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役員さんの関西土産その2

ハ「前に書かれている部分というと、この□で囲まれた『解説』のようなモノの事ですか?」

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役「はい。写真では読めないかもしれませんし、旧かな使いなどで分かり難いので、『勝手ながら』私が現代文に直したいと思います(笑)。」

(古文に詳しい方のご指摘、修正をお待ちしています)

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天理教会の教祖は、奈良県山邊郡三昧田村前川半七正信氏の長女として、名は美伎子と名付けられ、寛政十年四月に誕生した。文化七年九月、同郡庄屋敷村の中山善兵衛氏に嫁ぐ。生まれながらに美妙が備わり、幼少の時より慈悲慈愛に富み、遂に神勅が下り、天理教の真理(を)社会に宣伝するが、其の間、剣苦艱難(剣の苦しみや辛い出来事?)を積みながら、苦労を厭わず乗り越えて来た事が実現したと言うべきだろう。(天理)教会が盛んになり、本土内外(当時は台湾と朝鮮半島も「日本領」であった)に数百万の信徒を有するまでになったのは、全て教祖の布教と宣伝によってである。ここに天理教奉賛会を設立して、教祖の一生のうち一部を伝記として発行し、広く社会に教祖の『高徳』を伝えようと思う。

    男爵 北畠具雄

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ハ「役員さんが興味をそそられる部分というと、どこでしょう?」
役「まず一つは、この『解説文』を書いたのが、『男爵 北畠具雄』だという事です。」

ハ「男爵ですか。戦前は貴族制度が残ってましたからね。」
役「そうですね。北畠家というと、歴史に興味をお持ちの方ならご存知かと思いますが、戦国時代の北畠具教(とものり)、具房(ともふさ)親子が有名でしょう。」

ハ「ええと、剣術に優れた剣豪大名として知られ、織田信長と熾烈な戦いをした北畠具教ですか?」
役「そうです。織田信長に敗れた北畠家は、信長の次男信雄を養子に迎えて江戸時代に入るのですが、その最初の領地が『大和の国』だったのですよ。」

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ハ「え?そうすると、その縁というか自分の領地内の宗教の事なので、男爵自らが筆を執ったということですか?」
役「私は歴史研究家でも学者でもないので正確な所は分かりません。北畠家も、その後別の養子を迎えたり関東に転封(領地変え)したりしていますが、明治になり貴族制度が採用されると共に『男爵』に任じられたようです。明治時代の日本の貴族制度は、広い領地を所有したり支配したりする訳ではなかったようですが、特権的身分として、こういう商売だの宗教だのについては『何らかの権利』を与えられていたのかも知れません。」

ハ「なるほど、なかなか興味深いですね。」
役「まぁ、実際の所は、学者や歴史研究家の研究や調査で調べてください。私が言った事は全て想像です(笑)。」
ハ「なぁんだ(笑)。で、他にはどのような事が?」

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役「はい。二つ目は、全体として、中山みきさんが艱難辛苦を乗り越えて一生懸命神様の教えを宣伝して天理教を信じる人が数百万人も増えた、という印象を持たせるような文章になっている事です。」
ハ「立教以来、教祖様が教えを説き続け、多くの人に伝わったのは事実ですよね?教祖亡きあと、日本全国に600万人とも800万人とも言われますが、教祖様の教えを守る人が伝えて行った結果でしょうから、間違いとは言えないと思いますが?」

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役「そうですね。たしかに、中山みきさんが教えを伝え、その教えを受けたお弟子さん達が全国に散らばり、多くの人を信者にしたのは間違いないでしょう。問題なのは、その中身なんですよ。」
ハ「中身、というと?」

役「勿論、中山みきさんが伝えたかった『教え』とは何なのかという、中身です。」
ハ「それは勿論、教祖様が残した『みかぐらうた』であり『おふでさき』であり『つとめ』ですよね?」

役「そうです。でも、それらの物はこの時代、まだ印刷物になっていなかった。印刷物になっていたのは、これなんです。」


そう言うと、役員さんはまた脇に置いた鞄から細長い箱のようなモノを取り出した。


役「もう一つのお土産です。どうぞ、ご覧になってください。」

(続く、と思う。)



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