本日 114 人 - 昨日 150 人 - 累計 270862 人
四、このおてびきの第一歩をなすものがにをいがけである。まだ真にこの道の信仰を知らない人に対して、信仰への誘いであり、導きである。
五、にをいがけには、何にもまして先ず、自分がにをいがけすることによって、必ず先方が幸になるという信念が大切である。信念なくては何事も出来ない。特ににをいがけの場合はそうである。


役「ここでやっと『にをいがけ』の意味と重要性が出てきますね。『信仰への誘い、導き』であると。」

ハ「でも、最初にお話したように、野に咲く花がその匂いで虫を呼び寄せるように、無理な勧誘とか話を聞かせる必要は無い訳ですよね?その『にをいがけ』というのが具体的にどういう事なのか、全く分からないのですが説明して頂けますか?」
役「具体的にですか?言葉で言ってしまえば『何もせずに本人が喜びを感じていればイイ』という事になりますかね。野に咲く花が喜んでいる状態、その生命、精一杯喜びを表現しながら生きている状態が、花が咲く事だと考えれば分かるでしょうか。」

ハ「すみません。何もしないでどうして伝わるのでしょうか?」
役「例えば、ハルアキさんが先日こちらに来た時、最初から妙にニコニコしていて嬉しそうでしたよね?」

ハ「ええ、こちらに来る前日に競馬で勝ったものですから・・。」
役「でしたね。で、私が『妙にうれしそうですけど、何か良い事でもあったのですか?』と訊いたら『競馬で勝った』と教えてくれたわけです。で、そのお裾分けにお酒をご馳走になって有難うございました(笑)。」

ハ「いや、まぁ、その程度は別に。」
役「『にをいがけ』とはそういう事です(笑)。」

ハ「え?」
役「つまり、ハルアキさんが競馬で勝って懐が温かくて、その嬉しさや喜びが表情や態度に出てくる訳です。その匂いを私が感じて『何か良い事があったのですか?』と興味を持ったわけですから。」

ハ「そりゃ、人間ですから、嬉しい事や楽しい事があれば表情や態度に出ますし、行動にも表れるでしょうが、それが天理教で言う『にをいがけ』と同じだという事ですか?」
役「本来は同じなんです。月日親神のご守護を理解し、その教えを心に修めて日々の生活を改善改革し、教えに沿った生活をすると、自然に喜びが湧いて来る、笑顔でいられるようになる。その様子を周囲の人が嗅ぎ取って興味を持ち、訊きに来たり、話しを引き出そうとするようになるんです。これが本当の『にをいがけ』だと思います。」

ハ「本来の『にをいがけ』ですか。そうすると、本人が喜びも嬉しさも感じていないのに、単に勧誘のためのお話などは『にをいがけ』ではないという事になりますが、天理教内で行われている、話されている『にをいがけ』はズレていますね?」
役「私の両親なども、大教会の会長会議で毎月のように『にをいがけ・おたすけをしろ!』と発破を掛けられて来る、という事が常でした。でも具体的に何をしたらいいか分からない、戸別訪問など出来る環境でもないし、身情事情の人を探し回るような事も出来ない。一か月間何もできないままで、次の月の会長会議でまた発破を掛けられる、なんて信仰生活をしていたようです。これなどは、『にをいがけ・お助けしろ!』という大教会長も間違っていれば、両親も勘違いしているという典型的なパターンでしょうね。」

ハ「それが末端教会の会長さんの様子だとすると、何か、憐れみを感じますね。」
役「えぇ、その頃の両親の様子は、見ているこっちが苦しくなるような信仰をしていましたよ。」

ハ「でも、天理教の信仰をしていて、教えを深く勉強するなり理解を深めて行ったとしても、本当に『喜びや嬉しさや楽しさ』を感じられるものでしょうか?」
役「勉強や理解を深めただけでは難しいですね。実際に、それを形にする、行動に移す、家族や教会の中で実践行動してこそ、身体は嬉しさや喜びの『にをい』を出してくれるのです。ハルアキさんが競馬で勝ったことを考えただけで、周囲の人から見て笑顔や態度に嬉しさが現れて来ると思いますか?」

ハ「いや、思い出し笑いならともかく、無理ですね。」
役「でしょう?実際に勝たないと、『にをい』にはなり難いのですよ(笑)。」

ハ「しかし、役員さんのご両親がそうだったように、実際に教会を運営していて、信仰をしていて、喜びだの楽しさだのを感じられるものなのでしょうか?」
役「感じられないのは、信仰の仕方ややり方、現実の状態が間違っているからです。それを改善改革する事が『教え』の主眼です。理想と現実は違う、なんて言い訳は、月日親神の立場では関係ないのです。『人間が陽気に暮らす様子を見たい』というのが神の願いなのですから、それを実現するために、喜べない、楽しめない現実を変える為に日々行動する事が必要なのです。諸井慶徳先生の言葉にも『まず先方が幸せになるという信念』とあります。それには、自分が幸せにならなければ、その『にをい』なんて出ないのですから。これが『先達の心得』です。」

六、そして自分が誠真実ならば、誰にでも好かれる筈であるという信念を持っていなければならない。きらわれるのは欲の心である。


役「さすがに諸井慶徳先生のお言葉は重みがあります。真真実ならば誰からも好かれる訳です。神様の教えを心に修め、自らを律して身の回りから、自分の関わる家族や身近な人から、神の望む関係や状態を創っていく、改善改革していく訳です。その様子を見て『変わった事をやってるな』と思う人はいても、嫌いになる人はいない、という信念が大事です。そして、その様子を見れば興味を持ち、自分も真似をしようと思う人が現れてくる、こうして『にをいがけ』が出来る訳です。」

ハ「現在、天理教で言われているような、単独布教や戸別訪問は『にをいがけ』ではない、という事でしょうか?」
役「勿論違います。諸井慶徳先生もこのように述べられているのですから。」

ハ「では、最後の『きらわれるのは欲の心である』というのはどういう事でしょう?戸別訪問などの『にをいがけ』をして断られたり忌み嫌われる事を指しているのでは?」
役「そういう、自分で教えを理解せずに、信者を獲得しようという『欲の心』で布教をするから『きらわれる』のです。それを教えてくれているのですね。あとは、私は上級や大教会などは大嫌いですけど、それも上級や大教会が『欲の心の塊だから』だと諸井慶徳先生は教えてくれました(笑)。道の先達の心得として、この事は肝に銘じてお行かなければならない事です。嫌われるのは『欲の心』であると(笑)。」

ハ「なるほど。嫌いになる事が悪いのではなく、嫌われる方が悪い、と。」
役「いえいえ、『悪い』等とは言っていません。上級や大教会が『欲の心の塊だ』と諸井慶徳先生が教えてくれただけです(笑)。」

ハ「そうですか(笑)。」



役「という、『お道の結構さ』を十分理解した上で、先達としては行動を起こす、形に表すという事が重要ですから、次の段階に進むことになります。頭の中だけで考えていても物事は進みませんから、具体的な日常の行動という事になります。」

ハ「それが次の章の『にをいがけ』ですか?」
役「そういう事になります。ただ、勘違いしないでいただきたいのは、本来『にをいがけ』とは、他人に対して何か話をするとか働きかけるというものではなく、その人本人が思案を巡らし日常生活やあらゆる事に『教えを実践して行く』事です。野に咲く花が蜂や蝶々を呼び寄せたり見せて歩いたりしないように、花は花としてそこに咲いているだけ、その花の香りや佇まいで『花が咲きましたよ』と周囲に知らせるだけです。周囲が気が付かないなら、それはそれでも良いのです。」

ハ「なるほど。ご尤もです。でも、折角の素晴らしい月日親神の教えですから、他人に教えたり話したくなるのは人として当然ではありませんか?」
役「それも確かですね。本当に素晴らしいと思える事、そしてその教えを実践したらこんなに良い事があったという体験談なら、ちょっとお話するくらいはイイでしょう。でも、押し付けたり無理に誘う必要はありません。あくまでも『自分で実践する事』が大事ですから。」


にをいがけに就いて

一、お道のおてびきというのは、単ににをいがけだけではなく、匂いをかけて導いて行き、おたすけを頂かせ、成人させて行き、更にその人自らを、他人に対してこのようにおてびき出来る導き手にならせて行く、このような全課程をいう。これがお道の布教活動である。


ハ「『にをいがけ』かと思ったら、『お道のおてびきというのは』と説明をしていますね。そして『布教活動』と締めくくってますが、これはどう解釈したらよろしいのでしょうか?」
役「布教活動というのは解釈が難しいですね。先達なら勘違いするような事はないでしょうが、それほど信仰に深くない人は勧誘や布教活動をしなければいけないのか、と勘違いされるかもしれません。

でも、教祖様は教えの事を『宗教』だとか『神を拝め』等とは言っていないのですから、大勢集めてお祭りをしたり催し物をしたりする必要は無いのです。

でも、この教えを実践する、形にする上では、月日親神ののぞみである『人間が陽気に暮らす様』『誰も苦しむ者の居ない世の中』『一列兄弟でろくぢの世界建設』の為には大勢いた方が実現の可能性が高まります。ですから、先ほど言った『にをいがけ』も出来るなら積極的な方が良いのは確かです。

個人が実際に出来る事は、その人自身の身の回り、せいぜい家庭の中だけです。でも、二人三人と集まれば、その人達の間で『誰も苦しむ者の居ない関係』で『陽気で楽しく助け合いのグループ』が出来る訳です。その輪を広げていくのは大事な事ですね。」

ハ「そうすると、まずは自分が教えを理解して自分自身の価値観や考え方を改め、生活の中で実践して行く。そして、それを周囲の人に関心を持って貰えるように形にして、興味を持った人に話をしていく、誘っていく事が『にをいがけ』だという事でしょうか?」
役「難しい所ですが、少なくとも『自分が実践できないのに人を勧誘する』のは間違いでしょう。具体的に何をどう変えたら、何をどうしたら実践した事になるのか、という重要な課題もありますが、銘々の解釈や考え方もあるでしょう。先達と言われる人達なら勘違いするような事はないでしょうが、少なくとも教え全体を十分理解し、把握し、世の中の事、社会の事、身の回りの事が『教えに沿っているかどうか?』を判断できるようにならなければ始まりません。そして、教えに沿っていないなら『何が原因なのだろうか?』『どうしたら良いのだろうか?』と考える事です。常に、判断の基準や根拠を『神様』に置くことが大事です。」

ハ「それが出来てこその、導き手、という訳ですか。」


二、凡そおてびきは、親神のおたすけを、 一波が万波をよぶ如く、次々と人々に頂かせて行くものである。それは親神のお働きの取り次ぎである。故によふぼくたるものは、単に自分の力ですることなのではないから、親神に働いて頂くという自信を持つことが大切である。
三、然も矢張り、よふぼくの誠真実を土台として親神が働かれるのであるから、自分自身としては、一つの理立てを以てつとめさせて頂くのが肝要である。そしてこのような中にこそ、真にこの道の信仰の喜びと楽しさが味わわれる。おてびきをしない人は、どんなに尽し運んでも、又永年信仰しても、いんねんをきりかえて、ほんとにたすけていただくことはむつかしい。


役「という事が理解出来れば、この二、三で使われている『親神のおたすけ』とか「親神の働き」という言葉も充分に納得できます。
これを理解しないでこの二、三を読むと『親神が働いて助けてくれるのだから自分は何もしなくていい。ただ連れて来ておさづけを頂かせればいいのだ。』というような頓珍漢な解釈になってしまいます。
そうではなく、自分の価値観や考え方を『教えに沿う』ようにして次の人を導いていく。次の人が納得してくれないとしたら、原因は誘った人の『心の中の親神』が不十分だったかもしれないし、誘われた人の心の中に『親神の入る余地が無かった』のかもしれない。
それでその人が導かれるかどうか、助かるかどうかは『親神の働き次第』なのです。」

ハ「子供の勉強でも仕事などでも、他人に教えられるようになって初めて理解したと言える、という話がありますから、それと同じような意味なのでしょうか?」
役「その通りだと思います。教える側は教えられる側より、深い知識と理解が無ければ教えられないですからね。
知識も理解もなく『俺は先生だから偉いんだ』などと威張っている人は誰からも相手にされません。
頓珍漢な話しや解釈を押し付けるのも、生徒の方がうんざりしてしまうでしょう。
ましてや、間違った教えを押し付けられたのでは、教えられた方だけでなく、教えた方も不幸になりかねません。諸井慶徳先生も『おてびきをしない人は、本当に助けて頂く事は難しい。』と結んでいます。『おてびき』は自分の理解や知識、実践行動力の不足や問題点を知る上でもとても大切な事なのです。
勿論、先達なら当たり前に出来る事でしょうし、私が言うまでも無い事ですが。」

ハ「導く人を鏡にして自らを省みる訳ですか。奥が深いですね。」
役「また、『どんなに尽し運んでも、又永年信仰しても、いんねんをきりかえて、ほんとにたすけていただくことはむつかしい』という諸井慶徳先生の言葉は、『尽くし運びは意味が無い』という風に受け取れますね。
長年尽くし運びをしても助けて頂けないなら、最初からする必要はありません。そんな事なら、最初から『おてびき』と『にをいがけ』を考えて知識を増やし、理解を深め、実践行動して次の人に伝える事が大事だと言えるでしょう。
諸井慶徳先生がこう仰っているのですから、上級や大教会への『尽くし運び』などは止めてしまいましょう(笑)。
それが『先達の心得』ですから(笑)。」

ハ「なるほど(笑)。」