと疑問はありますけど、天理教の中ではそういう話もありますよね?」
役「事実かどうかは分かりませんが、たまに信者さんの中からそういう話が出てくる事は否定しません。後は、そういった事を更に考えると、お金に困っている人が信仰して宝くじが当たったとか、競馬で大穴当てたとかいう『ご守護』になるのかな?先程の道路の陥没ならその場で穴が塞がったとか、土砂崩れが起きても不思議な助けで崩れた土砂が元に戻ったとか、かな?」

ハ「ハハハッ、そういう金銭的な話は疑問ですね。元々『貧に落ちきれ』が教えの根幹なので金銭的ご守護は無いのでしょうか?道路の陥没が跡形もなく消えたとか土砂崩れが元に戻ったって、映画の逆回しという訳では無いのですから有り得ませんよ。」
役「まぁ、そういう理屈も、多くの人が何となくそう思っている部分だと思いますけどね。後は、嫁姑問題で悩んでいる人が、一夜の間にも実の親娘のように仲良くなったとか、ブラック企業で苦しんでいる人が突然超ホワイト企業から引き抜きにあって、給料は増える休みも増えて楽になったとかいうご守護があれば『ふしぎ』ですかねぇ?」
ハ「それは『ふしぎ』ですね。」

役「あと、先程の伝記や逸話編、信者さんの間で話される中山みき様の『ふしぎなたすけ』というかハッキリ言えば『魔法のような病たすけ話』なんですけど、本席を始め他のお弟子さんにはそういう話が一切ないのはどうしてでしょうね?まぁ、一部教会ではそういう人がいたとか、初代がそういう力を持っていた、なんて所もありますけど、中山みき様の周辺にはいませんね。」
ハ「たしかにそうですね。他の人はそういう力を持っていなかった、授けられていなかった、ですか?」

役「いや、元々、中山みき様がそういう『超常的な力や魔法のような病だすけの力』を持っていたとする方がおかしいのですよ。」
ハ「なるほど。」

役「何と言っても中山みき様は『ひながた』とされています。元からそんな超常的な人助けの力を持っていた人を『ひながた』にするのがおかしいし、天理教で言われているような『天から神様が降りて来て宿った』と云うのが本当なら、人間は何もせずに神様が下りてくるのを待っていれば良いだけになってしまいます。」
ハ「しかし、何もせずに待っているだけでは神様が降りて来るかどうかなんて何の保証もありませんから、そこは『中山みき様を目標にひとだすけに精を出している人』に降りて来るとか・・・。」

役「ハルアキさん、自分で言っていて、矛盾に気が付いていますよね?言葉を出すのが苦しそうです。」
ハ「ええ。先程からの話を総合すると『事情身上のたすけ』だけで考えると矛盾が出てしまう。それを解決するのはオカルト摩訶不思議の世界になってしまうので、理論が破綻してしまいます。ただ、そういう『事情身上のたすけ』は必要ないとか関係ないという風に断言できないような気がして・・・。」
役「それが正解だと思います。『事情身上のたすけ』は必要というか基本なのです。そこがスタートである事は間違いありません。でも、中山みき様の教えは『事情身上の無いと思われている人を含めて世界中全ての人をたすける教え』だという事です。」

ハ「たしかに、経済的に豊かだとしても幸せとは限らないし、今は健康でも人間いつ何時事故にあうか病気になるかは分かりませんからね。でも、そういうのって仏教の世界のように思えますけど。」
役「良い所に気が付きましたね。確かに仏教では世の中の思うようにならない事として、四苦『生・老・病・死』と『愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦』の4つを合わせて、四苦八苦と呼んでいます。これらは無くそうと思っても無くなるものではないので、逆に、これらに執着して気に病んだり悩み続ける事そのものを『煩悩』としています。」

ハ「結局、煩悩を捨ててあるがままに受け入れなさい、という事になりますか?」
役「まぁ、四苦八苦をどうするかはその道の専門家に任せるとして、中山みき様は全く違う方向に行っている、行っていたと思いますよ。」

ハ「全く違う方向ですか?ちょっと想像できないのですが。」
役「まずは、先程の『事情身上のたすけ』だけではなく、『世界中全ての人をたすけたい』という部分です。つまり、中山みき様の立教の段階で『全ての人がたすける対象』だったという事を考えなければいけません。おそらく、今現在も『全ての人がたすける対象』でしょうし、そういう『たすけ』が中山みき様の教えであり内容だと理解しないと、いつまで経っても『皆が陽気に暮らせる世界=陽気づくめの世界』は実現しないと思います。」
ハ「今現在、困った事や悩みがない人でも『たすけ』の対象である、という事ですか?」

役「そうですね。今現在『事情身上の無い人』でも『陽気ぐらし』をしているかどうか、と考えた場合、どう思いますか?」
ハ「それは、そういう立場や環境でそれぞれが感じる事でしょうから何とも・・・。でも、スポーツ選手や芸能人など、収入や生活ぶり、大きな家に住んだり高級車に乗ってそれなりの暮らしをしていますよね。先の事は分からないとはいえ、若いうちに十分な貯えをして老後も心配ない生活をしている人が居るでしょうし。あるいは、大企業の経営者家族や大物政治家とか高級官僚と言われる人達も、普段の生活もそうですけど、退職金まで世間一般の人より多いですよね?」

役「まぁ、それが私達の世間一般の価値観や考え方だと思います。それなりの収入があってそれなりの生活を送ることが出来れば、『幸せ』だし『陽気な暮らし』じゃないか、という。」
ハ「それが違う、という事でしょうか?」

役「はい。実際にそういう人達は『幸せ』を感じているのでしょうか?毎日の生活が充実していて、気力や気持ちが喜びにあふれている『いさみ』の毎日なのでしょうか?そうではないのではないか、決してお金や周囲の人と比べて、高級なモノを持っているからといって幸せとか喜び溢れた生き方は出来ないのではないか。という今現在のそういう価値観では『人間は陽気ぐらしできない』し『成人も出来ない』と教えているのが『みかぐらうた十二下り』なんですよ。」
ハ「確かに『幸せは他人との比較や銀行口座の残高で決まるモノではない』とも言われますよね。」

役「逆に言えば、そういう他人との比較や資産の過多で幸せかどうかを判断する『心』が問題なのです。身体は『貸しもの借りもの』なのですから、どのように使うか、使わせて貰うかで『心が喜びを感じられるかどうか』に繋がります。勿論、豊かで便利な世界、世の中の方が良いのは間違いがありません。でも、現在のように偏った豊かさや資源や利権を奪い合うような世の中は、人間の心が歪んでいるから発生している訳です。その辺りも十二下りで教えて下さっています。」
ハ「なるほど、教えはそのように繋がっているのですね?」

役「ええ、教えの言葉はほぼ全て繋がっています。単独に取り出してしまうと、個人個人で勝手な解釈になってしまうので、全体が滅茶苦茶になってしまうのです。それに、従来のおつとめの方法では『十二下り』ですら神様に対するご祈祷や奉納の手踊りみたいになってしまっています。それでは、心の入れ替え、つまりは銘々が中山みき様の教えてくれた『本当に生れ変った人間』になれないし、陽気づくめの世なんて実現出来ませんから。」
ハ「なるほど。では、まずは『十二下り』の意味を考えないといけない、という事ですね。」
役「はい、長くなりますのでじっくり考えていきましょう。」


役「ハルアキさん、ちょっと神様のお話をしませんか?悪い話じゃないですよ。この世界を形造って、人類の始まりを創った、元の神様のお話です。」
ハ「何ですか、藪から棒に。何かと思えば『おつとめ』の『ちょいとはなし』じゃないですか(笑)。」

役「(笑)。いえね、私の方から神様についてのお話をする場合に、何か切掛けとなるような言い回しはないかと思っていたのです。」
ハ「私に対しては、そんな言い回しは結構ですから。」
役「そうですか?では本題に行って良いですか?」
ハ「どうぞ、どうぞ。」

役「ハルアキさんも天理教用語と言われる『言葉』が沢山あるのはご存知だと思いますけど、その中から重要なモノというか、勘違いされやすいモノを拾い出して考えていきたいのですよ。」
ハ「なるほど。天理教の教えというか、理解をするには重要な事ですね。」

役「今日は『人を助ける』という言葉と内容を考えていきたいと思います。」
ハ「教外でも『人助けの天理教』なんて言われる事もありますね。」

役「はい。教内では上級から部下教会や信者さんに対して『においがけ、お助けしなさい。』という叱咤激励が飛ぶことは良くあります。というより『お助けする事』が天理教の信仰だと言えます。『おふでさきやみかぐらうた』にも『助ける心が真の誠』とか『助ける心がないのが残念』というような言葉が沢山出てきます。」
ハ「なるほど、信仰する人の役割というか行動原理、信仰心の発露とも言える内容でしょうか。」

役「ええ、私の両親(会長夫妻)なども、会長会議などで大教会長から毎月のように『においがけ、おたすけが足らない。』と檄を飛ばされて、教会に戻って来てはあれこれ思案はするものの、結局大したことも出来ずに一月が過ぎる。そして、会議でまた同じ事を言われる、と溢していましたよ。でも、大教会長も『においがけ、おたすけしろ』とは言うものの、『どういう人』に対して『何をしてあげる事』がお助けで、『最終的にどうなれば』お助けした事になるのか、という話や議論は殆どされないのですよ。」
ハ「ええと、ビジネス的に言い変えれば、『Plan・Do・See』が曖昧だという事でしょうか?」

役「そうです。信者も教会長の殆ども『お助けしなさい』という言葉から、銘々の考えや価値観で判断してるのが現実だと思います。勿論、ひながたである『教祖様』の『お助け』が逸話や伝記で残っていますが、正確とは言えませんし怪しいモノが多いのです。」
ハ「それでは、信者さんも困りますし、誰かに訊いても判断がバラバラでは意味が無いに等しいですね。教団や教義として、行動や判断が統一されていないのでは、何の為の組織かとなります。」

役「それが今の天理教全体の問題にも繋がっていると思います。そこで、ハルアキさんは『人を助けなさい』『お助けしなさい』と言われて、『どういう人に』『何をしてあげる事』だと思いますか?」
ハ「そうですね。色々あると思いますが、困っている人に手を差し伸べたり、親切にして上げたり、例えば、電車の中でお年寄りに席を譲るとか親切にしてあげる事。悩んでいる人の相談の乗ってあげて、悩みを聞いてあげて、解決策を一緒に考えたり具体的な行動を示唆してあげたりとか。後は、実際の募金やボランティア活動も人助けでしょうし、目の前で事故か何かあって怪我をした人がいれば、救助や治療の手助けとかでしょうかね。火事の現場で素人の私が火の中に飛び込んで人命救助は出来ないかもしれませんが、その人への経済援助とか。近年、地震や大雨などの自然災害も多いですから、被災者への経済的支援やボランティアに参加するなどのサポート等が人助けだと思います。天理教の中でも『災救隊』というのが有ったのではないですか?」

役「はい。『災救隊』の話は後にして、ハルアキさんの意見をまとめると、人に親切にする、個人的問題の解決の手助けや援助、災害などの現実問題の人的金銭的援助やサポート、といった感じですね。天理教では事情身上と言われている部分の『人助け』ですね。」
ハ「そりゃぁ、まぁ、現実に問題なり困っている事があって、誰かの助けが必要とか、助けがあった方が良いから『人助け』になるのでしょうし。何も困っていない人を『助ける』事は出来ないし、必要ないでしょう?」

役「普通はそう考えますよね。いや、天理教関係者だけでなくほぼ全ての人がそう考えると思います。ではもう少し掘り下げさせて頂きますが、例えば、ハルアキさんが道を歩いていたら、その少し前に水道管の破裂か何かで路面が陥没して、落ちて怪我をしてしまった人が目の前にいるとしましょう。どうしますか?」
ハ「そりゃあ、そういう事故なら駆け寄って怪我の状態を確認して、必要なら応急手当てをするとか、救急車や警察を呼ぶとか、必要なら家族に連絡を取ってあげるとか、ですかね。まあ、警察や救急車が来れば、後は任せてあまりお節介な事はしない方が良いでしょうけど。」

役「そうですね。とりあえず目の前の困ってる人を助ける、何かの手配をするのが人助けでしょうが、この場合、それで終わりでしょうか?」
ハ「これで、というと?」

役「はい、穴に落ちた人を助けるのは勿論ですが、事故の場合は『二次災害を防ぐ』という重要な事があります。つまり、他の人が穴に落ちないように呼びかけをするとか、囲いをするとかして、これ以上怪我人が出ないようにしなければなりません。更に言えば、その穴そのものを塞ぐ、復旧させなければ終わった事にならない訳です。」
ハ「それはそうかもしれませんが、そこは警察だの行政だのの役割ですね。」

役「はい、勿論そうです。我々一般の人間が交通規制をしたり、道路の陥没を埋めるとか復旧させる事は出来ませんが、そうやって、問題の原因を取り除くまでが『人だすけ』なのではないかと思う訳です。もともと行政や警察などの仕事や目的には市民へのサービスや生活の安全を図るというモノがあるのですから。」
ハ「なるほど。現代社会ではそれを分担してやっている、という訳ですね。」

役「はい、まあ、仕事の分担はともかく、目の前の困っている人を助けるのと同様に、その原因や問題そのものを解決する、解消する事も大事だという訳です。」
ハ「確かに必要な事ですね。他の人が同じような事で困ったり、苦しむ事が無くなるならその方が良いです。」

役「そういう事です。では別の視点から考えますが、そういう『人助け』って中山みき様が教えてくれなかったら、誰も知らなかった事でしょうか?日本人は誰もそういう『人を助ける事や心』を持っていなかったのでしょうか?」
ハ「え?いや、そんな事はないでしょう。もっと昔から当たり前にあった事でしょうし、皆がそれなりに持っていたと思います。まぁ、先年の東日本大震災の時に話題にもなった日本人の秩序正しさと、互いを尊重して助け合う気持ちや行動、日本人の美徳とも言える事は、何時からとは言えませんけど、昔から有ったと思います。」

役「そうですね。災害などの時に必ずではないでしょうが、他所の国なら暴動だの略奪だのが起こりやすいのに比べて、日本人は秩序と冷静な行動が際立っていて世界からも称賛されています。あの様子は、戦前の大正時代に起きた関東大震災の時も同じように日本人は秩序を保った行動と助け合いをして、世界から注目されていた報道記事が残っているのですよ。」
ハ「そうなんですか?関東大震災というと、日本人がデマに扇動されて朝鮮人の大量虐殺をしたとかいう事件ばかりが聞かされていますが。」

役「それもどうやら事実と異なるようです。当時の記事を調べていくと、不逞鮮人が日本政府の転覆を図って計画していた所、関東大震災が起こってしまったので略奪暴行の直接行動に切り替え、それを各地の自警団や警備の日本人と衝突して両方に被害が出た、という記事が沢山見られます。今、その記事は手元にはありませんけど、ネットって便利ですね(笑)。まぁ、その問題はともかく、関東大震災も一応中山みき様の亡くなられた後の事ではありますが、中山みき様が、そういう『人助け』を教えてくれたから日本人がそういう行動をした、という訳では無いと思いませんか?」
ハ「まぁそうですね。え、という事は・・・?」

役「気が付きましたか?まぁ、順番に考えていきましょう。中山みき様が教えてくれた月日親神は、世界一列皆が可愛い子供で、一列全てを助けたい、という神様です。今現実に困っている人だけ、悩んでいる人だけ、事情身上を抱えている人だけの神様ではないのです。」
ハ「はい、では、現実に事情身上の無い人には何をしてくれる神様だという事なのですか?」

地方の小さな分教会が本部(宗教法人天理教)との被包括関係を廃止し、その経緯や方法、それから起きた出来事、上級や大教会とのやり取りなどをネットで公表しました。
記事は、「1/17000の闘争と逃走」(トップページのリンク集)
https://ameblo.jp/kyoukai-sitei
からお読みください。

中には否定的な意見も有りましたが、多くの方から励ましや応援のメッセージを頂きました。

そして、幾人かの方からは真剣本気で『被包括関係廃止手続きに取り組みたい』というご相談を受けています。

ある方は、私と同じように『中山みき様の本当の教えを追求したい』という想い。
別の方は、老齢の信者さんや地域への貢献の為、有する資格を活かして『介護施設やグループホームを設立したい』という想い。
また別の方は、教会を整理して先祖がお供えした土地建物を取り返したい、という想い。

メールでやり取りをする中で、全員が「現状の教会規則では何もできない」という認識を強くします。

『中山みき様』の本当の教えなら、お供えやお礼などは一切ありません。月日親神への感謝の気持ちを「上級への尽くし運び」等という事は有り得ない話です。月日親神が望んでいるのは「人助けをしなさい」だけです。信者さんにそのような話をさせて頂いても、定期的に巡教に来る上級や大教会の人間が「ぶち壊して」しまいます。歪んだ神様の教えを説いてお礼やお供えを出させようとします。こんな事をされても、現在の教会規則がある為に「逆らうと教会長の職を失う事になる」ので逆らう事ができません。

『介護施設やグループホーム』のような信者さんや地域の為の事業を行なおうとしても、資金調達や施設を作り変えようとする度に『大教会長の同意と本部の承認を得る』という教会規則に抵触します。ましてや、元々利益を出そうと思っている訳では無い『介護施設やグループホームのような事業』ですから、上級や本部へのお供えやお礼の負担ばかりが重荷になります。それを計算すると他の事業所より高額な料金になってしまう為に本来の目的を遂げることも出来ません。

教会を整理解散するには、当然『大教会長の同意と本部の承認』が必要です。仮に解散が認められたとしても、『教会の残余財産(土地建物を含めて全て)は、宗教法人天理教に帰属する』のですから、会長家族は長年住んでいた教会や住宅などを明け渡して出ていくしかありません。そもそも、最初から解散など認められるはずもなく、教会長の首をすげ替えられて教会や住宅から追い出されるだけでしょう。自分の先祖がお供えした土地建物でも、自分達の思うようには使えないのです。

現状の教会規則では、自分達の思った事ややりたい事が全て制限されてしまいます。別に「好き勝手したい」とか「我儘放題の事をやりたい」という訳ではありません。世の中の誰でも持っている『自己実現と夢の実現』です。今の封建主義的教会制度では、基本的人権とも言えるそれらの願望を摘み取り、末端教会は服従と隷属の人生を歩まされます。

末端教会がこれを解決する方法は、この封建主義的組織と規則から逃れる方法は、本部との『被包括関係を廃止』して教会規則を変更するしかないのです。勿論、被包括関係を廃止すればそれなりのデメリットもありますから、判断は個人の自由です。

相談を頂いて、具体的に準備を開始されている方の言葉(一部加筆修正)を紹介いたします。


「被包括関係を廃止する事の重要性、必要性が本当に認識できました。
 何よりも行動する事が大事だと思います。
 今回、このブログを通して最初の波を見せて頂きました。
 天理教全体からすれば小さな波かもしれません。
 でも、小さな波の連続が大きなウエーブになると考えます。
 連続する小さな波の一つになれるよう頑張ります。」


私の思いをくみ取ってくれた、大変嬉しい言葉です。
また、この方も手続きが完了したところで情報公開を考えていらっしゃるので、私の場合とはまた違ったストーリーになるのではないかと思います。

是非とも成功させて頂きたいと心より祈念いたします。
(いや『拝み祈祷では無い』のだから、全力でサポートさせて頂きます。笑)

  国々所々つとめ場所  役員

役「先程の箇条書きからすると、月日親神は非常に人間臭い神様だと思えませんか?」
ハ「ええ、そうですね。まるで、日常の生活に潤いが欲しいから花でも育てようか、という感じで人間を創ったと・・・。」

役「そんな感じですよね。花壇に花を植えたのなら、水をあげたり雑草抜いたり、色々手入れをするのが普通ですけど、月日親神は人間に『知恵と言葉と文字』を仕込んだだけで、他には何もしてくれていません。」
ハ「あぁ、役員さんは月次祭でもそう言っていましたね。世話をする代わりに、知恵と言葉と文字を仕込んで、後は自分達でやれ、と。」

役「そうです。まぁ、でも人間たちが上手くやれないのでシビレを切らせて中山みき様に降りて来た、とも解釈できますけどね。」
ハ「なるほど、それも人間臭いな。」

役「ところが、神様について重要な事があります。

『理が神である』

という言葉です。」

ハ「『理』というと天理教では様々な意味で使われているように思いますが。」
役「そうですね。具体的に全てをあげて解説すれば一冊の本が書ける位になりそうですけど、大まかには、理立てという『お金』と、発言者の主張や考えを基にした『立場』と、組織や教団維持の論理構成を擁護する『根拠』の部分かなと思います。全て上の者の都合の良いように使われている感じですけど。
今回の被包括関係廃止手続きの中でも、上級や大教会側から『理がない』とか『理が違う』等という言葉を何度も言われました。私の主張や話は、法律や社会常識、規則の文言を一応は正確に解釈して言っているにも関わらず、ですよ(笑)。」

ハ「それは原稿を読ませて頂いて感じました。原稿に書かれていない部分でも、結構言われていますか?」
役「えぇ、勿論(笑)。このおメドウにしてもちょっとした事件というか騒動があったのですが、原稿に全ては書き切れません。
まぁ、それはそれとして、この『理が神』という場合の『理』なのですが、国語辞典的解釈をするべき、しなければならないと思います。というか、みかぐらうたやおふでさき全般にわたって、国語辞典的意味で考えなければならないのではないかと思っていますが。」

ハ「なるほど。するとこの『理が神』というのは、理論、法則、真理、道理、といった意味ですか?」
役「そうです。『教えの理論、法則が神様なのだよ』という訳で、先程お話しした『人間臭い神様』とは全く違います。」

ハ「あぁ、理論や法則に人間臭い感情は入る余地は有りませんからね。その時の気分で言う事ややる事が違うのでは真理とは言えませんね。」
役「そうです。同じ天理教信者や関係者でも、月日親神の事を『人格神』と考えている人も多いです。人格神というのは、一神教の神様のように人間臭いというか、元々人間同様だけど天地創造の力を持った特別な存在で、その時の気分や感情、状況によって人間にご褒美をくれたり、災害を起こして罰を与えるといった事をする訳です。旧約聖書の神様なんて、正しくこの通りですよね。」

ハ「という事は、役員さんは、少なくとも中山みき様の神様、月日親神は人格を持った存在ではなく、理論や法則で成り立つ神様だとお考えですか。」
役「はい。天理教内でも色々な意見や考えはあるでしょうが、私個人としては元々オカルト否定派ですし、理論・法則・真理といった教義体系が本質だと思っています。
こう考えると、稿本教祖伝の矛盾や逸話編でもおかしな所、不条理な所が排除できるのです。というより、排除して行かなければ本当の中山みき様が残された教えが歪んだままで終わってしまいます。
勿論、私の考えを押し付けるつもりもありませんし、私が言う理屈や理論で答えをはじき出すような『神様』を味気ないと思う人もいるでしょう。
それに、天理教内で話されている教義は、断片的だし統一された流れが見えないと思いませんか?まぁ、個人の事情身上の相談なら、その人その場に合わせた話だけでも良いのでしょうけど、天理教の教義全体を勉強したいと思う人に、断片的で矛盾するような内容では、全く理解されません。
もっとも、信仰は自由ですから、ハルアキさんがどちらを選択するのも自由ですよ。」

ハ「それは難しい選択だなぁ。でも、私もそれを理解する立場を取らないとこの先の原稿が書けないですよね?」
役「立場というか、『理』ですから話を聞く、体験する、じっくり考えれば分かる事だと思います。中山みき様が教えてくれたのは、文字としては『おふでさき』、言葉と手振りを合わせた『みかぐらうた』です。後一つ、これが重要ですが、形や全体の雰囲気、人間が体験するという状態で『かぐらつとめ』を教えて下さいました。この教会では『かんろだい』や『面』ですらまともに揃っていない状態ですが、その意味する処や中身について、学ぶべき事については、全体の入り口程度かも知れませんが伝えられると思っています。」

ハ「形や全体の雰囲気、体験する状態?それが理なのですか?」
役「はい。文字や言葉だけでは伝えきれないモノがあるのですよ。その目で見て貰う、実際に体験する事で理解出来る部分かと思います。例えば、地球と世界の国々の事を誰かに伝えるのに、言葉だけで話をしようとしても理解されにくいでしょう?」

ハ「形とか大きさとか、海に覆われていて大陸があって、沢山の国々に分かれている、とかですかね。」
役「そうですね。でも、世界地図を見せればその形や様子を理解しやすくなりますよね?」

ハ「国の大きさとか、地形とか、数字や言葉を並べても想像しにくいけど、地図を見れば比較もしやすいです。百聞は一見に如かず、ですね。」
役「でも、元々地球は丸いものです。それを平面に落とし込むと歪みが生じます。モルワイデ図法とかメルカトル図法とか、色々工夫はされていますけど、実物と同じ、という訳には行きません。」
ハ「なるほど。」

役「そこで、地球儀を見せれば、より正確に理解できるようになる訳です。日本からアメリカに飛行機で行く場合の最短距離が、メルカトル図法では弧を描く曲線になってしまう理由も地球儀の上で糸を使ってみればすぐに理解できます。」
ハ「あぁ、小学校の時に授業でやりましたよ(笑)。」

役「私もやりました(笑)。まぁ、地球の全体像はロケットで宇宙に飛び出してみれば見えるでしょうし、いずれ誰でも宇宙旅行が出来る時代が来るでしょうから、そこで宇宙船の窓から見る事が出来るようになるかもしれません。
でも、中山みき様が教えてくれた『かぐらつとめの理』は、人類創造から始まる人間の心の中、本質、月日親神の世界の話なので、見えないモノを形にして見せてくれて、体験させて理解しやすいようにしてくれた、という事です。」

ハ「人間の精神世界、潜在意識、それが月日親神の世界でもある、という事でしょうか。」
役「中山みき様存命中の明治初期には、『精神世界』だの『潜在意識』といった言葉自体も知られていません。多くの人が漠然と把握していたと考えることも出来ますけど、間違いなくその事を指していたとしか解釈できない内容や言葉が沢山あるのです。」

ハ「ええ?それが本当なら、中山みき様は今から150年も前に心理学の一大体系を理解していた、教えていた、となりますよね。凄い事じゃないですか?」
役「そうです。そして、中山みき様の教えは、心理学だけでなく、『全ての人が陽気にくらせる社会』を実現する為の経済思想や政治思想にまで及んでいると考えられます。」

ハ「すみません、『神様』の事がそこまで話が広がると、ちょっと理解の範囲を超えてしまうのですが。多分、これをこのまま記事にしたとして、読む人にもどう思われるか・・・。」
役「(笑)。すみません、一応私の解釈とさせてください。機会があれば、段々にお話しさせて頂きたいと思います。」

ハ「そうですね。今日は有難うございました。」

ハ「『神様とは何か?』というお話ですね?」

役「当たり前の話ですが、世界の三大宗教と言われているモノにキリスト教、イスラム教、仏教があります。仏教には『神様』という存在は有りませんので、世界中の人の殆どが信じている『神様』は、キリスト教とイスラム教の神様という事になります。勿論、その中身や教会・教団も分派や派閥がありますし、国や地域で解釈や教えも多少は異なりますし、宗教という点では沢山の種類がありますけど、根本となるモノはどちらも『ユダヤ教』の『旧約聖書』に行きつくと言われています。どちらも『一神教』を信じる宗教です。」

ハ「旧約聖書というと天地創造の神様ですね?」
役「そうです。神が1日目に天と地を造った。光をつくり昼と夜ができた。6日目までに大地や動植物、神自身に似せた人間まで造って、7日目に休んだ、というお話です。」

ハ「世界中の殆どの人が『絶対的な力を持つ天地創造の神様』を信じている、という事でしょうか?」
役「そういう事になります。勿論、神話の世界ですから、科学的な根拠も証明もされていません。でも、世界の多くの人は、そういう『一神教の神様』を信じている、という事でしょう。」

ハ「その点、日本の事情は大きく違っていますよね?」
役「はい。古代の日本では『八百万の神様』と称される多くの神様がいました、というか信仰されていました。太陽であったり星々であったり、大自然であったり、時には大きな岩や樹齢数百年の大木とかでも『神の宿る存在』として、信仰されたり大切に扱われる存在だったわけです。それどころか、生活の道具である針だの農具などにも神が宿ると考えられていて、そういった多くの神様的存在と共存しながら日本人は生活をしていた訳です。今でも日本人の心の寄り所と言えるでしょう。」

ハ「他にも、学問の神様とか、村を救った英雄を神様として祀ることがありますよね?」
役「そうですね。そういう多様性を認めている、受け入れられるのも日本独特の宗教観というか、世界でも類を見ないほどの、日本人の特徴と言えるかもしれません。」

ハ「一神教の神様なら、そんな神様は認められない、崇める対象にはなり得ない訳ですね。」
役「でも、日本にも一神教というか他の神様を認めない宗教もあるのですよ。それが顕著になったのが明治政府の推し進めた天皇を中心とした『国家神道』です。」

ハ「歴史的に見れば、西欧列強が世界を支配し植民地化を進めていた時代でしたね。アジアでも日本と緩衝地帯になっていた『タイ』以外は植民地にされ、眠れる獅子といわれた大国『清』もかなり浸食されたり領土を奪われていたと記憶していますが。」
役「はい。そんな西欧列強の世界進出の波の中で鎖国政策を採っていた徳川幕府が崩壊し、日本は世界の国々の中で自らの方針と方向性を決めて行く必要があった訳です。明治維新の文明開化と富国強兵という道を急速に歩まなければならなかった訳です。」

ハ「なるほど。流石に植民地の奴隷身分や世界各国の分割統治を受け入れる訳には行きませんからね。」
役「それには、日本を一つの力で纏めなければならない。いくら天皇制や天皇の存在が有ったとしても、それまで全国300藩に分かれて統治されていた日本国民の意識をまとめて、目標に向かって同じ方向に歩ませなければならなかった訳です。西欧の進んだ文明や技術、社会制度を取り入れるとともに、国民意識を日本全体という方向に切り替えさせるために、教育だけでなく宗教観も統一する必要があった訳です。」

ハ「それで天皇を現人神として、国民の尊敬と信仰の対象にした訳ですね。」
役「はい。私はそう解釈しています。」

ハ「分かります。しかし、その結果日本も海外に進出し、戦争をする国になってしまったと思いますが。」
役「歴史の事実だけを見ればそうなりますね。ここで善悪正誤、是非を話しても仕方がないので、当時は世界中がそういう流れだった、という事にしておきましょう。西欧列強の一神教の神様と日本人の信じる一神教の神様、互いの信じる神様が違うのですから、いずれぶつかるのもやむを得ないのかも知れません。」

ハ「まぁ、神様同士の喧嘩ですかね?」
役「神様の名前を借りた人間同士の代理戦争でしょうけどね。」
ハ「なるほど。」

役「だって、これ(おメドウ)が人間に『戦争をしなさい、世界を征服しなさい』なんて言いますか?」
ハ「いや、そんな事は有り得ませんね。」

役「では同様に、西欧の神様やイスラム教の神様が、人間に植民地を増やしなさいとか、アジア・アフリカを支配しなさいなんて、その都度言いますか?」
ハ「それも無いでしょうね。教え全体に流れる思想や解釈にそういった内容が含まれていると考えることは出来るでしょうけど、その場その都度で作戦を立てたり指示をしたり命令する神様が居るとは思えません。」

役「どの世界でもたまに『神様のお告げ』とか『神託を受けた』という人が現れますけど、現実に神様が言っているのか、その人の頭で考えて言っているのか、周囲からは判断が出来ません。何しろ、神様そのものが実体を持っていないし、目で見えないし、確実にその存在を示すような事象やデータは有りません。」
ハ「確かに実体がありませんね。たまに奇跡とか神の力等と言われる出来事もありますけど、それが本当に神様の起こした事なのかは疑問がありますね。では『神様とは何か?』という事ですが。」

役「と、ここまでお話しさせて頂いて申し訳ないのですが、それを一言で表すのは難しいのです。人によって『神様』に対する考え方も解釈も理解も全然違います。違う宗教なら勿論ですが、同じ宗教や信仰をしていても個人によって違うのではないでしょうか?」
ハ「あれれ?結局、結論は無しですか?(笑)」

役「そうです(笑)。とはいえ、それではハルアキさんも困るでしょうから参考になる事を挙げて行きましょう。」
ハ「天理教の神様ですね。」
役「私は『月日親神』と呼んでいます。その性質や内容をイメージするのに一番良いと思うので。原典の正確な表現ではありませんが、『みかぐらうた』や『おふでさき』で書かれている事を箇条書きにします。

・泥海の地の様子を見て残念に思った。
・人間を拵えて、人間が陽気に暮らすのを見て共に楽しみたいと思いついた。
・人間を創る為に10の道具を集めた。
・10の道具を使って(働かせて)人間を創った。
・人間は月日親神からすれば、可愛い子供であり一列兄弟である。
・月日親神は、可愛い子供を全て救いたい助けたいと思っている。
・人間に知恵と言葉と文字を教えた。

そして、天保九年10月に中山みき様の身体に天下って、一列世界を助けるために真実の神の姿というか、行動を見せた訳です。」

ハ「立教の旬刻限ですね。しかし、元の理で語られている子数とか年限、出直しとか動物への生まれ変わりなどを目一杯省きましたね?(笑)」
役「あぁ、正直言って、中山みき様の教えを解釈する上ではあまり関係がない感じですので(笑)。どんな神様かを考える場合には、神様自体を表現した部分だけで充分でしょ?もっとも、科学的に考えれば、人類の発生がドジョウだとか、神が創った、という事自体おかしな話ですが、神話の世界ですね。」
ハ「なるほど。」

役「では、この月日親神がどんな神様なのかを考えて行きましょう。」

私、加藤ハルアキ(ペンネーム)は、今月の月次祭が終わった「国々所々つとめ場所(通称)」の責任役員を尋ねた。


ハ「責任役員さん、先日の月次祭、お疲れさまでした。」
役「ありがとうございます。ハルアキさんも有難うございました。」

ハ「結局、いらっしゃって頂いた信者さんは数名でしたね?」
役「そうですね。それも特に信仰熱心とか天理教の教義には興味のない、知人や親戚関係で来ていた方です。」

ハ「なるほど、ちょっと寂しい気もしますが。」
役「いやいや、これからが本当の信仰ですから。中山みき様の教えてくれた『おつとめ』とそれに関するお話をさせて頂くだけです。」

ハ「そうですか。それで少しお伺いしたい事があるのですが宜しいでしょうか?」
役「はい、何でもどうぞ。」

ハ「役員さんがお話しされる『月日親神』についてなんですが、最初に特徴をお話しされていましたが、ちょっと私には理解できないことも有るのでお伺いしたいのです。そもそも『神様』とは何なのでしょうか?」
役「それはまた、漠然とした、でも重要なテーマですね(笑)。」

ハ「そうですか。でもこれが分からないと『信仰』そのものが成り立たないような気がします。」
役「そうですね。とはいえ、私は学者でも研究者でもないので、正確な事や学説等からお話しする事は出来ません。私がこれまで見聞きしたり研究したり調べた中で、これが『中山みき様の教えてくれた月日親神だ』というお話で宜しいでしょうか?」

ハ「ええ、結構です。私自身が納得して文章にしたいのです。」
役「了解しました。神様のお話をするのに、まずはこれを見てください。」

目の前に置かれたのは、ちょっと古ぼけた感じの巾着のような包みであった。

DSC_0294

ハ「中に何か入ってるようですね。開けて見て良いですか?」
役「どうぞ、中から取り出して、裏表をよく見てください。」

ハ「チョット重みのある、鏡のような置物のような、これは何ですか?」
役「これは、『おメドウ』と呼ばれているモノです。」

DSC_0297DSC_0298


ハ「おメドウ??」
役「はい、あの神殿の中央『天理王の命』のお社の中に祀ってある『ご神体』ですね。一応、八咫鏡(やたのかがみ)の模造品というか、八咫鏡として扱われて拝む対象になっています。」

ハ「え??そんな大切なモノを、良いんですか??」
役「構いませんよ。天理教の信者さんでも、あるいは全国の会長さんなどでも、中身をじっくり見た事のある人は少ないかもしれません。まぁ、中山みき様の教えに従えばこんなモノに意味はありません。あ、ちなみにこれは、当分教会に祀られていた『おメドウ』で、他の教会や布教所、講社祀り等の『おメドウ』とは違うかもしれません。大きさが違うという情報もありますから。」

ハ「八咫鏡といえば、天皇家に代々伝わる三種の神器の一つですよね?」
役「そうです。日本神話において天孫降臨の際、ににぎのみことが天照大神から授けられた『八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)』のうちの一つです。」

三神器
(三種の神器 イメージ)*実物は実在しているかどうかも不明

ハ「それがどうして天理教の教会のご神体になったのでしょう?」
役「もともと天理教は明治時代に六等教会神道天理教会として認可されていますから、当時は『天皇が神である』という教えを説かなければならなかったし、形式としてもこういうご神体を祀らなければならない経緯があったのでしょう。本部側からは『応法の道』という宣言が出されていますが、要は、中山みき様の教えや本席様の忠告や叱責を聞き流して、時の権力者や政権にすり寄って自己の身の安全と権勢を守ったという事でしょう。その点の歴史や流れをお話しすると長くなりますから、教会設立段階から『中山みき様の教えに反している』という事だけ理解して下さい。」

ハ「しかし、戦後に二代真柱が『復元』を打ち出して、中山みき様の教えやお話に戻っているのでは?実際、神道系の榊やしめ縄なども廃されて、文科省での分類でも神道系ではなく諸派として独立した天理教として存在している筈ですが。」
役「役所や登録上はそうですね。でも、天理教の教義や中身については『復元』など全然おぼつかないし、中山みき様の教えに『復元』されたなんて口が裂けても言えないような有様です。組織の形態や上下関係の厳しさ等封建社会そのもので、それを擁護するような話や教義解釈がされているのは理解できるでしょう?それが嫌で、否定するべきだと思って、当教会は『被包括関係廃止手続き』をしたのですから。」

ハ「そうでしたね。一連の手続の中でも、上級の発言ややり取り等を見る限り、今の世間一般からしても歪んでいるというか、一種独特な価値観を持っていると思わざるを得ませんね。」
役「そうです。こうしてこんなモノを祀っているから、こんなモノを信仰の対象としているから、教えやお話が歪んでしまうし、間違った方向を修正も出来ないのです。勿論、中には修正するべきだ、直すべきだという意見も多く出ていますが、その改善や改革をする権限や力を持っている人達が、自分達の権益や立場を守ることに専念していて『復元』の邪魔をしている、としか思えません。」

ハ「歪みや間違った方向ですか。具体的にはどのような事でしょうか?」
役「この教会でも、以前の朝夕のおつとめ、月次祭の祭典の様子はご存知ですよね?」

ハ「親神様、教祖様、御霊様の三殿に一列に並んで『おつとめ』したり、参拝したり、手踊りをしていましたね。」
役「そうです。その『おつとめ』の目標、頭を下げたり、手踊りする対象が、これなんですが、その様子を見て『何をしている』と思いましたか?」

ハ「そうですね。私の個人的感想ですけど、神様に何かをお願いしをしている、お祈りやご祈祷をしているとしか見えませんでした。」
役「そうでしょう。中山みき様は『理が神である』と教えてくれているのですから、こんなモノを拝んだり後生大事に扱って、ご祈祷したところで何の意味もない訳です。もともと『拝み祈祷』でも『伺い立てる信仰』でもない、と言っているのですから。」

ハ「なるほど。」
役「次に、教祖伝ですね。現在教団から発行されている『稿本教祖伝』は、あまりにもオカルトや史実にない事、史実だとしても曲解したり、原因や理由を正確に伝えていない事が多すぎます。」

ハ「あぁ、役員さんが常々言っていた『中山家が母屋を売り払ったのは、教祖様が施しをして貧乏になったからではなく、秀司が米相場で失敗をして借金をしたからだ』というような事ですね?」

役「そうです。その原因や理由を隠して、施しをして貧乏になるのが中山みき様の教えだという教義に歪めて、信者さんからお供えや神様へのお礼を出させるという教義に歪めている訳です。他にも沢山ありますから、真実の教祖の『ひながた』も『教え』も歪んでしまっているのです。あ、こういう話をすると尽きませんので、最初の質問の中身を考えて行きましょう。」

講演者はその1と同じ「現職の寺院住職であり弁護士でもある」方です。

先日、大変な事実が明らかになりました。
その事実とは、天理教本部の長野悦司法人課長(本部準員)が昭和59年3月24日に龍谷大学でもたれた宗教法学会の研究会という公式の場で行った報告です。
 報告の題名は、「小規模宗教法人の管理運営について」というものです。内容は、非常に率直・正直なモノで天理教の内容・実情が赤裸々に書かれています。

私がびっくりした内容の一例をあげますと、
教会長の年齢構成では、51%が60歳未満、60代が23.6%、70代が25.3%であり、その60歳代以上の教会長のうち後継者不在の割合が60歳代では35.6%、70歳代では41.9%もの割合にのぼっている、というものです。
 全体の一般教会の数が16,863ヶ所から計算すると、後継者不在の教会数は3,203ヶ所、全体の2割にもなります。もっと具体的に言えば、60歳代のまぁ、3人に一人、70歳代のもう二人に一人近くの会長さんが後継者不在で悩んでいる、という事が分かった訳です。

(加藤ハルアキ注:このお話は31年前発行の冊子です。統計の発表自体がS59年ですから、33年前という事になります。更に長野課長の衝撃的な報告が続きます。)

「昭和55~56年に文化庁の宗務課で実施された実態調査では、信者数50人未満の宗教法人が全体が22%に対して、天理教では46%という高い数値です。」
「教会の名称が変わる、改称という事もございます。これが10年間で450件です。これは残念ながらその殆どが後継者不在という事情で、本部あるいは上級教会である大教会から、人材を派遣して後を継がせ、新たに再出発をするというような形をとらせている中で、新たに担当する者の感情的な問題なり意欲の問題を勘案して、教会の名称を変えるという事でございます。この点も私ども教会の変動が激しい一つの原因でございます。」
「教会の移転については、最高が昭和49年の年間387件、10年では2,021件です。そうした変動というのが、不活動法人の生まれる一つの土壌でもあると思われます。」
「新設教会は、この10年で510ヶ所ございまして、年平均50ヶ所程の教会が生まれています。」

以上の報告を合わせて読むと、どのような教団の実情が浮かび上がってくるでしょうか?
先に、長野課長の報告にあった、60歳代でまあ3人に一人、70歳代ではもう2人に一人近くの教会長さんが後継者不足に悩んでいる、という実情もある訳ですから。
そのような後継者不足が現実化して、教会長が出直(死亡)したが後継者がいない例が、10年間で450件以上あって、本部か上級が派遣した人材にあとを継がせ、その分教会財産は、出直した教会長の遺族には相続させなかった、という事でしょう。

派遣された者は感情的問題等から、初代の付けた名称が気に入らず名称改称をしたのが450件もあった、というのです。その際に、教会財産を処分して移転する例も2,021件の移転例の中に相当数含まれていると推察できましょう。

こうしてみますと、新設教会数が10年で510ヶ所という統計は、実情としてはかなり厳しい実態の現れなのではないかと思われます。
これに今後は、3,203ヶ所の後継者不在教会の相当部分が続くことが予想されます。

長野悦司法人課長は次のような数値もあげています。
「天理教の教会数が全体で16,863ヶ所ですが、非法人の教会1,475ヶ所ありますので、法人教会数は15,388ヶ所です。・・・宗教法人天理教の包括する宗教法人の中でも大教会を大規模法人、所属が10以上の分教会を中規模法人、単独で活動しております分教会を小規模法人、という形でとらえております。小規模濃人については、全教会数の中で12,800ヶ所くらいある訳です。全体の70%位が問題とさせて頂いている小規模法人です。」

要するに、部内教会10ヶ所以上ある分教会が中規模法人で、それ以下が小規模法人という分類をしている訳で、全体の教会数との割合では70%位ですが、宗教法人となっている教会数との比較では83%にのぼります。中規模、大規模法人である大教会とで残りの17%を占める訳です。

さて、長野悦司法人課長の結論部分、非常にショッキングな内容です。

「小規模法人を、その教会が所属する大規模または中規模の法人への吸収合併をしていったらと考えている訳です。」

「大・中規模法人へ小規模法人を合併していく、当然財産もそこへ移していく事になりますから、所属する法人の教会の土地建物は、飛び地境内地・境内建物の形になっていくわけです。」

「教会は信者さんの貴い寄付金で賄われている訳ですから、そうした場合の会計処理が問題です。教会の収入は吸収した側の中・大規模法人の会計に参入していく、そして経費は、吸収・合併されて非法人になった教会へ回付していくという形にしなければならないでしょう。」

「給与面につきましては、法人である所属する大・中規模法人から出ているのだということでも、これは筋が通るのではないかと考えております。」

長野法人課長はさすがに法律の専門家だけあって、言葉を注意深く使用しています。
この中で、「小規模法人を中規模法人に吸収・合併する」ではなく「大・中規模法人へ小規模法人を合併・吸収していく」と言っている点注意が必要です。
 これは、小規模法人は中規模法人に吸収されるのではなく、中規模法人を飛び越えて大規模法人(つまり大教会)に吸収・合併される事もありますよ、いや、それが当たり前になるかもしれませんよ、と言っています。

直属の大教会は、現在151ヶ所です。

 仮に、その大教会に小規模法人である分教会が合併・吸収されていったとしたら、部下教会をもぎ取られた中規模法人である分教会はどうなるでしょうか?その結論は容易に想像できます。
 仮に、大教会に皆吸収されるようになったら、その大教会は今度は天理教教会本部に吸収・合併されないという保証は何処にあるのでしょうか?そして、天理教維持財団への一切合切の寄附というシナリオを想像する事が出来ないでしょうか?
 今ですら、モノ言えぬ教団の中にあって、その時になって誰が異議を差し挟むことができるでしょうか?

(加藤ハルアキ注:引用の中の文章に『会計は中・大規模法人に算入されても、経費は吸収され非法人になった教会に回付(=負担)させる』というのも衝撃的な発言だ。吸収して財産やお供えを全部取り上げても、教会の維持管理運営費は、元の教会で負担しなければならない、と言っている。)

長野法人課長は、
「現場の担当者の一私案である」
と言いつつ
「近い将来、代表役員(表統領と推測)の下に研究グループを編成して、一つの審議を経たうえで、当然教団内部のコンセンサスをとりまとめる」
のが筋だ、と述べている。

これは当然の事であるが、失礼ながら教団本部の教庁の、一課長の立場で、堂々と外部の公式な研究会の場で一私案とは思えないようなショッキングな内容の報告をしたり、近い将来表統領の下で研究グループを編成するとか、教団内のコンセンサスを取りまとめるとか言えるのでしょうか。
 こう考えると、すでに教団トップの了解・合意、いわゆるゴーサインがあった上での報告と考えなければ理解できるものではありません。逆に言えば、トップの意思はもう決定しているとみて、今後に対処しなければならないのではないでしょうか。

今回ご紹介した長野論文の内容を検討した結果としては、もはや教団内部での「教祖の教え」への復元は絶望的だと判断せざるを得ません。
 一度とにかく皆が、本部から離脱独立して、お互いに対等平等な立場で、ゆるやかな再度の統合を計画していかないと、「一列兄弟」の教祖の教えに復元した教団は実現しないのではないでしょうか。

ある人から薄い冊子が届く。
そこには、宗教法人法に関する講演の内容が載っていた。
全文は載せられないので、抜粋して転載(多少編集)させて頂く。
ちなみに、お話は「現職の寺院住職であり弁護士でもある」方で、冊子の発行日は1986年(30年以上前!!)です。もっと早く手に入れていれば、私自身の手続は十分な準備が出来たなと考えます。

1.はじめに
はじめに自己紹介を簡単に(中略)。
天理教内部の様々な無理とか矛盾とかが、一挙に噴き出しております事は皆様のよくよくご承知のところであります。
 そのような実情のもとで「本部の姿勢にはついて行けないから、いっそのこと、もう天理教を教会ごと抜けたいがどうにかならないものか」とか「おやさまの真の教えを伝えていきたいので、自由にそれができる方法はないものか」とか、更には「後継者がないので、この際本部とは縁切りしたいが、いい方法はないものか」とかの深刻な悩みを持つ教会長・布教助長さんが大変多くいらっしゃるという事を知ることができました。
このような皆様の疑問と悩みに対する法律的な回答は「本部を抜ける方法はある」というものです。
それも立派に憲法と宗教法人法によって、とっくの昔から皆様の為に用意されている、というものです。

2.知られていない宗教法人法
皆様は、一体ご自分の教会の規則が頭に入っているでしょうか。「宗教法人天理教〇〇分教会規則」というようなモノが皆様の教会にはそれぞれある訳ですが、それをよく見た事もない、という方が多いのではないでしょうか。
私は、今日宗教団体に関係し、少なくとも役員になっている方々には、宗教法人法とか自分の教会規則とか、更には教団本部の規定集とに目を通しておかなければならないものだ、と思う訳です。
 宗教法人の問題は、憲法と宗教に関する特別法である宗教法人法によって規定され運用されています。この宗教法人法の中に、教団本部から教会や寺院などが離脱する方法について詳細に規定されている訳です。そして、本部から離脱する自由(権利)は、全ての宗教法人に認められた自由であり、天理教だけにはこの自由が認められない、というようなものではありません。ところが、この事を知らない、知らされていない天理教人が、実際の所大多数なのではないかと思われます。

3.本部離脱の方法
①包括・被包括関係とは
 個々の教会や寺院をまとめて組織している教団や宗派を「包括宗教団体」とよび、その包括宗教団体が宗教法人であれば「包括法人」と呼びます。
 この包括法人に対して、その教団や宗派に所属する個々の教会や寺院で宗教法人であるものを「被包括法人」と言い、包括法人に所属するような関係を「被包括関係」と呼んでいます。
 天理教に当てはめると、「主教法人天理教(天理教教庁)」は被包括法人であり、これに対して個々の大教会や分教会などの一般教会は被包括法人であり、この両者の関係を被包括関係と呼ぶことになります。

②包括法人からの離脱・脱退の自由
 戦前の天皇を主権者とする帝国憲法のもとでは信教の自由は認められず、この事から教会や寺院が所属する教団や宗派を離脱・脱退したり、独立の教団や宗派を設立する事は事実上禁止されていました。
 戦後の国民主権のもとでの憲法によってはじめて完全な信教の自由が認められ、この憲法をうけて出来た宗教法人法は、教団や宗派からの離脱・脱退や独立の教団の新設を全く自由に行えるものとしたわけです。 宗教法人法では、この離脱・脱退のことを「被包括関係の廃止」とよんで、それぞれの教会の規則の上で教団や宗派に包括される事になっている部分を変更する、規則変更の手続きの一種としてその手順を定めています。

③責任役員会議での決定
 まず必要な事は、被包括関係の廃止について(つまり、天理教から離脱することについて)、教会内部の意思決定をはかる事です。意思決定は、宗教法人である教会・分教会などでは責任役員会議で決定する事になります。
 変更する予定の被包括関係廃止の教会規則案を会議にかけ、その規則変更を決定する訳ですが、天理教の一般教会の規則では「責任役員全員の同意」が必要(一般教会規則第28条)となっています。責任役員が一致して問題を理解する事が大切です。(どうしても問題の理解が出来ない責任役員がいる場合は、教会長は他の責任役員に相談した上でその役員を解任する事も出来ます。)

④本部への通知と公告
 責任役員会で離脱の決定を致しましたら次に、
イ)規則変更案の要旨を示して、その旨を信者その他の利害関係人に対して公告をする事
ロ)この公告と同時に、被包括関係を廃止する事を包括法人宛に通知する事(離脱通知)
この2つをやらなければなりません。(宗教法人法第26条第二項、第三項)
 公告とは、通常教会(事務所)の掲示板に10日間掲示する事を言います(一般教会規則第5条)。決まった掲示板がなければ、適当な場所を新たに決めて掲示すれば足ります。掲示板は、建物の内部でも外部でもどちらでも構いません。掲示は写真を撮影して掲示の事実を5人の人に証明して貰えるよう手配が必要です。
 離脱通知は内容証明郵便で、包括法人つまり「宗教法人天理教」(天理教教庁)宛に通知します。

⑤知事に対する法人規則変更認証の申請
 公告と離脱通知が済みましたら、次に所轄官庁(都道府県知事)に対して「規則変更認証申請」をすます。ただしこの認証申請をするには、公告期間10日間の経過後さらに2ヶ月経った後でなければなりません(宗教法人法第26条第二項)。
 この2ヶ月間と10日の期間は、信者その他の利害関係人らに意見を述べる期間を保証しようというモノです。もちろん、その意見を聞き入れるか否かは全く自由というものに過ぎません。

⑥受理通知と認証書の確認
 こうして規則変更申請を提出いたしますと、必要な書類が整っていれば「申請書受理通知」が所轄庁から発行されます。所轄庁はこの正式受理から三ヶ月以内に最終的な認証決定の判断を下さなければなりません。
 以上によって、所轄庁による宗教法人規則変更認証申請の認証手続きが終了しますと、認証書が交付されます。この認証書の交付によって規則変更は効力を発生する事になってます(宗教法人法第30条)。
その後の手続として登記手続きがありますが、省略します。

⑦包括法人の権限の停止
 ここで規則変更手続きに「大教会代表役員の同意」や「天理教代表役員の承認」は必要ないのか、疑問に思っておられる方がおありでしょう。
 そもそも、離脱独立をするための規則変更について、大教会長さんや本部の表統領が同意や承認をしてくれるでしょうか?そんな事は問わずもがなでしょう。
この「あらかじめ断られる事の分かっている同意や承認を不要とするために、宗教法人法は特別な条項を定めました。それは「被包括関係を廃止するための規則の変更」をしようとする場合は、包括団体が「一定の権限を有する旨の定めがある場合でも、その権限に関する規則の規定による事を要しないものとする」という同法26条第一項の規定です。表統領の承認や大教会長の同意は、当然のことながら、本部を離脱しようとする場合には不要だということになります。

⑧不利益処分の禁止
 つぎに、宗教法人法が定めているもう一つ大切な事で「不利益処分の禁止」があります。
 せっかく教団本部からの離脱を自由だとしましても、実際には離脱の通知を教団本部にしてから離脱の規則変更が所轄庁で認証になって離脱が効力を発生するまでに、どんなに短くても2ヶ月10日間以上掛かってしまいます。その間に、もしも教団本部から離脱しようとする教会の会長さんが罷免されてしまったらどうなるでしょうか?罷免されて新たに本部の息のかかった人が教会長として特命できるとなりますと、その時点で離脱手続きは挫折してしまい、憲法と宗教法人法によって認められた、信教の自由に基づく制度が無意味になってしまいます。
 そこで宗教法人法第78条に規定を設けて、離脱に関してなされる不利益処分を禁止しました。その内容は、
第一に、離脱通告の前後で離脱しようとする教会の代表役員やその他の役員を解任したり資格停止にするなどの不利益処分を一切禁止する、ということ。
次に、この禁止を破ってした不利益処分は一切無効だということ。
 無効という事は、仮に解任などの処分をしても裁判所がこの主教法人法の規定に基づいて、処分の無かった事にすることができ、解任された教会長さんやその他の役員さんの地位が復活する、ということです。
 この規定は、実によく教団本部というものの本性を見抜いた規定だと言わざるをえません。実際の所、このような規定を設けなければ本部からの離脱などは教祖様の時代同様に不可能となってしまうでしょう。
 こうして、教団本部からの離脱の自由は二重三重に、憲法と宗教法人法によって守られているのです。

最後に一言、私の思いを付け加えさせて頂きます。
 今日の天理教団をどのように手直ししたら教祖の願いである「平らな世の中で、一列兄弟が助け合う陽気な教団」になれるのか。現在のように分教会長さんは大教会長さんの言いなり、大教会長は本部の言いなり、本部員にあらざれば人にあらず、生まれと地位身分によって明らかな差別社会が肯定されている、こうした全く他に類例を見ないほどの封建体制・幕藩体制下にある教団の現状をどのようにしたら「一列兄弟の教団」にできるのか。真柱・表内統領、本部員を含めて一列兄弟になれる日は何時のなのだろうか。
 私の一存で真柱さんに対して、信仰者としての問題解決を訴える手紙を出してみましたが、非常に残念な事に、彼にも彼の取り巻きにも、そうした信仰者としての問題解決能力は現状では全く見られませんでした。
「教祖の残念」を100年祭で語ったお方が、我が身思案で問題解決を受け止められておられるのではないか、と心配です。
いずれは残念を残念と受け止められることのあることを信じつつも、現状では「一列兄弟」を実現するには、教団本部との法律上の関係を一時的にせよ解消して、本部や上級の不当な支配が及ばない教会を多数作りながら、そうした教会が横に兄弟として連帯をし、「一列兄弟」のひながたを作って見せる以外にない、と確信するに至ったのです。
 ここで注意して頂きたいのは、法律上の関係を解消することになる「被包括関係廃止手続」は、信仰上の天理教団との関係までも解消する事になるモノではない、という事です。
「教祖の弟子に変わりなく、心も言葉も行動も、お道の人間として皆様と同じ教の中におりますので、これからも相変わらずのお付き合いを頂きたいと思います。」という事が真実の信仰者の立場であると確信しておりますので、誤解なきように申し上げておきます。

 この際、布教所も分教会も大教会も、大いにどんどん本部から法律上独立して、一日も早く本部も含めた天理教教団全体が「一列兄弟」を実現する教団に、再度の統合が出来ますように、困難であっても進んでいく以外にないと考えるモノです。

我輩は、加藤ハルアキ(ペンネーム)の家で飼われている猫である。

名前は「タケさん」である。

生まれたのは加藤ハルアキ(ペンネーム)の知人の家である。
生家がどういう家だったかあまり記憶にないが、庭が広い古い二階建ての木造の家だったと思う。

そこに飼われていたのが我輩の母親で、全身真っ白な毛並みで、スマートなスタイルで美猫だと近所でも評判だったらしい。

その時我輩は4兄弟の3番目として生まれた。
ちなみに、上の二匹は全身白に額などに斑点のような模様、下の一匹は背中側がトラ縞で腹側が白という毛並みだ。真っ白な母親から我輩のような毛並みの子猫が生まれたという事は、父親の毛並みが容易に想像できようものだ。

だが、我輩の記憶には父猫の事は微塵もない。何処の馬の骨とも分からないが、母猫と恋に落ちて我輩が生まれたのは間違いがない事実だ。

ちなみに、母猫の名前が「タケ」である。
兄弟も全て「タケ」と呼ばれていた。当然我輩も「タケ」と呼ばれていた。
つまり、生家で飼われていた猫は、全て「タケ」と呼ばれる運命にある。

実は、これには深い理由があるらしい。

最近の調査によると、我輩の生家には「寅年生まれの女性」が居るとの事だ。そして、人間世界では「寅年生まれの女性がいる家で猫を飼うと、その女性は気性が虎のように荒くなって嫁に行けなくなる」という言い伝えがあるとの事だ。
しかし世の中はよくしたもので、「しかし、猫にタケという名前を付ければ、竹林で虎が大人しくしているように気性が荒くならない」との事だ。

あくまでもその家に伝わる言い伝えだし迷信に過ぎないと思われる。

しかし、その家の人間は頑なにそれを守り続け、結果として飼われている猫は過去から全て「タケ」と呼ばれる運命になる。既に我輩の母猫で5代目だか6代目の猫だそうだが、全て「タケ」と呼ばれていたという事だ。

ちなみにその家の「寅年生まれの女性」は、既に20年前に96歳の天寿を全うした大往生だった。でも、未だに猫たちが「タケ」と呼ばれるのに若干の理不尽さを感じないでもない。
まぁ、どうでも良い事ではあるのだが。

ということで、我輩は加藤家では生家の「タケ」と区別する為に「タケさん」と呼ばれている。


我輩は高い所が好きだ。
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高い所から加藤ハルアキ(ペンネーム)をじっと観察する我輩。
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月次祭を始めたいと思います。

ここは教会ですからまずは神様のお話なのですが、ここでは「月日親神」という神様のお話をさせて頂きます。

この月日親神の大きな特徴の一つは、何かお願いを叶えてくれたり、罰を与えるような神様ではない、という事です。
皆さんは新年になると、年が明けると何処かに初詣に行きますよね。お賽銭をあげて「今年一年健康で暮らせますように」とか「家族で幸せになれますように」なんてお願いするかと思います。でも、そういうお願いをして実際に何かをしてくれる神様は居るでしょうか?一年経ってみて、特に大きな病気にならなければ「あぁ、神様がお願いを聞いてくれた」と考える事も出来るでしょうが、それが本当に神様の力なのかどうか分かりません。

あるいは「祟り神」という人間に災いをもたらす神様が居ます。地震や台風などの自然災害や病気や怪我などをさせる神様だそうです。そういう神様には、定期的にお祈りを捧げて「怒りをお鎮め下さい、厄災を起こさないで下さい。」と言ってお供え物をあげたり、神の心を鎮めるために舞を舞ったり儀式を行います。

もう一つは五穀豊穣の神様として、地上に大いな実りや惠みを与えてくれる神様です。これは、神様が作り出したこの世の大地を人間が耕し、作物を植え育ててあげれば、収穫期には沢山の実りをもたらすという神様です。人間は、収穫された作物の「最初のモノ(初穂)」や飼育している「家畜」の一部などを感謝の気持ち、お礼の形として神様に捧げて、神様の為に各種の儀式を行い、村人総出でお祝いして神様と共に喜びを分かち合う訳です。

いまお話しした中では、最後の五穀豊穣の神様が人間にとっては一番いい神様のようですが、古代より日本には様々な神様が居ますので、それだけで良いという訳には行かなかったようですね。


それで、これからお話しする月日親神は、今言ったような「お願いをする」「罰を与える」「何かご神託を与える」「予言をする」ような神様ではない、という事です。

ちょいとはなし、神のいうこと聞いてくれ
あしきなことは言わんでな
この世の地と天とをかたどりて
夫婦をこしらえ来るでな
これはこの世の始めだし
よ~しよし。

この部分は非科学的と思われますが、「神話」だと思って頂ければ結構です。神話というと聖書の天地創造の話や日本書紀の国生みの神話などがありますけど、そういったモノと同じ様なことだと思って下さい。その中身や本質はそういう神話とは全く違うのですが、それは段々に説明させて頂くとして、今は「神話の世界」と考えて頂いて結構です。
大事な事は、「人間が発生した、この世に人間が生きている理由や根拠」のお話だと思って下さい。

元始まりの話、この世の最初は一面の泥の海であった。泥の海の中には、うおや己やドジョウなどが蠢いているだけだった。月日親神はこの様子を残念に思い、人間を創って人間が陽気に暮らす様を見て、一緒に楽しみたいと思いついた。

そして、この世の地と天を型どり、10種類の『道具』を用意しました。
『ぬくみ』『すいき』『男種』『女種』『飲み食い出入り』『息吹き分け』『骨ツッパリ』『皮つなぎ』『引き出し』『切る』という10の道具、働き、役割、機能です。

そして、この10種類の道具を使って、道具に働かせて、人間を創ります。10種類の道具たちはそれぞれの役割や特徴を活かして、互いに助け合って協力し合って人間を創った訳です。10種類の道具が一つ欠けても人間は出来なかったし、この世に生きることも出来ません。人間の根本本質は、こうして10種類の道具が、それぞれの特徴を活かして、互い立てあい助け合って、造られたものだという事を心に納める為、これから、一人一人が違う手振りでつとめをして、人間が造られたという事を理解して、心に納めて下さい。

最初の7回は『元始まりの理』です。この『月日親神』が人間を創った時の様子、気持ち、考えを理解し、心に納める為に行います。
10人の人が、それぞれ「私はぬくみです」「俺はすいきです」「俺は引き出しだよ」というふうに、それぞれの役割、それぞれの特徴や性質を考えて、それを10人合わせて『つとめる』事で『人間を創りだした月日親神』の気持ちを理解し心に納めるのです。

元の理(月日親神が人間をお創り下された時の気持ち、理です)
あしきをはろうて、たすけせきこむ、一列すますかんろうだい ×7回

次の7回は『天然自然の理』です。最初に人間を創った時の月日親神の気持ちや考え、思いは、親から子へ、子から孫へと脈々と受け継がれて、今、私達がここに生を受け、生きていることが出来る、生かされているのです。その事を自覚し、理解し、自分の中に10の道具が働いているという月日親神の思いを自分の心に納める事が大事です。

天然自然の理(今、私たちが生きている、生かされている理です)
あしきをはろうて、たすけせきこむ、一列すますかんろうだい ×7回

そして、最後の7回は、そうやって生きている、生かされている私達、月日親神の気持ちや思いを、家族や親戚、友人や社会へと広げて、この世の中を「皆が陽気に暮らせるような世の中、陽気づくめの世にしよう」と決意する、気持ちを固める為の『つとめ』です。月日親神の思いや気持ちは、10の道具がそれぞれの役割をしながら助け合って協力して『新たな命を産み出す事』なのですから、私達がそれぞれの役割や役目を担いながら、皆で協力して助け合いながら世の中を明るくする、皆が暮らしやすい世にする事を月日親神は待ち望んでいるのです。
人間は「10の道具が互い立て合い助け合って」創られました。これが人間の本質・根源です。
それが親から子、子から孫へと伝わり、今、私達が生きているのも「10の道具が互い立て合い助け合って」生きている、生きる事が出来ます。これが全ての人の本質・根源です。
そして、人間が造ったこの社会、世の中も、この人間の本質・根源で動いてこそ、人は活き活きと、元気で明るく前向きで陽気に生きる、人生を歩む事が出来ます。

でも、現実世の中はそうではありません。
人生の中では辛い事や苦しい事、悩みや問題が色々あるでしょう。

これらは、最初に人間をお創りくだされた月日親神の心、気持ちを忘れた人間、月日親神の心や気持ちを無視した人間の心によって作られた制度や仕組み、世の中だからです。勿論、それぞれ銘々の心の中にもそういう原因や心使いがあるかもしれません。

それを祓って、月日親神の心で人生を歩み、世の中を建て替えるという決意をする「おつとめ」です。

陽気づくめの理(この世を陽気づくめにする為の考えと行動を決意する理です)
あしきをはろうて、たすけせきこむ、一列すますかんろうだい ×7回
よ~しよし。


そして、日々の心使いや生き方などについても、この『みかぐらうた』で教えて下さっています。「よろずよ八首」と「十二下り」に書いてあります。これから段々に、皆さんと勉強していきましょう。


ここにナス・枝豆・トマトが揚げられています。
これは「献饌物」と言って、他所の教会や神社などでは、神様へのお供え物とか収穫に感謝するお礼、等と考えられています。最初にお話しした「五穀豊穣の神様へのお供え物」だろうと思われるかもしれませんが、全く違います。

この月日親神の心を理解するために、ここにあげさせて貰いました。。

これはうちの畑で育てて収穫したモノです。土を耕し、畝を作って、種を蒔き、苗を植え、水をあげて肥料をやり、時には周囲の雑草を抜き、虫が付いたら払ったり防虫剤を使ったり、余分な枝や葉っぱを取って選定したり、また雑草を抜いたり、水をあげたり、色々と手を入れて、育てあげて、収穫した野菜です。
「大きな実をつけろ、美味しい実をつけろ、沢山実を成らせ」
と思いながら世話をして、こうして収穫できたわけです。皆さんも、家庭菜園や観葉植物などを育てた事があるでしょう。同じ事です。いろいろ手を掛けてあげて、「沢山実をつけろ、綺麗な花を咲かせてくれ」と願いながら手入れをしたと思います。

さて、月日親神はこの世に人間の種を蒔きました。

でも、神様は見守っているだけです。雑草を抜いてくれたり、水や肥料を与えてくれたりはしません。

その代わりに、人間が自分で雑草を抜いたり自分達で水や食べ物を食べたり、虫を払う事が出来るように、この身体と知恵を与えてくれたのです。
月日親神は人間たちに、10の道具で生きている、生かされているという、この『つとめの理』を心に修めて、その理と同様にそれぞれの役割や特徴を活かして、互いに助け合って問題を解決して成長し、皆が陽気にくらすという大きな実りをもたらしなさい、豊かな社会を作りなさい、と期待しているのです。

この事をシッカリと心に納める為に、ここで歌と踊りで勉強をしているのです。
そして、それを更にシッカリと形にする、行動に表すために、畑で野菜を作ってみませんか?

畑のナス                   枝豆・プチトマト・雑草(笑)       
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幸い、うちの畑は家庭菜園としてはそこそこの広さがあります。言って頂ければ、一人一畝くらいの野菜を植えることが出来ます。一畝あれば、2~3種類の野菜を育てて、結構な実を成らすことが出来るでしょう。野菜なんて作った事がなくても、近所の農家の人が教えてくれますし、道具もここにあります。
それぞれが自宅でやっても良いのですが、ここの畑でやる事で互いの顔を見ることも出来ますし、ちょっと手入れが足らない人を手伝ってあげるとか、花が咲いたよ、実が成ったよ、なんて教えてあげる事も出来るかもしれません。

畑で作業したら、ここに寄ってお茶でも飲んでいって下さい。時間があったら、ゆっくりお話をしましょう。無理はしなくて結構ですが、健康とこの月日親神の教えの理を心に納める為に是非やって頂きたいと思います。

この神様の気持ち、ご守護、人間はどうして生きているのか活かされているのか、これをじっくり思案して、毎日の生活や生き方を考えさせて頂きたいと思います。

緊急インタビュー

2017年08月07日
この日、私、加藤ハルアキ(ペンネーム)は末端教会役員という人物に久しぶりに呼び出された。
用件はある「インタビュー記事」を書いて欲しいとの事だ。

最近この人物が自身の実家の教会(宗教法人)について、その所属する宗教団体から被包括関係廃止手続きを行いその様子をネットにアップしていて、その手続きが完了(被包括関係を廃止)した事は知っていたが、この「インタビュー」というのがよく分からない。

ハルアキ「末端教会役員さん、お久しぶりですね。もう、お声が掛かる事はないかと思っていましたよ。」
末端役員「本当に久しぶりです。長期間連絡しなかった事はお詫びしますけど、そんな嫌味っぽい言い方しないで下さい。」

ハ「これは失礼、こういう性格なのでご容赦願いたい。で、今日は『インタビュー記事を書いて欲しい』との事ですが、どういう事なのでしょう?」
末「ええ、私が実家の教会(宗教法人)について、その包括団体との関係を廃止したのはご存知でしょ?」

ハ「そうでしたね。大変お疲れさまでした。記事を読ませて頂いただけでも、色々な事件や問題が有ったようで。全て終了した今のご気分はいかがですか?」
末「今はとてもスッキリしています。背中の重荷が取れたというか、頭の上の暗雲が消え去ったというか、面倒な事を片付けた達成感もあります。」

ハ「そうでしょうね。それで今後、現実の教会運営とネットの事と2つの事があると思うのですが、どうなさるおつもりなのですか?」
末「ええ。まず現実の教会運営については、記事にも書いていたように『教祖様の教えてくれたつとめとお話』を基本にして自分の信仰と教会の運営をしていくだけです。」
ハ「具体的にはどのように?」

末「信者さんらしい信者さんは居なくなってしまいましたが、『教祖様の教え』を守って『かんろだいを囲んだおつとめ』をして、その意味と内容を伝えていきたいと思います。幸い、頼れる協力者(妹)も居ますし。教会自体で何をやるかと云う点では、記事の中ではかなり『格好つけた事』を言ってしまいましたが、現実に考えれば今すぐに出来るような、実現できるような力は有りません。それに、私自身他に仕事を持っていますから教会の事だけをしている訳にも行かないし、教会だけでは生活できません。まずは出来る事を一つずつ、無理はしない、ですかね。」
ハ「なるほど、まあ、計画ややりたい事は色々あるけど、まだ構想段階だという事でしょうか?」
末「そうですね(笑)」

ハ「では、ネットの事についてお伺いしますが、この記事の反応というか反響はそれなりにあったのでは?」
末「はい。掲載中から応援や励ましのメッセージを多数いただきました。この場をお借りしてお礼と感謝を申し上げたいと思います。また、私と同じような環境や立場で悩んだり、苦しい思いをされている方からご相談やお問い合せも頂いています。『自分が助かった事を人様にお話しさせて頂くのが人助けやで』という教祖様の教えに従えば、この記事を発表した事は間違いではなかったと思っていますし、意義の有る事だと思います。勿論、世の中には色々な考えがありますし、その人の立場や考え方によっては、記事の公表に批判や否定的な考えもあるでしょうが、一つの考え方や情報だと思って頂ければと思っています。」

ハ「なるほど。では、記事の内容や実際の出来事について幾つか質問させて頂いてよろしいでしょうか?」
末「はい、どうぞ。」

ハ「まず、今回『被包括関係廃止』という選択をされた訳ですが、これはどうしてでしょう?神様をお返しする、信仰をヤメルという選択肢も有ったのではないかと思いますが?逆に言えば、その方が上級の態度や対応が穏やかだったように思えます。被包括廃止手続では、真っ向から戦いを挑むようなものですからね。」
末「確かにそうです。ただ、生まれた時から教会があって、教会の中で遊んだり過ごした時間を考えると、単に建物だけが残れば良いという問題ではないのです。記事の中にも書きましたけど、教祖様の教えというか、真実の教えが知りたいという思いは私の血肉であり骨格を形成していると言って過言ではありません。宗教法人を解散して個人で信仰を続ければ良いという考えもあるでしょうが、現実に教祖様の教えを伝えたい、現実の形にしようと思ったら、宗教法人を残しておいた方が便利ですし、色々と活用できるのです。不動産の固定資産税だって免除になりますしね。」

ハ「教会や住宅の不動産は会長の個人名義でしたね?まずはそれを書き換える訳ですか?」
末「そうですね。今の状態が落ち着いたら、不十分だった規則の変更と不動産の名義変更に取り組みたいと思います。」

ハ「なるほど。ところで、記事では一切触れていませんでしたが、この教会には5年ほど前まで部下教会が有りましたよね?布教所も一つ。それで『末端』と名乗っていたのは如何なのでしょう?」
末「確かにそうですね。でも、部下教会のおメドウを引き上げて来た段階で末端に転落したわけですから良いじゃないですか(笑)」

ハ「その部下教会を引き上げる件では、会長(末端役員の父)さんもご苦労をされたのでしょうね?」
末「はい。そのやり取りや話合いは5年ほど掛ったようです。その間、全部ではありませんが父からいろいろ聞いています。それに、部下教会と言ってもその指導や管理、尽くし運びなどの流れは、うちの上級に握られていて此方には何もありません。会長(父)は部下教会の月次祭に毎月行ってましたが、僅かなお礼とお車代を貰って来るだけでした。それも、上級に渡す分に入れないと間に合わない状態だったのです。」

ハ「なるほど。その5年間のやり取りは、今回の被包括関係廃止の記事とは逆の立場になる訳ですね?それはそれで記事にすれば面白そうな内容になるかと思いますが?」
末「そういう見方も出来ますね。機会があれば記事にしましょうか?」

ハ「そうですね、期待せずに待ちましょう。では、この一連の手続きの中で、一番印象に残っている事は何でしょう?」
末「そうですね。やはり、父を連れて官庁に行き、認証書を受取った時でしょうか。」

ハ「なるほど、1年半の苦労が結ばれた瞬間ですね。」
末「はい。当初は上級と縁を切る事に躊躇いを感じていた父でしたが、途中からは納得してくれて、最後、出発の朝などは私に感謝と労いの言葉を掛けてくれました。親孝行のつもりで始めた事ではありませんが、結果的には喜んで貰えて良かったなと感じています。」

ハ「なるほど。記事の中で読者の方から評判や支持が高かったのは『大教会長からの電話』だったかと思います。お供えを出さなくてもいいように配慮するから申請を取り下げなさい、という大教会長さんの提案をキッパリ断った出来事でしたが、これについては何かございますか?」
末「多分、普段多くの人が感じていても口に出せない、直接訴える事も出来ないような話を『本当にぶつけた』ので、多くの方が共感し支持してくれたのだと思います。天理教の組織では、下の者から上の者に意見してはいけないという雰囲気というか、不文律がありますから。」

ハ「確かにそうですね。最後の大教会のN役員との議論などは、部下教会の会長さんやまして子弟などでは有り得ない感じがしましたが。」
末「そうかもしれません。まあ、あの段階で官庁から返答を貰っていたので、強気で言いたい事を言ってしまったという所です。ただ、あの議論では、実は、私の主張の方がおかしいのですけども。」

ハ「どういう事ですか?」
末「天理教の組織の中では、『教祖様の教え』は言ってはいけないのですよ。」
ハ「??」
末「教会規則を理解している人はお判りだと思いますが、教会規則の目的は『天理教教典に依拠して』となっています。つまり、教会の中では『天理教教典』以外の事を教えてはいけないのです。もちろん、教典にも『ひながた』の章があり、教祖様の事に触れてはいますが、あくまで『教典に書かれている内容と教え』でなければならないのです。」

ハ「でも、天理教教典は三原典である、みかぐらうた、おふでさき、おさしずから作成されたものですよね。みかぐらうたとおふでさきは教祖様の直接の教えなのですから、教祖様の教えを言ってはいけないというのは意味が分かりませんが?」
末「天理教教典がみかぐらうたの精神や内容から乖離しているという指摘は、教内でも多数ある事はご存知かと思います。でも、規則では教典に依拠して話をしないといけない。教典に反するような事や矛盾する事を主張するのは、異端なのです(笑)」

ハ「でも、修養科などでは教祖伝を学び、教祖様のひな型を辿れと教えています。これはどういう事なんでしょうか?」
末「正確な所は分かりませんが、本部と言われる宗教法人天理教や宗教法人天理教教会本部は、一般の教会とは規則が違う、目的部分も違う内容なのではないかと思えます。そうじゃないと、教典に矛盾する教組伝の事を教えられませんからね。だから私の立場で『教祖様の教えじゃなかったら安心して信仰できない』という主張は間違いなのです。」


ハ「なるほど、そんな事情があったのですね。後は、ネットでの過去記事を全て削除した事がありましたよね?読者の方には何事かと心配された方もいらっしゃったと思いますが、その辺りをご説明願いますか?」
末「はい。その際にご心配をお掛けした方、ご不審に思われた方には改めてお詫びします。
事情を説明しますと、丁度、官庁の認証が下りる直前だったのですが、上級側がこのネットの記事の存在を嗅ぎつけたという情報が入りました。この記事は、最初にフィクションともノンフィクションとも書かずに、実名こそ出してはいないモノの、読む人が読めば全て分かってしまいます。当然ながら登場人物に記事にする事の承諾などは貰っていません。特に、大教会長さん等は役職名であっても個人の特定をしているようなものですから、その個人情報に近い内容や電話でのやり取りを記事にする事は、例え事実であっても『名誉棄損』と言われてしまう事も考えられます。会話ややり取りなどを全て記録している訳でもなく、多少の編集や言葉を変えたりしていますから、本人達からすれば、記事の内容が『事実と異なる』という指摘もあるかもしれません。上級側が捨て身でその作戦を取ってきたら、泥沼の争いになる可能性も0ではないのです。それで削除させて貰った訳です。」

ハ「なるほど、理由は分かりました。しかし、そうすると削除した過去記事は二度と表に出せないという事になりますか?」
末「このままでは難しいでしょうね。だから、貴方に来て貰ったのですから(笑)」

ハ「相変わらず用意周到というか、考える事がズルいですよ(笑)」
末「まぁ、そう言わないで下さい(笑)。実は、独立後の宗教法人のネットでの公開について、責任役員会議で否決されてしまって、今の段階では、公式には出来なくなってしまったのです。」

ハ「責任役員会議というと、貴方と父上、妹さんの三人ですよね?」
末「そうです。妹は、この記事を同じような状況で悩み苦しんでいる教会や人に教えてあげたいという点では賛成してくれているのですが、先程のようなリスクがあるので、全部を公表して旦那さんや嫁ぎ先の家に迷惑が掛かるのは避けて欲しい、という事です。」

ハ「なるほど、尤もですね。」
末「で、記事の原稿もサイトのURLも全て貴方に譲りますので、イイ形にして欲しいのです。」

ハ「全く、20年ぶりかと思ったらそんな用件とは。そんな事を言われても、どこまで出来るか分からないし、貴方の意図する内容をそのまま伝えられるとは限らないじゃないですか。」
末「構いません。ハルアキさんがここで見て聞いて感じた事を、ハルアキさんの思う通りにしてくれて結構です。無理せず、出来る範囲で結構ですから。ただ、問い合わせや相談の人がいたら、そのまま私に伝えてください。そして、私の言葉をそのまま伝えてあげてください。ハルアキさんならやってくれると思っていますよ。」

ハ「仕方ないなぁ。まぁ、末端教会役員さんとは一心同体みたいなモノですからね。出来る範囲でイイなら協力させて貰いますが。」
末「そうそう、それでこそ適材適所、役割分担という『かんろだいの理』の教えに沿う事です。」

ハ「いや、私は信者ではないのだから勘弁して下さい。」
末「そうでしたね。まぁ、後は頼みます。」

ハ「では、最後に読者の皆様に一言。」
末「はい、ここまで読んで頂いた方に感謝とお礼を申し上げます。また、この記事がどの程度参考になるか分かりませんが、被包括関係を廃止したいと考えていらっしゃる方には、慎重に事を進めて頂きたいと思います。これはあくまでも一つの情報ですので、この通りにやれば間違いない等とはとても言えません。重要なのは事前の準備と責任役員同士の結束です。公告開始から官庁に申請書を出す2ヶ月半の期間が勝負だと言えるでしょう。何かあればご相談に乗らせて頂きたいと考えていますので、遠慮なくご相談ください。宜しくお願いします。」

ハ「ということで、私からも読者の皆様に感謝とお礼を申し上げます。これからも宜しくお願いします。」



以上で「被包括関係廃止実行編」を終わらせて頂きます。
なお、削除した過去記事は、加筆修正して「フィクション」として別のサイトにUPさせて貰ってます(タイトル『1/17000の闘争と逃走』)
トップページのリンク集からご覧ください。

皆様には、長い間お付き合いいただき有難うございました。
また、追加や関連する事、もしくは、手続き中には書けなかった話や裏話(笑)などをハルアキさんにお願いして書かせて頂くかもしれませんので、たまには覗きに来てください。

皆様の今後のご健康とご多幸を願いつつ、失礼します。