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ハ「その、問題の『転輪王講社』ですが・・・」

責「この部分は、教団発表の教義の根本にも関わる部分です。じっくり読んで、教祖の教えをよく思案する必要があります。」





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ハ「さて、ここからは秀司さんの臨終までですが・・・」

責「はい。教団発表では『早く帰っておいで』と優しく言ったと伝えられていますけど(笑)。まぁ、教祖は輪廻転生の教えなんて説いていませんから、『帰っておいで』は無いですね。」

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ハ「秀司が亡くなっても、今度は親戚連中ですか。困ったモノですねぇ(笑)。」

責「全くです(笑)」



(続く)


ハ「この、こかんさんの章は、なんと言ったら良いのか、言葉がありません。」

責「えぇ、教祖にとってこかんさん、秀司も共に自分の子供です。神の心で人生を歩むことを決心した教祖にとって、自分の子供だから、といった価値観や感覚は世間の親と比べる事は難しいかもしれませんが、神一条の道を歩む事を期待した部分はあったと思います。」

ハ「そういう期待に添わない秀司に対するお叱りの言葉は、おふでさきに書かれている通りですね?」

責「はい。教祖のひながたは、神の思いに沿わない周囲の者への叱責と闘いの50年だったとも言えます。」






















ハ「なんか、秀司に対する解説は、『神の想いには沿っていないけど、世間的には悪い人間ではない』という言い訳にも聞こえますね。」

責「実際に、教祖がどう考えていたか、どう感じていたかは、想像の域を出ませんよ。次の『転輪王講社』の経緯では、おふでさきにも『我慢の限界を超えた』と書いているのですから。」


(続く)

ハ「『ぢば』と言えば、かんろだいの立っている月日親神が人間を宿し込んだ、全ての人間のふるさと、とも言える場所ですね?その所縁ある場所が中山家の敷地にあったとは、なんともすごいお話ですが。」

責「不自然ですよね。そもそも、そういう人類発祥のとても尊い場所を、どうして『定めた』のでしょうね?昔からあった決まった場所なら『捜す』事になると思うのですけど。」

ハ「あぁ、確かに矛盾しますね。ここに書かれているように、歩測で場所を決めたのなら『定めた』という言葉が正しい訳でしょうが。」

責「はい。何が何でも中山家の屋敷と教祖の存在を、神憑りの特別な存在にしたい人が居たのでしょう。」

















(続く)

ハ「この高山布教の項目は、教組伝にもある逸話ですね?」

責「そうですね。仲田さんと松尾さんに『おふでさき』を持たせて問答に行かせた逸話と山村御殿のことですね。教組伝には、その時の問答の内容ややり取りは記載がありませんが、劇画では国家神道の内容と対比して描かれていますね。」

ハ「なるほど、どうして問答が必要なのか、どういう経緯があったのかが分かり易いですね。」


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責「この章だけでも結構な読みごたえがあり、中山みきさんの教えの一端が理解できますね。」


(続く)

ハ「次の『天皇神道』は、明治神道、国家神道の治世下での明治維新の思想ですね?」

責「以前もお話ししましたが、江戸時代までの幕藩体制の中で全国300藩に分割統治されていた日本全国の日本人の意識や考え方を一つに集めて力を合わせないと、日本は西欧列強の侵略や干渉を受けて植民地状態にされてしまう可能性が高かった訳です。実際に、明治維新当時のアジア情勢はハルアキさんも学校で習ったでしょう?」

ハ「そうでしたね。そうすると、明治政府の国家神道もあながち悪いモノではなかったと言えますかね?」

責「明治維新と国家神道を善悪や正誤の判断をするのは歴史の研究家に任せましょう。私が言えることは、国家神道や天皇神道は、中山みきさんの教えとは相反するモノだったという事です。」


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ハ「なるほど、ずいぶんと違う価値観、考え方だと言えますね。」

責「えぇ、でも、この『統治や支配を是とする価値観と宗教観』が明治維新によって日本中に広められたわけです。中山みきさんの教えとも相反しますが、古来から有る『八百万の神様』とも異なるものです。そして、これは第二次大戦後に否定された訳ですが、今でも人々の心の中には深く刻まれているのです。」


(続く)

ハ「慶応三年というと江戸時代の最後の年ですね?」

責「そうですね。おつとめの唄や手振りで教えを伝え始めた頃です。」

ハ「しかし、転輪王明神というのは、教祖の教えを正しく伝えるものではなかったようですね。」

責「大和神社事件で、宗教を営業する許可証は秀司のモノになってましたから。」

ハ「なるほど、教祖やこかんにも秀司の営業方法を止める手は無かった訳ですか。」














責「なので、秀司や一般の宗教との違いや考え方、価値観の違いを、少しでも理解して貰うことの大切さを描写されています。

欲得やメリットを求める信仰や信心は、決して『陽気づくめの世界』という実りはやって来ない、決して『世界余さず助けたい』という転輪王の気持ちや『一列兄弟、互い立て合い助け合い』を伝えようとした月日親神の価値観を理解することは出来ないのだという事です。

『輪廻転生』だの『前生の行い』だの『魂の徳』で、今現在の現実社会にある上下の格差や差別や貧富の差や紛争や内紛があることを理屈付けてしまってはいけないのです。」








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ハ「この屋敷のそうじという逸話に込められた意味は何でしょうか?」

責「その時代のお屋敷の状況は複雑だったと思いますし、中山みきさんも自分の教えや価値観と、実際のお屋敷の中の状態が全く異なるのでは困った上でのことだと思います。でも、現代のわれわれから考えるなら、秀司の女性問題をどうこう言うより、『おふでさきの解釈の仕方』でしょうね。そのおふでさきが書かれた時代背景や前後の事情をよく理解しないと、おふでさきの内容・中山みきの思いや考えを正しく理解できないという事です。

ですから、今の世の中の事や我々の出来事、日々の生活の中で『お筆先の一文や一言だけ」を抜き出して当てはめたり解釈するのは、危険だといえます。

教団や大教会の人間の中には、中山みきさんの教え全体の流れや意図を考えずに、自分の都合の良いようにおふできさきの一部だけ切り取って解釈しようとする、お諭をしようとする人が居ますから、要注意ですねぇ(笑)。」


(続く)

ハ「次の、中山みきの人助けについてですが、教団では『貧しい人に施しをし、病で苦しむ人に不思議なご守護を施した』という内容になっていますが、これを読むと、全く違いますね?」

責「はい。中山みきは『話し医者』と言われていたそうですから、単なる篤志家ともオカルトの呪い師でもありません。」

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ハ「なるほど。正しい夫婦の有り様、正しい心使い、正しい人生の生き方、そして、正しい世の中を創るために働く事、というお話をされた訳ですか。」

責「そう思います。身分制度のある社会、自分さえ良ければという価値観、他人を倒してでもという考え方、全てが月日親神の願いと相反するモノです。それを順々に諭して伝えたのが中山みきの教えだと考えられます。」


ハ「次の大和神社事件なのですが、稿本教祖傳などではあまり詳しく書かれていなくて、単に中山みきさんの教えが迫害されただけのような書き方になっています。」

責「教団から出ている出版物では、この事件を掘り下げたモノは殆どないですね。まぁ、事情があって掘り下げられないのだと思いますけど(笑)。」

















ハ「これからすると、大和神社事件は、仕組まれたモノというか、陰謀のような事件だったように見えますが。」

責「はい。大和神社事件の結果として、こかん名義の許可証が取り上げられてしまっています。中山みきからすれば、別に神仏祈祷の営業許可など無くてもどうという事はないのですが、同業者から何のかんのと喧しく言われ、信者さん達も集まり難くなるのでは意味が有りませんし、許可証のない者が人を集めるのは当時の法律にも引っ掛かります。それで、こかん名義の許可証を持っていた訳です。しかし、こかん名義のままでは困る人が居る訳ですよ。」

ハ「秀司ですか?戸主として、中山みきの教えも理解していないし、営業上も無関係では自分の立場が無い、という訳ですかね?」

責「だと思われます。大和神社事件は、単なる中山みきさんの教えに対する『迫害』ではなく、秀司を始め何人かの協力者が、信者組織を乗っ取ろうとした陰謀だという事ですね。」


(続く)

ハ「次に、中山みきさんの教えの始まりとなった『おびや・ほうそ』の事ですね?」

責「天啓を排して、中山みきを一人の思想家として捉えた場合、その思想体系や教えの中身をどのように伝えるか、他の人に分かって貰うかは大変な困難と労力が必要です。中山みきさんの教えが『皆が陽気ぐらし出来る世の中の実現』という壮大なものであるだけに、その苦労や困難さは桁外れだと言ってもイイでしょう。でも、それが誰にも分かり易く、身近なモノとして伝えることが出来たのが、『おびや・ほうそのゆるし』だったのだと思えますね。」









ハ「この『米相場の失敗』というのは、責任役員さんが以前から話していた、中山家が貧に落ちた原因ですね?」

責「決して、貧しい人に施したからではなく、秀司の放蕩と米相場での失敗が原因です。更には、こかんの『大阪布教』も偽りですから(笑)。」











ハ「これは、教典や稿本教祖傳を信じてる人から異論が出そうですねぇ。」

責「かもしれませんね。でも、真実を知る事は大事です。この時のエピソードとして、こかんが拍子木を叩きながら『南無天理王の命』と唱えて歩いたなんて、作り話もいいとこです。この時代に『天理王』なんて神名は使っていませんし、後に秀司がひらいたのも『転輪王講社』ですからね。」

ハ「なるほど。では次に・・・。」



(続く)