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教理勉強について(2)

責「そう改まって言われても、今までも言って来た事なのですから。まずは、『元の理』で月日親神が人間を創造したときの目的と言うか、気持ちですが・・・。」


ハ「泥海の地上を見て味気なく思い、人間が陽気にくらす様子を見て共に楽しみたいと思った、という部分ですか?」

責「はい。『陽気ぐらしの天理教』とも言われる位、教え・教義と切っても切れない関係にある『陽気ぐらし』ですが、ハルアキさん、どういう状態が『陽気ぐらし』だと思いますか?」


ハ「陽気ぐらしですか?そりゃあまあ、まずは身体の健康でしょうか。で、生活や必要な事に困らない位のお金があって、仕事はしてても家族と過ごせる休日や時間があって、家族の笑顔と気の合う友人たちがいて、あとは・・・。」

責「結構、色々と必要なモノがありますね?(笑)」


ハ「そりゃぁ、いつも明るく楽しい生活を送るとなったら、色々と必要なモノや家族友人は欠かせません。」

責「以前、ハルアキさんには陰陽二元論の陰と陽、陰気と陽気についてお話しした事があったと思いますけど?」


ハ「あぁ、天と地、明暗、温かい寒い等の、対立する陰と陽の分類と、その対立する二つのバランスが取れている状態が『陽気』で、バランスが崩れている状態が『陰気』だと。」

責「はい。
そして、バランスがとれている、全体が調和している『陽気』は、プラスの方向、成長や発展、新たな命が生みだされる様子です。
その逆の『陰気』は、衰退、消滅、死などに至る様子です。

先程の食物連鎖の話しにしても、『陽気』なら、植物は太陽の光を一杯浴びて成長し、虫たちが大いに食べて沢山卵を産む。当然、小鳥や捕食動物達もお腹一杯で子育てに忙しいくらいだし、それらを捕まえる鷲や鷹も安心して卵が産めます。
火山の噴火や山火事などで植物が減ってしまうと、虫も食べるモノが無くなってあっという間に飢え死にです。昆虫や虫が減れば、小鳥やカマキリたちもエサが少なくなって安心して卵を産むことが出来ないでしょう。最後は、鷹や鷲だってエサが食べられなければ死んでしまいます。
こういう状態が『陰気』ですね。」


ハ「まぁ、陰陽二元論は理解できますけど、どうして『五体満足健康でお金と時間があって、家族や友人と仲良く暮らす』ではダメなのですか?」

責「だって、そんな、物だのお金だの、遊ぶ暇だの、仲の良い家族や友人だのと、即物的過ぎますよ。それが教祖の教えてくれた事の答えだとしたら、ちょっと宗教っぽくないと思いませんか?(笑)」


ハ「でも、責任役員さんは以前から『中山みきさんの教えは宗教という範疇ではない』と言っていたじゃないですか?」

責「それはそうです(笑)。
まぁ、ダメな理由としては『教祖の50年のひながた』でしょうか。

立教以来、教祖の置かれた状況は、
夫を失い、
秀司の失敗で貧乏になり、
近所や村方からは笑われ、
子供にも先立たれ、
他宗教や医者からの妨害はまだしも、
世間では隠居する年齢でありながら、警察に17度も逮捕拘留されるという道すがらです。

そんな人生にも拘らず、ひな型として歩みなさい、

と皆に説いているのです。

物や、お金や、時間や、家族や、名誉などではないのだ、陽気ぐらしは『銘々の心の使い方ひとつ』なのだと教えて下さっている訳です。」


ハ「そんな不幸な部分だけを抜き出さなくても。あれですか?天理教の言葉に、『食べるモノが無くても、水を飲めば水の味がする』というお話がありましたよね?そういう、不足や不満を言わずに有るモノを喜びなさい、という教えですか?」

責「中山家が貧のどん底に落ちたとき、こかんさんが『今夜食べるお米がありません』と言ったら、教祖が諭したという天理教関係者なら誰でも知っている逸話ですね。
その逸話が事実かどうかは分かりませんが、
おさしずにも

『何程宝がありても、身の内より病めばこれ程不自由はあろうまい。自由自在心にある。この理をわきまえ(明21,1.8)』

というお話があります。

心の持ち方、考え方は自分が自由自在に変えられる、決められるのだというおさしずです。」


ハ「教組の言葉は事実ではないのですか?
でも、本席のおさしずにも食べ物が宝物に変わっていますけど、同じようなお話があるのですから、無いモノに不足や愚痴を言うより、有るモノを喜び感謝して喜んで通りなさい、という心や気持ちを切り替える素晴らしい教えですよね?
世の中でも、例えばお酒を飲んでいて、『もう酒がコップに半分しかない』という考え方より、『まだ酒がコップに半分もある』というようなポジティブシンキングをしなさい、という話をよく耳にしますけど。」


責「不足や愚痴で心を満たすより、感謝と喜びで心を満たした方が良いというのは間違いないでしょう。

ただ、この『水を飲めば水の味がする』という教祖のお話しと『何程宝がありても』という本席のお話しは、単純に同じ内容とは言えないのです。」


ハ「え?そうなのですか?どう違うのかよく分かりませんが。それに、責任役員さんが教祖の逸話が事実ではないと考えている理由って何ですか?」

責「理由は簡単ですよ。

中山家が秀司の失敗で貧乏になったのは事実で、その日に食べる米にも不自由になった時期はあったかもしれない。
でも、その時の家族、こかんさんと教祖の会話を誰が聞いていたのでしょう?

稿本教祖伝に載っている有名な話ではありますけど、もしこの状況と会話があったとしたら、その事を知っているのはこかんさんと教祖の二人だけです。
その時代には信者はもとより後のお弟子さんもいません。
同居人もいなければ下女や下男もいません。

その二人だけの会話が後に伝わるとしたら、こかんさんか教祖が後になって皆に話したという事になりますけど、そういう記録も、誰が聞いたという話もありません。」


ハ「なるほど、確かに。」


責「そして一番重要なのは、教祖の逸話だけで考えると、

現実の『食べるお米が無い』という問題を無視して考え方や心の持ち方だけを変えれば良い、というかなり乱暴な教えだという事になってしまいます。

水だけでも数日は生きられるでしょうが、人間一生水だけ飲んで生きて居られる訳はありませんから、

『愚痴を言ってないで隣の家から借りて来なさい』とか

『米は無くても大根があったでしょう?』とかいう問題を解決する方法ならまだしも、

お腹が減るという問題を先送りにして、我慢して違う事で喜びなさいと言われても腹の虫は言う事を聞いてくれません(笑)。」


ハ「では、この教祖の逸話も、例の『芝居の脚本』だという事ですか?」


責「芝居の脚本とは断言できませんが、本席の『自由自在心にある。この理をわきまえ』という部分が抜けているのです。

心の持ち方や考え方は銘々の自由自在で、不足不満で満たすのも、喜びと感謝で満たすのも自由、問題解決に動くのも、放って置いて見えないふりをするのも銘々の自由な訳です。

自由ならば、解決させる方向で心を満たす方が建設的だし、明るく頑張ることが出来ます。

天理教で言われている
『御馳走が目の前にあっても、病気で食べられない人も居る。私達は水を飲めば水の味がする、ありがたいと感謝しなさい。』
という教えだけでは、
『無いモノに不満や不足を持つな、我慢しろ、有るモノを見つけて感謝しろ』
という話しや印象しか受けないのです。

そうすると、不足や不満を持つ事、感じることが『悪』になってしまう。

どんな環境でも不幸な出来事があっても、喜びと感謝で過ごせないと『教えを理解していない』という話になってしまう。

一列兄弟で子供可愛い、この屋敷に来た者は喜ばさずに帰されん、と説いた中山みきさんの教えとは、お話の印象が違うと思いませんか?

だから、この教祖のお話しは、理解が足らない人が話を作ったか、重要な説明や解説を外してしまった結果だと感じられるのです。

これが多くの信者や末端教会を苦しめている『本来の意味を知らずして、遺憾な結果』になっています。」


ハ「根が深いですねぇ。責任役員さんは、不幸や不自由な中での陽気ぐらしの心使いとは、どういう状態だと考えますか?」

責「いきなり本質的な質問ですね(笑)。
勿論、陽気暮らしの心使いが物や金、時間や人間関係などだけで出来るモノではない事は明らかですが、それらを全く無視して心の持ち方や考え方だけで出来るモノでもありません。
言い換えれば、物質と精神、唯物論と唯心論の対立となりますが、どちらか一方が正しいとか、間違っているというお話ではないと思います。

その両方のバランスと調和が大事です。

その上でどのような心や価値観、考え方を作っていくのか、ですかね。

例えるなら、何を基礎にして、どんな柱を、どのような壁を、梁を、天井を、屋根を作っていくのか、どのように心を建て替えていくのかが、教理を勉強する心得です。

優秀な大工さんが建ててくれた家なら、まぁ、安心して住めるでしょうけど、腕の悪い、金儲けの事ばかり考えて手抜きや材料費をケチったりするような大工さんが建てた家では、住み難いかもしれませんし、ちょっとの台風や地震で倒れてしまうかもしれない。

だから、大工さん選びも大事なのですが、根本に必要なのは大工さんを選ぶ自分たちの眼という事になります。」


ハ「ふむ、その眼が先ほどの、使われている言葉、教語の意味や定義、中身をじっくり見る、考えるという事ですね。」


0088


(続く)



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