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ハ「おふでさきに書いていないモノが教理として平然と語られている事にも問題があるように感じます。」

責「五つの埃が八つの埃になって、その内容や解釈も歪んでしまった。こういった事も『神の心を受け入れられない考えや価値観』の圧力というか、対立の結果でしょう。なにしろ、『神の心を受け入れられない』という事は、『神の心に真っ向から反対する、対極にある価値観』ですから。こういった事はキリスト教などにも語られている事で、聖書の中にもイエスが『眼の中の丸太』と言っています。」


ハ「眼の中の丸太ですか。どういう事でしょう?」

責「私は日本語訳の聖書しか読んでいませんし、文章そのものは忘れてしまいましたので間違っているかもしれませんが、
たしか、イエスが神の心を受け取ることが出来ない人たち、聖書の中では律法学者とかファリサイ派の人達と呼んでいますが、その人達に向かって

『あなた方は民衆に向かって、眼の中のおがくずを取りなさいと説法をするが、何故あなた方自身の眼の中の丸太を取り除こうとはしないのか?』

と批判する場面があります。
この、おが屑にしても丸太にしても、神の心と違う、神の言葉を見ることが出来ない、神の教えを受け取れない人達が持つ考え方や価値観です。」


ハ「おが屑に対して丸太とは、ずいぶん頑固な考えというか、なんというか。ちなみに、イエスの言う丸太とは、教祖の言う埃と違いがあるのでしょうか?」

責「イエスは、丸太が何であるかを具体的には言っていません。

あくまでも例えとしておがくず、丸太と言っているだけなので、どのような考えや価値観の事を指すのかは聖書を読んだ人が自分で判断するしかありません。

その点では、中山みきさんは

『おしい、ほしい、かわいい、よく、こうまん』

と具体的に言っています。

イエスは『神の国』という表現で神の心が実現された社会や世の中の事を言っていますが、中山みきさんは元の理から始まる『かんろだいつとめの世界』で神の心が実現された社会や世の中の事を教えています。

かんろだいつとめの意味や内容については以前もお話ししましたので省きますけど。」


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ハ「あれ、ちょっと待ってください。キリスト教では人間社会とは別の、死後の世界として善人や教えを受け入れて悔い改めた人達が行ける世界として、神の国とか天国の事を教えていますよね?」

責「そういう解釈が一般的だと思うのですけど、そこも一歩踏み込んで考える必要があるでしょう。仮に、キリスト教が死後の世界としての神の国や天国の存在を主張しているだけなら、この世、人間が生きている間にするべきことは、死後に天国に行きたいから教えを守り、地獄に行くのが嫌なら悪い事をしてはいけない、という教えになります。」


ハ「そうですね。そういう宗教ではないのですか?」

責「じゃぁ、天国も地獄も死後の世界なんて信じない、という人達に対してはどういう説明をしますか?」


ハ「ええと、そういう人達は神様の存在そのものを信じないのだから、説明出来ませんし、説明する必要もないでしょう。」

責「そうなりますよね。でも、イエスの言った神の国、天国を、今この世で生きている人達の社会で実現するために『悔い改めなさい』と説いていたのだとしたら、どうでしょう?」


ハ「あれ?それは、本当の話ですか?仮定の話ですか?だとしたら、と言うのですから仮定の話ですよね?」

責「はい、仮定の話です。ハルアキさんはイエスの教えが、死後の世界に天国に行くか地獄に行くかの違いがあるから、生きている間に悔い改め神の言葉を受け入れて生活しなさい、という教えだと理解している訳でしょう?」


ハ「そうではないのですか?少なくともキリスト教ってそういう教えだと思っていましたが。」

責「生きている間に悔い改めれば天国に行けるという教えなら、極端な話、死ぬ直前に悔い改め洗礼を受ければ良いのだから、それまでは好き勝手な生き方をしよう、という解釈も成り立ちませんか?」


ハ「まぁ、そう言われればそうなのかもしれませんが、実際のキリスト教ではどう解釈しているのでしょう?」

責「知り合いのキリスト教関係者に質問した限りでは、そのような都合の良い考え自体が神の受取る事ではない、と言ってましたけどね(笑)。」


ハ「まぁ、そんな考えでは、死ぬ間際に本当に悔い改めたかどうかも分からないし、それで天国に行けるとなると早くから悔い改めた人に失礼というか、不公平のように思えますが。」

責「まぁ、普通に考えたらそうなりますよね(笑)。
でも、神の世界、神の思し召し、神の物差しで見たら、そうとばかりも言えません。
というのは、イエスの言葉でも『罪深い者ほど赦される』という趣旨の内容が沢山あります。お金持ちが神の国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しいとか、身を売って生活の糧を得ていた娼婦などが真っ先に救われる、などという話もあります。
我々の人間世界で当たり前とか常識だと考えられている尺度や価値観と、神の世界の価値観は違う訳です。」


ハ「我々人間社会の常識や当たり前などの考え方では、世の中はダメだと?」

責「当然です。現実世の中は、仏教では『苦の世界』ですから。実際、絶えず世界中で戦争や紛争は起こっています。貧富の差は広がる一方だし、貧しい国や子供たちは今日食べるパンもない、なんて事がある訳です。」


ハ「その点、日本は平和で豊かですよね。本当に良い国だと思います。」

責「何を言ってるんですか。戦争や紛争はないものの、日本だって貧富の差はあるし、差別や凶悪犯罪は無くなりません。特に、ここ20年以上も続くデフレで国民全体が貧しくなっています。子供の貧困問題、国民全体の実質所得の減少、災害の度に指摘されるインフラの未整備、お年寄りの交通事故やブラック企業の問題、毎年の人口当たりの自殺者数は世界でも類を見ないほど多い、などなど、挙げたらキリがありませんよ。」


ハ「え、あの、日本の経済や政治、社会の様々な問題があるのは確かですけど、それとこれとは。」

責「ハルアキさん。そういう現実の問題の殆どは、多くの人が持っている『神の心を受け取ることのできない考え方や価値観』から起こっている事です。

社会全体の『心どおりの守護』の姿です。

東日本大震災で亡くなられた方、行方不明者は18,000人を超えるそうですが、日本国内で毎年の自殺者は30,000人を超えます。
今でも避難所生活をされている方が大勢いるし、建物や建築物への被害は地震の方が圧倒的に多いでしょうが、人命だけでいうなら毎年の自殺者の方が多いのです。
インフラや建物はお金を掛ければ修復する事は出来るでしょうが、亡くなられた方の命は戻りません。」


ハ「政治や経済と宗教は別だと思うのですけど。」

責「キリスト教の『神の国』や中山みきさんの『かんろだいの世界』に政治や経済は無いと思いますか?

キリスト教の『天国』や『神の国』は死後の世界の事なので、その世界の人間たちは飲み食いも着る物も必要とせず、生産も消費もしないから現実のような経済とは無縁の世界だと言う人がいるかもしれません。

あるいは、食べ物も人が望んだり考えただけで何処かから湧き出て来るとか言いそうですけど。

でも、現実社会に生きている私達が、現実社会の政治や経済を全て棄てて生活は出来ません。

勿論『神の国』や『かんろだいの世界』と違うからと言って全てを否定する訳でもありませんし、今すぐ全てを変えろと言っている訳でもありません。
しかし、宗教や信仰が今現在私たちの生きている世の中を『神の国』や『かんろだいの世界』に導くものでなかったら、信じる事も考える事すら無意味になってしまいます。

みかぐらうた12下りの1下り目が経済の教え、2下り目が政治の教えだという事は以前にもお話ししましたよ。」


ハ「あぁ、そうでした。」

責「『神の国』と『かんろだいの世界』が同じものだと言うつもりはありませんが、どちらも神の理で運営されている状態です。

理想と言われればそれまでですが、そこにこそ人間社会、人間個々人が目指すべき生き方や社会があるのではないでしょうか?

そういう社会に少しでも近づく為に働くのが『ようぼく』たる役割です。今の社会の中で産み出される難渋を助けるのも大事な人助けですけど、それで終わりではないと言えます。」






責「という事を前提にして考えた場合、おさしずに『自由自在』という言葉があります。あくまで私個人の解釈ですけど、この『自由自在が陽気ぐらしの心使いの始まり』だと思います。」

ハ「自由自在、自分の思ったように、好きなように、ですか?」


責「勿論、個人主義が認められた現代の『自由』とはちょっと意味合いが違う点に気を付ける必要があります。現在の自由は、個人の勝手、やりたい放題、他人に迷惑が掛からなければいい、という感じになっていますけど、そういう方向の『自由』ではない事はお分かりかと思います。教祖のお話しでは『米』、本席のおさしずでは『宝』が出てきますが、そういうモノに執着しない、囚われない、拘らない、という『自由』でしょうか。」

ハ「食べ物や宝よりも大事なモノ、健康や家族、命という事でしょうか?」


責「私も最初はそう考えたのですけど、教祖のひながたを考えると、自分の命すら拘っていない感じがします。

『劇画 中山みき物語』を読んで頂いてお分かりと思いますけど、教祖は89歳という高齢で『最後の獄舎』の拷問を受け、実際に床から離れられないままで一年後に亡くなっています。

自分の命が大切ならば、警察に捕らわれるような教えを引っ込めて、秀司や真之亮がやったような認可を受けたり、教会の公認運動や、表向きだけでも政府のやり方に逆らわないようにする方法はあった訳です。

実際に、以前見て頂いた『明治教典』は、最初に国家が打ち出した『三条の教憲』で、後の十章のうち、最初は『敬神の章』として八百万の神と十柱の神を、教祖の教えていない、天皇家の祖先の名前を連ねて『総称して天理大神』と呼んで『奉祀す』となっていますから。⁺

でも、教祖はそうはしなかった。

そうすることで自分の命はなくなる事が分かっていながら、正しい教えを説き続けた訳です。

『親の命25年縮めても正しい事を説き続けた自由自在の心』の使い方です。

もっとも、私などにはとても真似の出来ない『自由自在』ですが。」


ハ「命にも拘らない『自由自在』ですか。何ものにも拘りや執着を持たないというと、仏教の『無』に通じる所があるように思えますね。全てを棄てて仏の道を歩む、解脱する、最後は、即身仏が思い浮かびますけど。」

責「教祖が子供の頃から仏教の信仰をしていた事は記録にも残っています。とはいえ、即身仏のような道ではなく、郷の仙人の道を歩み、その教えを伝えています。その理由として、親神が人間の『ようきゆさんがみたいゆえから』だと仰っています。世の中の生活を投げ捨てて、一人で解脱や悟りの道を追求するのは違う、という事でしょう。」


ハ「教組のひながたですか?」

責「はい。
『自由自在』は漢字の意味をそのまま考えれば『みずからに由って、みずからが在る』となります。
漢文読みなら『自分が在るのは自分に由る』かな?
仏教用語にも『じゅうようじざい』という読み方で似たような意味の言葉がありますね。」


ハ「何物にも拘らず、執着せず、自分の心の有り様で自らの人生が決まる、という事ですか。」

責「教えの中にも、心通りの守護とありますし、なってくるのが天の理ですから、今の状態や環境は自分の心で作ったものだという事です。


ハ「それって、因縁とか輪廻転生のお話しに通じませんか?」

責「そうですね。単純に考えれば過去の自分の言動が今の自分を作っている、という当たり前の話ですが、時間軸を生まれ変わりの前生まで伸ばすと、前生の行いの良し悪しで、生まれて来た今世の環境が変わるという、輪廻転生の意味になってしまいます。
だけど、逆に時間軸を短くして今現在で考えれば、『自分で決めた瞬間に自分は変わることが出来る』となりますよね?
教えの中身を知らなかったのなら仕方がない事ですが、知った以上は、最大限に活かしましょう。」


ハ「何物にも執着しない心使いと言われても、何をしたらいいのかさっぱり分かりませんが。」

責「物事には順番と段階がありますから(笑)。

金や物、家族にさえ拘らない、執着しない、と言っても、決して粗略に扱えとか、無駄使いしろという訳ではありませんし、全く必要ないとか要らないという訳ではありません。

このあたりを履き違えると、助かりたかったら全財産をお供えしなさいとか、病気を治して欲しかったら100万円出せ、なんて歪んだ解釈になってしまいます。

昔の話ですが、ある大教会の某大教会長が、事故で下半身が麻痺してしまった信者さんに『助かりたかったら100万円お供えしなさい』と言ったそうです。ところが、その信者さんは50万円しかお供えしなかった。大教会長は渋い顔をしながらも50万円のお供えを受け取って、一応、おさづけをしたそうです。

その後、その信者さんは治療やリハビリを頑張ったそうですけど、残念ながら片足しか回復しなかった。それを見た大教会長は、皆の前で『俺が100万お供えしろと言ったのに50万しか出さなかったから、片足しかご守護を貰えなかったんだ』と言い放ったそうです。

本当に酷い話ですが、いえ、この信者さんがお金に執着していたから良くないという訳ではありません。

執着しているのは大教会長の方です。

こんな教理解釈をするような大教会長の下では、信者さんも部下教会も、ようきゆさんの心使いなんて、とても出来たモノではないでしょうね。」


ハ「それは何とも、酷い話ですが・・・。」

責「そういうお金や物に縛られた考え方や価値観では、どれ程良い話や教えを聞いても、結局、その縛られているお金や物に引きづられて解釈や判断が歪みます。
かと言って、そういうモノから全て解放された『自由自在の心使い』をしなさいと言われても、その境地に至るまでにはそれこそ『即身仏』にでもなるしかない。

私に出来る事は、一つ一つの考えや判断、言葉や行動が『自由自在であるか?』と『神の理に添っているか?』のチェックをする、常に自分の心をチェックする、自分の心の中に別の心を持つ事を忘れない、という事くらいです。」


ハ「何か、常に反省している、という感じですか?」

責「まぁ、ひと言で現せばそうなりますね。」


ハ「でも、信仰心のある人なら、常に自分の心を見直す、反省するというのは、結構当たり前にやっている事ではないでしょうか?」

責「そうですね。天理教に限らず、宗教は自分の内面、心の在りようや考え方、物事の受け取り方や自分の言動を見直す、という教えや教義を基に自分の内面に向かって行くものだと理解している人は、当たり前にやっている事でしょうね。
天理教関係者でも、熱心な信者さんほどそういう傾向が強いと思います。
この、神様の教えや教義を使って、自分の内面に向かうか、外面に向かうかという姿勢が、同じ宗教を信じるという事でも、その人の姿勢や解釈で大きく違ってくると思いますけど。

まぁ、私個人としては、これもバランスと調和が大事だと思います。

内ばかりに向かっていても独りよがりの信仰になってしまうし、外ばかりに向かっていても自分の事がないがしろになってしまう。

内と外のバランスを取ることが『陽気』ですから。

ま、普通は『反省』というと、何か間違ったり問題が起きた時に、叱られたり怒られて自分の行動を見直して『もう二度としません』なんて反省文を書かされたりしますよね。
私も子供の頃はいたずら好きだったので、学校で先生に叱られ居残りさせられて、よく書かされましたよ(笑)。
大人になってからだって、仕事や人間関係、日常生活でも、問題やトラブルがあれば、その原因が何だったかを考え、どうすれば良かったかを心に刻み込み、二度と同じ間違いやトラブルを起こさないように気を付ける、注意するのは当然です。」


ハ「そうですね。子供の頃は学校でよく二人で叱られましたよね?大抵のイタズラは、責任役員さんのアイディアで、私はそれを実行するだけだったと思いますけど。」

責「あれ、そうでしたか?ハルアキさんも一緒に楽しんでいたと思ってましたけど。それに、子供のやる些細ないたずらにあれほど怒らなくても良さそうに思いますけどね。」


ハ「嵐の日に学校の窓の桟に洗剤を注入して廊下中を泡だらけにしたり、気にくわない先生の授業の時に大きなカエルを教卓に乗せて、箱を被せて置いておきましたよね?先生が箱を持ち上げた途端に教室中がパニックになりましたけど、これも『些細なイタズラ』ですか?」

責「どちらも後片付けが大変でしたね。どれも良い思い出です(笑)。子供なら誰だってその程度のイタズラはするでしょうし、学校生活のイベントのようなモノですよ。」


ハ「そりゃぁ、イタズラは楽しかったけど、叱られるのは私の方が多かったのも事実です。」

責「実行犯ですから仕方ありません(笑)。でも私も逃げずに、ハルアキさんを庇って一緒に怒られたでしょう(笑)」


ハ「まぁ、それはそうですが、最後は責任役員さんとは遊んじゃいけない、なんて親に言われたことも有りましたよ。」

責「まぁ、大人達の無理解とお仕着せの教育というのは、困ったモノです(笑)。」



ハ「あれ、何の話でしたっけ?」

責「ハルアキさんが子供の頃の話をし始めたからですよ。まぁ普通『反省』というと、間違ったり問題が起きた時の原因を反省し、どうすれば良かったのかを考えることになります。それが次に活きてくる訳ですから、失敗や間違いは大いに結構な事なんです。エジソンも『天才は1%のヒラメキと99%の汗である』と言っていますから。」


ハ「ちょっと待ってください。悪戯で叱られて反省文を書くのと、エジソンの言葉は同じ事を言っているとは思えませんけど?」

責「おや、どう違うと思いますか?」


ハ「ええと、子供のイタズラや大人の間違いなどは、ルールや決まりを破ったり外れて起きたトラブルや事故などに繋がる訳ですから、周囲に迷惑を掛けますし、二度とその様な事を起こして貰っては困りますので、厳しく反省する必要があるでしょう。でも、エジソンの話は発明の心構えと言うか、偉業をなしとげた人には見えない失敗や隠れた努力の積み重ねがあるという教育的格言ですよね?並べてお話をされても納得しにくいです。」

責「そうです。単なる反省というと、嫌な事、叱られることに繋がりますけど、神様との関係の中で反省する事は、エジソンが多くの発明品を生み出したような、前向きで楽しみな反省なのです。それで、自分も、周囲も、世の中も明るく元気になり『皆が陽気に暮らせる社会』に近づくのですから。」


ハ「ルールを破っていたずらしたり罪を犯したりする事の反省とは違う感じですけど・・・。」

責「そう、その『ルールや決まり』という奴です。
憲法だの法律となれば国民全員が守らなければならないモノでしょうが、それでも常識とか当たり前だと言われているルールや決まりだって、おかしなモノは沢山ありますよね。

そもそも、そのルールや決まりは、何のために、誰のために、誰が決めて、皆が守っているのか、という事ですよ。

常識とか普通は、などと言って納得させようとする人が多いですけど、言っている本人、守らせようとしている本人だって根本を考えていない場合が多いのです。」


ハ「ええと、例えば、責任役員さんが被包括関係を廃止しようとしたとき、大教会から派遣されてきたS教会長のように『こういう規則でやって来たのだから、変えろと言う方がおかしい』というような事ですか?」

https://ameblo.jp/kyoukai-sitei/entry-12303420280.html?frm=theme

責「そうですね。この教会規則が教祖の教えに反している、沿っていないという事が分かっていながら、一番大事な事を考えることもせずに、『離脱する教会が悪い、間違っている』と言うだけでしたから。」


ハ「それが『自由自在』ではないという事でしょうか?」

責「まぁ、S教会長に教祖の教えがどうとか、教義解釈がなどと幾ら話しても、自分が世話をしている、自分の部下や子分だと思っていた末端教会の子弟から言われたのでは、一切受け付けないという事は分かっていましたけどね。
心が組織や大教会に囚われているのに気付かず、考え方や価値観が歪んでしまっている典型だと言えます。あの時は、S教会長との話は時間の無駄だと判断して早々に話題をずらしましたけど(笑)。

これと同じで、いくら教祖の教えや教義を勉強しようとしても、その人の心が組織やお金、何かにに囚われていたら、全く理解できないし考えることも出来ないと言えます。」


ハ「なるほど、確かに、何かに囚われていたら、判断や結論は歪みますね。」

責「そういう、自分の中にある考え、価値観を取り除かないと、どれほど良い教えや真実を眼にした所で歪む可能性があるのです。かと言って、誰でもそうなのですが、自分の考えや価値観で自分の判断基準が歪んでいるという事に気が付かないのが普通なのです。これを中山みきさんは、『くせしょうぶん』と言って、『とりなされや』と教えた訳ですから。」


ハ「それって、その人の問題になる性格とか、ついついやってしまう癖の事ではないのですか?」

責「広い意味ではそういう個人的な癖や性格も含まれますけど、おそらく、中山みきさんが言いたかったのは『神の心を受け入れられない個人の考えや価値観』の事でしょうね。

人間はロボットではないのだから、ハルアキさんの言う癖や性格の違いなんて多少あっても問題は無いでしょう。

まぁ、酒乱とか女癖が悪いとか言うなら問題でしょうが、性格なんて言葉の言い方で良くも悪くもなりますから(笑)。

でも、神の心を受取ることの出来ない考えや価値観を持っていたら、心の鏡が曇っていたら、真実や物事を見る眼が歪んでいたら、神は居ないも同然ではないでしょうか。

その最たるモノが『埃』だという事です。」


ハ「八つの埃、ですか?」

責「以前もお話ししましたけど、おふでさきに書かれているのは、おしい、ほしい、かわいい、よくとこうまんの5つです。にくい、うらみ、はらだち、は入っていません。」


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責「そう改まって言われても、今までも言って来た事なのですから。まずは、『元の理』で月日親神が人間を創造したときの目的と言うか、気持ちですが・・・。」


ハ「泥海の地上を見て味気なく思い、人間が陽気にくらす様子を見て共に楽しみたいと思った、という部分ですか?」

責「はい。『陽気ぐらしの天理教』とも言われる位、教え・教義と切っても切れない関係にある『陽気ぐらし』ですが、ハルアキさん、どういう状態が『陽気ぐらし』だと思いますか?」


ハ「陽気ぐらしですか?そりゃあまあ、まずは身体の健康でしょうか。で、生活や必要な事に困らない位のお金があって、仕事はしてても家族と過ごせる休日や時間があって、家族の笑顔と気の合う友人たちがいて、あとは・・・。」

責「結構、色々と必要なモノがありますね?(笑)」


ハ「そりゃぁ、いつも明るく楽しい生活を送るとなったら、色々と必要なモノや家族友人は欠かせません。」

責「以前、ハルアキさんには陰陽二元論の陰と陽、陰気と陽気についてお話しした事があったと思いますけど?」


ハ「あぁ、天と地、明暗、温かい寒い等の、対立する陰と陽の分類と、その対立する二つのバランスが取れている状態が『陽気』で、バランスが崩れている状態が『陰気』だと。」

責「はい。
そして、バランスがとれている、全体が調和している『陽気』は、プラスの方向、成長や発展、新たな命が生みだされる様子です。
その逆の『陰気』は、衰退、消滅、死などに至る様子です。

先程の食物連鎖の話しにしても、『陽気』なら、植物は太陽の光を一杯浴びて成長し、虫たちが大いに食べて沢山卵を産む。当然、小鳥や捕食動物達もお腹一杯で子育てに忙しいくらいだし、それらを捕まえる鷲や鷹も安心して卵が産めます。
火山の噴火や山火事などで植物が減ってしまうと、虫も食べるモノが無くなってあっという間に飢え死にです。昆虫や虫が減れば、小鳥やカマキリたちもエサが少なくなって安心して卵を産むことが出来ないでしょう。最後は、鷹や鷲だってエサが食べられなければ死んでしまいます。
こういう状態が『陰気』ですね。」


ハ「まぁ、陰陽二元論は理解できますけど、どうして『五体満足健康でお金と時間があって、家族や友人と仲良く暮らす』ではダメなのですか?」

責「だって、そんな、物だのお金だの、遊ぶ暇だの、仲の良い家族や友人だのと、即物的過ぎますよ。それが教祖の教えてくれた事の答えだとしたら、ちょっと宗教っぽくないと思いませんか?(笑)」


ハ「でも、責任役員さんは以前から『中山みきさんの教えは宗教という範疇ではない』と言っていたじゃないですか?」

責「それはそうです(笑)。
まぁ、ダメな理由としては『教祖の50年のひながた』でしょうか。

立教以来、教祖の置かれた状況は、
夫を失い、
秀司の失敗で貧乏になり、
近所や村方からは笑われ、
子供にも先立たれ、
他宗教や医者からの妨害はまだしも、
世間では隠居する年齢でありながら、警察に17度も逮捕拘留されるという道すがらです。

そんな人生にも拘らず、ひな型として歩みなさい、

と皆に説いているのです。

物や、お金や、時間や、家族や、名誉などではないのだ、陽気ぐらしは『銘々の心の使い方ひとつ』なのだと教えて下さっている訳です。」


ハ「そんな不幸な部分だけを抜き出さなくても。あれですか?天理教の言葉に、『食べるモノが無くても、水を飲めば水の味がする』というお話がありましたよね?そういう、不足や不満を言わずに有るモノを喜びなさい、という教えですか?」

責「中山家が貧のどん底に落ちたとき、こかんさんが『今夜食べるお米がありません』と言ったら、教祖が諭したという天理教関係者なら誰でも知っている逸話ですね。
その逸話が事実かどうかは分かりませんが、
おさしずにも

『何程宝がありても、身の内より病めばこれ程不自由はあろうまい。自由自在心にある。この理をわきまえ(明21,1.8)』

というお話があります。

心の持ち方、考え方は自分が自由自在に変えられる、決められるのだというおさしずです。」


ハ「教組の言葉は事実ではないのですか?
でも、本席のおさしずにも食べ物が宝物に変わっていますけど、同じようなお話があるのですから、無いモノに不足や愚痴を言うより、有るモノを喜び感謝して喜んで通りなさい、という心や気持ちを切り替える素晴らしい教えですよね?
世の中でも、例えばお酒を飲んでいて、『もう酒がコップに半分しかない』という考え方より、『まだ酒がコップに半分もある』というようなポジティブシンキングをしなさい、という話をよく耳にしますけど。」


責「不足や愚痴で心を満たすより、感謝と喜びで心を満たした方が良いというのは間違いないでしょう。

ただ、この『水を飲めば水の味がする』という教祖のお話しと『何程宝がありても』という本席のお話しは、単純に同じ内容とは言えないのです。」


ハ「え?そうなのですか?どう違うのかよく分かりませんが。それに、責任役員さんが教祖の逸話が事実ではないと考えている理由って何ですか?」

責「理由は簡単ですよ。

中山家が秀司の失敗で貧乏になったのは事実で、その日に食べる米にも不自由になった時期はあったかもしれない。
でも、その時の家族、こかんさんと教祖の会話を誰が聞いていたのでしょう?

稿本教祖伝に載っている有名な話ではありますけど、もしこの状況と会話があったとしたら、その事を知っているのはこかんさんと教祖の二人だけです。
その時代には信者はもとより後のお弟子さんもいません。
同居人もいなければ下女や下男もいません。

その二人だけの会話が後に伝わるとしたら、こかんさんか教祖が後になって皆に話したという事になりますけど、そういう記録も、誰が聞いたという話もありません。」


ハ「なるほど、確かに。」


責「そして一番重要なのは、教祖の逸話だけで考えると、

現実の『食べるお米が無い』という問題を無視して考え方や心の持ち方だけを変えれば良い、というかなり乱暴な教えだという事になってしまいます。

水だけでも数日は生きられるでしょうが、人間一生水だけ飲んで生きて居られる訳はありませんから、

『愚痴を言ってないで隣の家から借りて来なさい』とか

『米は無くても大根があったでしょう?』とかいう問題を解決する方法ならまだしも、

お腹が減るという問題を先送りにして、我慢して違う事で喜びなさいと言われても腹の虫は言う事を聞いてくれません(笑)。」


ハ「では、この教祖の逸話も、例の『芝居の脚本』だという事ですか?」


責「芝居の脚本とは断言できませんが、本席の『自由自在心にある。この理をわきまえ』という部分が抜けているのです。

心の持ち方や考え方は銘々の自由自在で、不足不満で満たすのも、喜びと感謝で満たすのも自由、問題解決に動くのも、放って置いて見えないふりをするのも銘々の自由な訳です。

自由ならば、解決させる方向で心を満たす方が建設的だし、明るく頑張ることが出来ます。

天理教で言われている
『御馳走が目の前にあっても、病気で食べられない人も居る。私達は水を飲めば水の味がする、ありがたいと感謝しなさい。』
という教えだけでは、
『無いモノに不満や不足を持つな、我慢しろ、有るモノを見つけて感謝しろ』
という話しや印象しか受けないのです。

そうすると、不足や不満を持つ事、感じることが『悪』になってしまう。

どんな環境でも不幸な出来事があっても、喜びと感謝で過ごせないと『教えを理解していない』という話になってしまう。

一列兄弟で子供可愛い、この屋敷に来た者は喜ばさずに帰されん、と説いた中山みきさんの教えとは、お話の印象が違うと思いませんか?

だから、この教祖のお話しは、理解が足らない人が話を作ったか、重要な説明や解説を外してしまった結果だと感じられるのです。

これが多くの信者や末端教会を苦しめている『本来の意味を知らずして、遺憾な結果』になっています。」


ハ「根が深いですねぇ。責任役員さんは、不幸や不自由な中での陽気ぐらしの心使いとは、どういう状態だと考えますか?」

責「いきなり本質的な質問ですね(笑)。
勿論、陽気暮らしの心使いが物や金、時間や人間関係などだけで出来るモノではない事は明らかですが、それらを全く無視して心の持ち方や考え方だけで出来るモノでもありません。
言い換えれば、物質と精神、唯物論と唯心論の対立となりますが、どちらか一方が正しいとか、間違っているというお話ではないと思います。

その両方のバランスと調和が大事です。

その上でどのような心や価値観、考え方を作っていくのか、ですかね。

例えるなら、何を基礎にして、どんな柱を、どのような壁を、梁を、天井を、屋根を作っていくのか、どのように心を建て替えていくのかが、教理を勉強する心得です。

優秀な大工さんが建ててくれた家なら、まぁ、安心して住めるでしょうけど、腕の悪い、金儲けの事ばかり考えて手抜きや材料費をケチったりするような大工さんが建てた家では、住み難いかもしれませんし、ちょっとの台風や地震で倒れてしまうかもしれない。

だから、大工さん選びも大事なのですが、根本に必要なのは大工さんを選ぶ自分たちの眼という事になります。」


ハ「ふむ、その眼が先ほどの、使われている言葉、教語の意味や定義、中身をじっくり見る、考えるという事ですね。」


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(続く)

責「まず大事な事は、言葉の意味や定義をキチンと考える必要があります。先程も、言葉の意味も定義もしないままで議論したところで立っている位置や見ている方角が違うので意味はない、とお話をしましたけど、同じ教えの言葉でも、人によってイメージや定義、理解の仕方が全く違うのです。極端な事を言えば、『神様』という言葉一つでも人によってイメージや解釈が違うからややこしいのです(笑)。」

ハ「オカルト親父は、教祖に降りてきた神は、他所の宗教の神がどうたらと言っていましたが。」

責「オカルト親父さんは、教祖に降りて来た神の呼び名を、自分が信じる宗教で呼ばれている名前で言っているだけだったと思います。掲示板を読ませて貰った限りでは、神様の定義や能力や役割などは何も説明していなかったように見えましたけど。その神がどんな存在だとか、どういう働きをするとか、どんな力を持ってるとか、一切説明も定義もしていなかった、意図的に説明しないのか、本人も理解してないので説明できないのかは不明ですけど。」

ハ「なるほど。」

責「で、ハルアキさんの方は、『理が神である』として『神様の定義』を説明していますし、それをもって相手の神を否定しようとしていたと思いますけど、相手が『定義していないモノ』を否定したところで議論にもならないし結論も出ませんよ(笑)。」

ハ「あ、いや、ははは。。。」

責「『全知全能の絶対的力を持った神』という存在だって、これが人間界に現れて、悪人を懲らしめ善人には惠をくれる、とか言うならオカルトですけど、人間界には全く手出しをしないで見ているだけだというなら、私達の考える『理が神』と違いは無いんです。」

ハ「確かにそうですね。この宇宙の規則やルール、万物を支配する法則などは存在していますから、それをどんな名前で呼ぶかという違いでしかない訳ですね?」

責「えぇ、人間のような人格を持っていて、好き嫌いや善悪正誤の判断をして、それで世の中にちょっかいを出すと言うならオカルトですけど、厳然と一定不変で存在する基準やルールや法則を神というなら、私達が考えるモノと一致します。オカルト親父さんは、神様の定義をしないでいるのですから、どんな神様をイメージして言っているのか分からないですね。それに、神様以外の話は『世間的にはそこそこ』な事も言っていますから、オカルトとは断定できませんよ。まぁ、どっちでも構いませんが。」

ハ「そうですね。」


責「話を戻すと、教え、言葉、教語の定義については、2代真柱が『続 ひとことはなし その2』の序文でこんな話しをされています。



『その頃、つまり筆を執りかけた頃、私の心を強く打ったものは、種々語られている天理教用語の解釈という事だったのです。つまり、平気で交わしている言葉も使っている人々勝手な解釈のために、その意味を間違って伝え、意志の疎通を欠く結果とさえなると云う事なのです。

勿論言葉にも生命があり、「生きもの」として時代々々によって、その意味内容もかわるものです。しかし、教義内容を、勝手に使い広められた意味で解釈する時には、思いもかけぬ誤りに陥るものであり、又、その自己流な、或は第二義的な意味に固まってしまう、本来の思召しを失ってしまう結果を招く感が多いのであります。

(中略)

それは、教理を自己勝手に流し、それで教理を語り、責任を教語に託して曲道に導入するからであります。
「ぢば」だけではありません。「ひのきしん」や「ほこり」の解釈についても、段々と都合よい様に解釈され、慣用され、それによって漸次、何れが本来の意味かを知らずして、通俗化して遺憾な結果をもたらすものとおそれたのであります。

(後略)』



大変厳しい話しですし言葉です。

教団の歪みばかりでなく、今現在も全国の各大教会や上級教会などで起きている、多くの信者や部下教会の苦しみ、悩み、問題点などの原因を端的に表した内容だと言えます。

『教理を自分勝手に流し、それで教理を語り、責任を教語に託している』

勿論、各所で問題になっている教理の自分勝手解釈、自分に都合の良い解釈は、その口にしている本人が考えたモノではないかもしれないし、先人や何処かから聞いただけかもしれない。

でも、その中身を考えず、吟味もせずに、その場で思い付いたり都合の良いように使ったりして益々歪んでいく、ズレていく。

それに気づかず『~~に書いてある、~~が言った。』等と責任を教語に押し付けて、ますます歪みやズレを大きくさせてしまう。

もう、歪みどころか、原形や本来の道すら何だか分からないような状態になってしまっているのではないでしょうか。」



ハ「そうですね。責任役員さんが離脱手続きをしている時も、教会制度のどこが一列兄弟なのですか?という質問に対して、教会制度と教祖の教えは分けて考えなければならない、と言っていた大教会役員が居ましたが、分けて考えられるのなら、教祖が警察に17度も逮捕拘禁されたご苦労は何だったのでしょうね?」

責「全くです。そういう歪んだ考えや自分の都合の良いように解釈して語って、その責任を教語のせいにしてしまうのですからどうしようもないです。二代真柱の話は昭和25年のことですから、70年ほど前のことです。真柱がこれだけハッキリと、厳しく言っていたのも関わらず、それが解決されないまま時が流れ、代が変わってますます歪みが大きくなっているのが現状の教団や各教会の有り様でしょう。これでは、教えが伝わるどころか、信者が逃げたり、後継者が逃げ出すのも当然です。中山みきさんの教えに含まれている精神や心といったものが全く見えなくなってしまっているのですから。」


ハ「責任役員さんは、常々、『今の教団は、中山みきさんの教えの耳障りの良い言葉だけが残っていて、看板にだけ使われているようなもので、その中身も精神も心も全く別物の教理や教え、指導やお諭しなどが蔓延している』と言っていましたけど、2代真柱でさえ心配していた、懸念していた状態になってしまったという事ですか?」

責「勿論、二代真柱やそれ以前の時代は問題が無かった、という訳ではありません。中山みきさんが存命中からあった問題、起こっていた事だと言えます。ハッキリ言ってしまえば、おふでさきは『教義解釈に関する傍な者への叱責と指導』、おさしずは『教義の解釈と教団運営に関する叱責と指導』だと言えます。そういった種々の歪みや問題が、教団組織が大きくなり、社会の発展と情報の伝達が早くなったので、誰の眼にもハッキリと見えるようになってきたという事でしょう。」


ハ「なるほど、早く教団関係者、本部や指導者が解決する方向に舵を切って貰いたいですよね。」

責「それもそうですが、私の言いたい事は違いますよ。」

ハ「え?」


責「最初に言ったように、教理を勉強する上で、私たち自身が気を付けなければならない事なのです。会長さんが言った事だから、偉い先生が言う事だから、どこそこに書いてあったから、なんて理由で100%信じてしまう事が問題だという事です。全てを疑えという訳ではありませんが、その言葉の意味や定義をキチンと捉えて、どのような使われ方をしているかを考えないと、『本来の意味を知らずして、通俗化して遺憾な結果をもたらす』事になります。」

ハ「勉強する上で、ですか。そういった言葉や教語の意味を覚えるのが、教理を学ぶ事だと思っていましたが。」

責「世の中では、見るも因縁、聞くも因縁、とか言って、見たこと聞いた事は全て受け入れなさい、等と言う人も居ますが、勉強しようと思うならそれだけではダメです。受け入れるというのは、自分が持っているその言葉のイメージや解釈、定義と、いま見聞きした言葉のイメージや解釈との違いをハッキリさせて、二つを比較検討して、どちらが正しいのか、どちらを選択するべきかをジックリ考える必要がある訳です。具体的に言うなら、『神様』なんて言葉だけをとっても、人によってイメージも定義も違います。同じ宗教を信じる者同士でも違いがあるでしょうし、特に天理教などでは明確になっていない部分も多いので、まさに『バラバラ』だと言えますよね。」


ハ「なるほど。『月日親神』だけでも、責任役員さんが言うように『理のみの存在』と解釈もできるし、キリスト教のように『天地創造の絶対神』だと思っている人も居る。神道に出て来る神様のように『天界に住んでいて、何かあったら地上に降りて来る』と思い込んでいる人も居るし、『お願いすれば、人間の病気を治したり困った人に助けの手を差し伸べてくれる不思議な力を持った神様』だと思っている人も居る。教典にも『元の神実の神』として人間を創造した神様で、教祖の身体に降りて来た、という表現がありますが・・・。もう、何が何だか分かりませんね(笑)。」


責「更に言うなら、二代真柱は、昭和25年に天理大学の学生たちに

『今度出た教典も、まだまだそこに使ってある言葉は、教祖がおっしゃったお言葉と違ったり、あいまいに使ってある点があるから、みんながしっかりと教祖のお言葉から考えてその誤りを指摘し、直していかなければならない。これからの勉強はそれだ。』

というように言われたそうです。

今度出た教典というのは、昭和24年に刊行された『天理教教典』で現在も使われているモノです。真柱ご自身が裁定して認めたモノを、1年もたたずして直していかなければならない、と仰ったわけですから、最初から『違う』という事が分かっていて発行した訳でしょう。その話を聞いた学生の中に八島英雄氏もいらっしゃって、八島氏はその言葉でその後の人生や方向性が変わったと記しています。」



ハ「しかし、教典ですらあいまいだとなると、天理教用語辞典や色々出ている解説本なども怪しくなりますね。とすると、あとは・・・。」

責「やはり、原典しかないでしょうね。あとは、原典とはされていませんし、取り上げる部分は慎重に考える必要がありますけど元の理・泥海古記でしょうか。とはいえ、これらをいくら読んでも、言葉や教語の意味や定義、解釈はしてくれません。全体を読んで、話しの流れや繋がり、結びつきや関係性などを考えながら、全体の雰囲気や教えに流れる骨格や精神、神の心というものを読み取っていくしかありません。それがそれぞれの言葉の定義であり、意味であり、使い方になる訳ですから。」


ハ「なかなか大変な勉強になりそうですが・・・。」

責「0からこれをやるのは大変です。おそらく、思考の試行錯誤と迷い道の連続で迷子になってしまうのが普通でしょう。でも、幸いにも先人が居ますし、色々と教えてくれる先生もいます。私は運が良かったと言えますね。」

ハ「では、その教義解釈をひとつ・・・。」


0156



(続く)

オカルトについて

2019年05月10日
世間ではGW中のある休日の昼下がり。


ハルアキ「責任役員さん、『劇画 中山みき物語』では色々教えて頂き有難うございました。」

責任役員「いえ、大したことは何も。」

ハ「それで、改めて質問したい事があるのですが。」

責「何でしょう?」

ハ「責任役員さんは、常々、オカルトを排して考えないと中山みきさんの教えは理解できないし受け取れない、と仰っていましたよね。」

責「えぇ、そうです。オカルトで解釈すると、既存の宗教や世間並みの判断基準でしか見られなくなって思考のドツボに嵌ります。」

ハ「そこでお願いなんですが、責任役員さんのオカルトを排した教えの解釈を体系立てて教えて貰えませんか?」

責「おや、いきなりどうしたのです?ハルアキさんは信仰や教義の事には興味がなかったのでは?現実に私が話す事や教会でやっている事などを見聞きするのは構わないけど、社会生活に邪魔になりそうだから、教えや教義を身に付けようとは思わないって言ってませんでした?」

ハ「いやまぁ、それはそうなのですけど、実は・・・、これを見てください。」

(鞄からコピー用紙の束を取り出す)

責「これは?」

ハ「ネットの掲示板での書き込みをコピーしたモノなのですが、ある人物、まあ仮に『オカルト親父』と呼んでおきますけど、このオカルト親父が、教祖の教えや教祖自身を教団本部よりも酷いオカルトで解釈して書き込んでいるモノですから、気になってしまって。」

責「あぁ、その掲示板なら読みましたよ(笑)。ハルアキさんは相変わらずですねぇ(笑)。」

ハ「いやまぁ、責任役員さんから聞いて自分が納得したものを、ああまで歪められると、ちょっと黙っていられないというか、気が済まないというか・・・。」

責「ハルアキさんのそういうところは嫌いじゃないですけど、若いころからそれで損をしたことが何度もあるでしょう?私も忠告したことがあったと思いますけど(笑)。」

ハ「そんな、夏目漱石の『坊ちゃん』の出だしみたいな事を言わないで下さいよ。これでも、私自信反省している事もありますし、直そうと努力はしています。まぁ、それで今回は、中途半端な知識じゃダメだなと考えて、教えてもらおうと思ったのです。キチンと記事に纏めますから。」

責「そうですか。ハルアキさんの気持ちや考えは分かりますけど、難しいですね。」

ハ「え?どうしてです?」

責「だって、そのオカルト親父さんは議論するつもりもないし質問にも答えないって宣言しているのでしょう?それじゃぁ、看板か壁の落書きみたいなものじゃないですか。それに対して怒ったり文句を言ってもハルアキさんのストレスが溜るだけですよ(笑)。」

ハ「いや、だけど、黙っていたら益々書き込みが増えるじゃないですか。」

責「仮に、オカルト親父さんが質問に答えたとしても、言葉の定義や認識も確認せずに話をしたって、結論も答えも出ませんよ。」

ハ「オカルトという言葉の定義ですか?」

責「オカルトに限らずですけど、定義もなく話を始めたって立ってる位置が違うのですから、『貴方は間違っている、私にはこう見えます。』で終わりになってしまいます。もっとも、このオカルト親父さんは最初からそれを狙っている訳で、それに影響されたり釣れる人を探している感じがしますけど。」

ハ「それに影響されたり納得する人がいたら、それはそれで困りませんか?」



責「ん~、まぁ、ハルアキさんの気持ちも分からないではないですけど。」

ハ「お願いします。」

責「そもそも『オカルト』って世間一般ではどういう意味だと思います?」

ハ「世間一般ですか?それは、ホラー映画とか、お化けの話とか、幽霊を見たとか、怪奇現象だとか?」

責「非常に分かり易い『オカルト』ですね。世間でも、お化けだの幽霊だのを現実にあると考える人は少ないでしょうし、映画やパワースポット、お化け屋敷で楽しむ程度でしょう。では、宗教的にはどうですかね?」

ハ「それは、責任役員さんが仰っていた、絶対的力を持つ創造主の存在とか、魂の輪廻転生とか、天国や地獄の存在とか、ですよね?」

責「それも分かり易い『オカルト』ですね。でも、私はそれらを『存在しない』とは言っていませんよ。」

ハ「え?あれ?そうでしたか?目一杯否定していたと思いますけど。」

責「まぁ、強く言っていた事もありますから否定しているように受け取られたかもしれませんが、私は『有るかどうか分からない』と言っています。だって、誰も地獄を見てきた訳でもないし、魂が生まれ変わる事を証明することも出来ない。だから『有るかどうか分からない』のです。そして、『有るかどうか分からないモノを説いて金儲けをする宗教や、それと結びついて権力を得ようとする人たちの言う事を信じるのは間違いだ』と言っているだけです。」

ハ「以前責任役員さんは、『悪い事をしたら来世は悲惨で辛い環境に産まれ変わって一生苦労するよ』という話は、これだけなら教育的な内容なので害は少ない。でもこの話の延長線上にある『今悲惨な環境に産まれて一生苦労している人は、前世で悪い事をしたからだ』という輪廻転生と因果応報が結び付いた話は危険だ、と言っていましたね。現在の世の中の貧富の差や問題点を、そういう有るかどうか分からないオカルトで説明して、上の立場の者にとって自分たちの富や権力を守り、下の者の不満や不平を押さえつけるモノだからだ、と。」

責「はい。上の者にとって都合の良い内容なら、上の者はこれを採用して下の者に押し付ける、信じさせるのが当然です。極端な事を言えば、今ある宗教は、上の者や権力者にとって都合の良い内容や教えだから今に伝わっている、とも言えます。今の新興宗教だって殆どそうでしょうね(笑)。」

ハ「あぁ、なるほど。しかし、責任役員さんの言う『有るかどうか分からないモノ』を信じている人は多いのが現状ですね。」

責「そうですね。でも、そういうモノを信じるのが宗教だとも言えますから、それはそれで仕方がないかもしれませんよ(笑)。」

ハ「それも残念な気がしますが。」

責「残念と言えば残念ですが。でも、オカルトの範囲は宗教だけじゃないのです。」

ハ「宗教以外にもオカルトがある、ですか?それは、古代文明の話とかオーパーツの解釈とか、でしょうか?」

責「そんな極端なモノではなく、多くの人が信じている、当たり前だと思っている事でも、実際は『オカルト=有るかどうか分からない』というモノは結構あるのです。」

ハ「多くの人が信じてるオカルト?例えばどんな事ですか?」



責「例えば、自然界の食物連鎖ってご存知でしょう?」

ハ「食物連鎖?植物が昆虫などに食べられて、昆虫がカマキリや蛙に食べられて、カマキリや蛙は小鳥や小動物に食べられて、小鳥や小動物はもっと大きな鳥や獣に食べられるという、弱肉強食の世界ですね。」

責「はい、その弱肉強食ってやつです。食べられている場面だけを見れば、強い者が弱い者を食べている弱肉強食に見えますが、自然界全体で考えれば、食物連鎖って弱肉強食の世界なのでしょうか?」

ハ「自然界全体で見れば、食物連鎖の上に行くほど数が少ないですし、縄張りとかもありますから、バランスが取れている、と言えるのかな。」

責「食物連鎖の頂点にいる動物だって、その糞や死骸が土に還り、植物の栄養になるのですから、バランスが取れているだけじゃなくて循環している、自然界は調和がとれている訳です。」

ハ「まぁ、そうですね。」

責「ところが、『自然界は弱肉強食の世界だ』という話を多くの人が信じていて、しかも『人間も動物なのだから弱肉強食の世界だ』という話に続くのです。」

ハ「え?いや、あの。人間世界も弱肉強食の場面があるのではないですか?」

責「喧嘩や争い事があれば弱肉強食と見える場面もありますけど、自然界では同じ種同士で弱肉強食なんてしませんよ。せいぜい、餌や縄張りの奪い合い、後は繁殖のための競争ですけど、それだって生きるための最低限の争いです。今の人間同士で最低限生きるために争ったり奪い合う必要はないと思いますよ。」

ハ「なるほど、確かにそうですね。では、これも誰かに信じ込まされている『オカルト』という事ですか?」

責「そう考えるのが自然ですねぇ。」



ハ「なるほど。皆が当たり前だと思っているオカルトですか・・・。あ、私も一つ思いつきました。日本は国の借金が1100兆円で国民一人当たり約800万円以上の借金がある、って話しですけど、それで、日本は破綻してしまうから、税金を上げなければならない、っていう話。」

責「(笑)。さすがハルアキさん、そういう社会ネタがお好きですね。」

ハ「国の借金は1100兆円ありますけど、政府には資産も充分あります。それに、貸しているのは国民ですから、国民一人当たり900万円の借金なんて有り得ない話です。自国通貨建ての国債をどれだけ発行したとしても財政破綻なんて有り得ないって事は財務省でも発表しています。勿論、赤字国債をあまり沢山発行しすぎてしまえばインフレになりますけど、今の日本はデフレで苦しんでいるのですから、もっと財政出動をしなければならないし、税金を上げるなんて以ての外です。」

責「なるほど、多くの人は、国民が借金しているって信じちゃっていますよね。」

ハ「最近、やっとネット等で『そうじゃないんだ』という声が広がっていますけど、まだまだ、日本は借金まみれで大変なのだから税金が上がるのは仕方がない、って思っている人が多いです。それに日本は、今でも対外債権と外貨保有は世界一ですから、世界一のお金持ち国家であるはずなのに、国民の貧困化と少子化は進んでいる。不思議な話です。」

責「それも、政府の借金を減らしたいと思っている人達の『オカルト』ですね。」

ハ「探せば他にも色々ありそうですね。」



責「えぇ、人間社会はオカルトで出来ていると言っても過言ではありません。」



ハ「人間社会はオカルトで出来ている?なんか、スゴイ怖いお話しなんですけど・・・。」

責「凄く怖いです。だから、中山みきさんもそう思って『人助け』を決心したのではないでしょうかね。」

ハ「え、え?オカルトの打破が人助けの道だという事ですか?」

責「ハルアキさんも『劇画 中山みき物語』を読んだのですから、中山みきさんが何を説き、何を教えようとしていたかはお分かりだと思いますけど?」

ハ「ううむ、確かに・・・。」

責「おびやほうそのゆるしも、一列兄弟という言葉も、雄松雌松隔て無しも、互い立て合い助け合いも、高山も谷底も同じたましいも・・・、全ては、その当時、皆が当たり前常識だと思っている世の中、苦しむ人、貧しい人、差別されている人、理不尽な扱いを受けている人が居ても仕方ないんだ、世の中ってそういうモノなんだとと思い込んでいる大勢の人達の心の中にあるオカルトを排して、真実の理、人間社会をあるべき姿にするための価値観や考え方、人間のほこりを祓うという教えだと言えます。」

ハ「だから責任役員さんは、『なんじゅうを救うのも大事な事だけれど、本当の助け、実の助けはそれで終わりじゃない』って言って来ていたのですね?」

責「なかなか理解してくれる人が居ませんけどね(笑)。それに『じゃぁ具体的に何をしたらいいの?』という大きな問題もありますから。まぁ、その大きな問題は置いといて、教義を解釈する、教えの理を学ぶ上での心得というか、基本的な姿勢というか、私がやってきたお話しをしましょうか。」

ハ「オカルトを排する極意ではないのですか?」

責「どうでしょう?(笑)。それは、話を聞いてからハルアキさんが考えてください。」

ハ「ですか。では、お願いします。」



(続く)

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