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三三、病気というものも、固定的なものがあるのではなく、そのよって起る因は心にあるのである。
三四、災難や悩みも、招かねばならぬ原因は矢張り心にある。
三五、人間には、魂の持ち分として、自分の気のつかないこの世の生命以前の種蒔きのつながりがあること、又、この世の種蒔きも、この世の後につながって行くことを心に置かねばならない。
三六、然しどのような人間も、決して本来罪やけがれがあるのでなく、生まれかわり出かわりする中に、心の通り違いとしてほこりのように積み重ねたものがあるだけである。
三七、結局、自らの心の種蒔きを素直に刈り取り、進んでよき種蒔きへと心を改める歩みをすることによって、自ずと悩みから喜びへの転換が得られるのである。このことの叶えられる道として与えられたのが、このお道である。


役「さて、『病は気から』『難儀するのも心から』も、ここまで徹底して理解しなければ、道の先達とは言えません。おそらく、近年多発している大地震に因る被害でもその原因は『心にある』という解釈をするべきでしょう。」
ハ「自然災害や地震に因る被害まで『心にある』って、無理がありませんか?阪神淡路や東日本大震災でも大勢の方が亡くなり、被災しましたが、全て本人達の『心』が招いた結果だというのは暴論です。」

役「でも、天理教団の中ではそういう解釈をしている先達がいるのです。私自身何度も聞いています。勿論、外部に向けてはそんな話は出来ませんけど、内部では残っているようです。何といっても、道の先達の心得なのですから。」
ハ「震災で家族を失った方、避難所生活をされている方にそんな事を言ったら、大変な事になりますよ。」

役「勿論、直接は言えません。ただ、根拠のない話ではないと説明しています。ちょっと分かり難いのですが『魂の持分~』という説明ですね。」
ハ「ちょっと難しい内容のように思われるのですが、役員さんの解釈はどうでしょうか?」

役「まず、『この世の生命以前の種蒔』と『この世の種蒔も、この世の後に繋がっていく』という事を考えた場合、仏教的な輪廻転生の因果応報を説明していると考えられます。一言で言えば『前世の行いが今世に、今世の行いが来世に影響する』という事です。」
ハ「たしか、役員さんは、そういう輪廻転生・因果応報の教えや考えを否定していましたよね?」

役「はい。人間の魂が不滅で地上と天界を行ったり来たりするとか、証明できない事です。しかも、前世での行いが今世の待遇や環境、幸不幸を決めるなどと言われたのでは、人間救いようが無いではありませんか。仮に『前世』があったとしても、その時の記憶も何も無い訳ですから、反省しようが無いし改善も改革も出来ません。言っている本人だって記憶にないはずなのに、何をもっともらしい事を言っているのだと。この、人の身分や待遇は前世での行いによって決まっている、という考え方は、時の支配者やお金持ちからすれば大変都合の良い教えになる訳です。自分達の身分や財産を保証し、奴隷や庶民の反抗心や反乱を防ぐ事が出来るのですから。良い身分になりたかったら、今の身分で真面目に一生懸命働き、善人になりなさいという教義になる訳です。元々、身分も貧富の差も人間が造ったモノなのですけど、それをすり替えていますから。ということで、否定させて頂いています。」
ハ「なるほど。」

役「しかもご丁寧に『魂の持分として』などという言葉まで付いています。おふでさきでは『たかやまにくらしているも たにぞこにくらしているも おなじ魂』と言っているのに、『魂の持分』等といわれたら『人間銘々の分相応を弁えなさい』というイメージが付いてしまいますね。こういう言葉の使い方や誘導の仕方は、流石に諸井慶徳先生という所でしょう。道の先達としては、こういう点を学び見習わなければいけません。」
ハ「そんなところを学んでも・・・。」


三八、親神にしっかりとお縋りして、そのお働きに委ねて、心安らかに、先案じをすることなく、日々現われて来る事柄に不足、不満を持つことをやめ、親神にもたれて楽しみ喜ぶ心で通ることである。
三九、進んで、その楽しみと喜びの思いを、身を以ての行為に現わして捧げて行くことである。
四〇、そして他人をたすけること、即ち他人によりよき生命を得させるようにして行くことである。
四一、このような中に、何時しか己れ自らも必ずすくわれて行くのである。この消息はまことに不思議な事実として味わわれずにはいない。
四二、 一体、この人間の一生の寿命も、本来ならば、もっと生かし頂けるものであって、百十五才が定命なのである。
四三、然も、人間の死は総ての終りではなく、魂は生き通りで、古い今迄の着物をぬぎかえるように、出直すだけなのである。
四四、このような数々の事実は、それぞれ今迄に知られない画期的の数えであり、人はただ、今更の如く心打たれ、又これによって更生した歩みに進むことが出来る。
四五、このお道に入りなさい。この信仰を身におつけなさい。必ずや、他では得られない素晴らしい結構が得られるのである。


ハ「最後に本章のまとめと言いますか、お道への信仰の在り方が掛かれているようですね?」
役「親神の事を『月日』というのは、そのご守護や働きが太陽の光、月の潤いが世界中にあまねく届くように、この地上、生き物全てに降り注いでいます。人類全てがその守護の中で生かされているのですから、縋ろうが信じなかろうが関係ないのですが、人間、感謝するという心を忘れてはいけません。その大切さを諸井慶徳先生は説いています。感謝を忘れずに生きてこそ、人は互いに仲良く、楽しく、銘々の命を精一杯に生きる事が出来ます。親神のご守護、働きは途切れる事が無いのですから、先案じや不安等感じる必要が無いのです。」

ハ「それは、大自然や地球環境に対する感謝という事でしょうか?」
役「勿論、それが月日親神のご守護であり、働きですから。だから、その後に来る『日々現れてくる事柄に不足、不満を持つ事を止め』というのも、月日親神のご守護や働きに関して不足や不満を持ってはいけない、という事になります。もし、現れてくる事柄が月日親神のご守護や働きでない事、例えば、人間思案や誰かの欲得で起きた事柄なら、それは遠慮なく不足や不満を持って良いのです。」

ハ「あれ?そうなのですか?天理教の中では世の中全ての事に『たんのうしなさい』と教えられているように感じますが。」
役「それは、勘違い、読み間違いですね。諸井慶徳先生も世の中の理不尽や社会問題、犯罪や差別など、そういった事に不足を持つな、不満を言うなとは言っていないでしょう。逆に言えば、そういう諸問題や犯罪、戦争、虐めや差別などには、堂々と立ち向かい、そういう問題を解決していく、皆で一緒に考え、無くしていく事です。それが『人だすけ』であり、そういう問題やトラブルのない世の中、誰も苦しみ悩む人の居ない世の中を実現、建設する事で、『自分も助かる』という訳です。」

ハ「なるほど、ご尤もですが、なにか、書かれている文章とズレているように思えるのですが。」
役「そんな事は有りません。そう感じるとしたら、おそらく『個人救済』と『社会救済』の視点の違いかもしれません。日本に入って来た仏教は、個人の魂や命を救済する目的というか、個人が悟りを啓く事を主眼とする教えが入って来たという歴史があります。また、西洋の一神教の神々も、神と個人の契約関係で『幸福に導く』という根底の考え方が多いです。中山みきさんの教えは、そんな『個人救済ではない』というのは、みかぐらうたやおふでさきを読めば一目瞭然です。もっとも、これを勘違いした教会関係者なども居るのは間違いない所で、そういう人達は「自分が助かるために人助けしろ、お尽くし、お運びしろ。」という方向に行ってしまうのですね。」

ハ「確かに、多くの人の下地に『個人救済』があるので、どのようなお話や教えを聞いても、そういう方向に解釈してしまう可能性がある訳ですね。」
役「そうです。諸井慶徳先生もこう書いているように、人間思案や誰かの欲得によって歪められたモノや仕組みで苦しむ人が居るのなら、不足や不満を言って、どんどん解決しなければなりません。その行動を起こす事が『人だすけ』なのです。家庭、職場、社会、国家や世界のあり方、一部の間違った天理教組織だって、じっくり考え解決しなければならないものなのですよ。それが『道の先達の心得』ですから。」


一八、そしてこの道は、又とない「尊いいんねんの聖地一ぢば」を芯として、そのたすけのお働きを広められる。
一九、それは、人間の最初の生命をお創め下されたいんねんの場所であるので、この創めだしのいんねんによって、生み直しをここから与えられることになったのである。
二〇、この道にあっては、親神は、教祖のお口を通してのお言葉、お筆を介してのお仕込み、更にひながたの御みちすがら、尚又、不思議なお働きの数々、というように、行き届いた幾重のお導きを以て、私達に十分の得心の行くようにお教え下さっている。



ハ「この『尊いいんねん』『創めだしのいんねん』という言葉はいかかでしょうか?どのように解釈したらよろしいでしょう?科学的にも本部の『ぢば』が人類発祥の場所などというのは考えにくい所ですが。」
役「そうですね。まぁ宗教なので勝手にそう信じるのは自由ですけど、世間一般には通用しなくなります。中世キリスト教世界で『地球は平らで宇宙がその周りを回っている』という天動説が信じ込まされていた歴史がありますが、この為に『科学の発展が数百年遅れた』と言われることもあります。」

ハ「科学の発展にすら影響してしまうのですね。では、諸井慶徳の言う『人間の最初の命をお創めくだされた』はどのように解釈すればいいのでしょう?」
役「科学的にも考古学的にも『ありえない』のですから、やはり神話の世界としておくべきでしょう。ただ、神話の中に含まれている『根本の主張』は以前もお話したように重要な意味を含みますから疎かには出来ません。そのうえで、ここでいう『人間創めだし』は、生き物としての人間の事ではなく、神の言葉・中山みきさんの教えを信じる人間を始めだした場所(ぢば)、と解釈する方が納得できますね。」

ハ「同じ人間でも、考え方や価値観が違う、という事ですか?」
役「ある人の言葉を借りれば『助け合い人間』と『倒し合い人間』であるという事になります。昔は、人を押しのけ倒してでも自分が得をする、というのが常識的な世の中だった。そんな中にも善人と言える人はいたでしょうが、善人の生きにくい世の中だといえます。それが、中山みきさんが、この『ぢば』で『かんろだい』を使って、人々に『人間の本質を思案しなさい、神様が人間を創った時の気持ちを考えなさい、人間は人を助ける事で喜びを感じられる事に気が付きなさい』といって教えた訳です。いうなれば、動物や獣のような生き方から神に近い生き方へと変わる訳です。新たな人間の創造として、この『ぢば』が最初の場所だという事です。」

ハ「そのお話は以前も聞いている事ですから分かります。でも、教典やお筆先などの文言は、どちらにも解釈できるような文章ですよね。」
役「そこが教義の混乱を招いている所ですが、諸井慶徳先生はハッキリと、科学や考古学などを無視して『人間の最初の命』と言っていますから、道の先達としては、これを信じなければいけません。」
ハ「いや、それを信じろって・・・。」


二一、昔はとかく嘲笑し軽侮していたが、この道の理は人間生命を成り立たせ、運命を守り伸ばせる不思議な働きの所以として、後になって、今日ようやく学問でもその一部がわかりかけて来たのであって、今更の如く、驚くべき真理と事実なのである。
二二、その証拠は、今後益々、色々なことを通してあらわれて行くであろう。
二三、人間は、単に自分の力で生きているのではなく、親神の御守護によって生かされている中に生きている。親神のお働きを頂けばこそ、日々の己れの生命がある。
二四、この親神は、人間世界の元こしらえた親としての神であって、人間は、皆この親神の御守護の下に生まれさせて頂いた。人間は皆この親神の子であり、本来高低はなく、互いに兄弟姉妹である。
二五、親神は、その御守護の世界の中に、私達人間を抱きかかえて生かして下さっている。人間は親神の懐住居なのである。
二六、この親神の根本的なお働きとしての現われは、月と日、天と地、水気と温み、等として、二つ一つの御守護であり、二つの相対する働きの不思議な調和の中に、総てをお司り下さっている。
二七、然も人間世界を御守護下さっているには、この二つ一つの働きに基く十種の根本的な尊いお働きによって、お司り下さっているのである。それはこの水気と温みの外、つなぎとつっばり、飲み食い出入りと息吹きわけ、切ることとひき出し、種子と苗代のお働きである。これ等のお働きを結構に頂く所に、万事が成り立って行くのである。


ハ「その証拠は、今後益々・・・。って、何か証拠となったモノはありますか?」
役「学問上の証拠と言えるほどデータや検証されたモノは明確になっていませんが、一般的にも当たり前になりつつあるものは有るように思えます。心労や精神的なモノが身体的疾病に繋がる『病は気から』とか、世界の最長寿記録が115歳前後である事と医学界でも人間はおおよそ115歳まで生きる事は可能だという説が出ていたと思います。」

ハ「なるほど、聞いた事があります。逆に言えば、そういう検証だの研究を天理教内部からどんどん進めて行かなければならないと思うのですが、天理大学などでは何を研究されてるのでしょうかね?」
役「何なのでしょうね(笑)。まぁ、諸井慶徳先生もこう仰っているのですから、天理教内部から盛んに研究や実証をしてくべきだと思いますね。それが先達の心得です。」


二八、親神は、人間世界の元こしらえた神であらせられたが、教祖を通して、人間救済の上に表に現われた実の神であられる。私達は、不思議なおたすけのお働きの中に、ありありと親神を味わうことが出来る。
二九、人間の身の内は、親神の御守護に成り立っている。即ち使わせて頂いているが、これを結構に守られるには、心一つの治め方が大切である。人間の人間たる所以は、心の動かし方如何によって、真に全うされもすれば、却って損われもする。
三〇、この心の日々の正しい治め方によって、人間は人間としての生命を真に全うすることが出来る。
三一、この心の治め方には重要な筋道がある。それは、ただその時だけ、自分さえよければよいと思うのではなく、進んで人々に働きかけ、他人をよりよく生かし、互にたて合い、たすけ合いをして行く中に、長い眼を以て、日々を明るい勇んだ、楽しみ喜ぶ心で通ることが大切なのである。これさえ心の持ち方に叶えられるならば、必ずや自分の生命が全うされて行くのである。
三二、然しながら私達には、悩みとなってふりかかり、悶えとして包まれずにはいられない色々の事柄がある。これはどうしたらいいのだろうか。然も矢張り、その苦しさからぬけ出る為の筋道は、この根本消息を外しては得られない。このような事柄は、今迄の心の通り違いに対して見せられている結果であるから、尚、進んで心を改めることが大切なのである。


役「これまでの解釈の違いを認識していれば、この辺りの事はおかしなモノにはならないかと思います。まぁ、根本的には『互いに立て合い、助け合い』の輪に自分も含めて考え行動する事を忘れてはいけない、という事でしょうか?」
ハ「現在の天理教組織で、本部や上級が批判される点ですね?口では綺麗ごとを言うけれども、自分では全く逆の事をしている、と。」

役「私は諸井慶徳先生を個人的に知っている訳ではないので、口先だけなのか、ご本人も実践行動していたのかは不明です。ここでは言及するのを避けさせて頂きます(笑)。」

『道の先達の心得』その3

役「本題に入る前に、まず『道の先達』ということですから、これは『既に信仰をしていて、後人(理の子や未信者)に布教や教化するための『心得』だと考えられます。具体的には、教人、布教師、教会役員や会長さんなどを対象としたものだと言えるでしょう。」
ハ「なるほど。先達ですから、布教やにおいがけ、新しい信者さんをどのように集め布教して行くか、どのように導いていくかという内容ですね?目次でもそれを項目別に分かり易く分類されていると思います。」
役「そうですね。では中身を考えて行きましょう。」


お道の結構さに就いて

一、お道の信仰をしたら、必ずたすかるのである。
二、たすかるとは、生きて行く万事につけてよくなることである。豊かな生命が恵まれ、良き運命に守られて行く。即ち、悪いんねんが善いんねんにきりかわるのである。
三、それは、人は今はかかっていなくても、何時思わぬ病気や災難にかからなければならないとも限らない。そのようなものから逃れたり、そのようなものを防いだりすることが出来ることなのであり、
又、今、病気や災難にかかっている人は、それをひどくならないうちに、癒したり逃れたりすることが出来ることでもあり、
更に又、ひどい病気や災難にあっている人も、それから逃れさして頂くことが出来ることなのである。
こうして凡そ人としての生き甲斐のある、楽しい明るい激刺とした生き方が出来るようにならせて頂けることなのである。
四、だから、お道の信仰をしないのは、みすみす、このよき運命から離れ、豊かな生命を棄てることになる。



役「素晴らしいですね。まず、第一声に『お道の信仰をしたら、必ずたすかる』と断言されています。これほどハッキリと断言できるのは流石としか言えません。道の先達たるもの、こういう信念を持たなければいけないでしょう。」
ハ「いや、その・・、必ずって・・・。」

役「そして、『たすかる』という事について明確な説明がされています。『悪いんねん』が『善いんねん』に切り替わり生きていく上での全てが良い方向に変わる、という訳です。」
ハ「全て・・・、ですか?」

役「はい。以前もお話したと思いますが、私は、この『人を助ける』とは何をする事か?どうなればその人が『助かった』と言えるのか、ずっと考えて来ました。いまだに明確な答えは見つけられなかったのですが、ここには明確に書いてあります。」
ハ「これがその答えですか?どういう事でしょう?」

役「つまり、『お道の信仰をさせる』という事です。」
ハ「え?人を助ける事は、お道の信仰をさせる事?」

役「はい。他人の『悪いんねん』を『善いんねん』に切り替えるなんて人間業では出来ません。これは神様の力でなされる事でしょう。で、その為には『お道の信仰』をさせる、とここに書いてある訳です。」
ハ「まぁ、確かにそう読めますが、本当に助かるのですか?」

役「私自身、中山みき様の教えは、一列全てを助けたいという『世界たすけ』であり、『一列兄弟。世界ろくぢ』を実現する事かと考えて来ましたが、諸井慶徳先生は、世界や一列兄弟など関係なく、お道の信仰をさせれば、その人の人生万事がよくなると仰っています。それを伝えるのが道の先達達たる人の役割なんですね。これは肝に銘じておくべき教えだと思います。」
ハ「はぁ・・・。何か、すぐには納得できない感じですが・・・。」


五、そんなことが本当にあるのかと思われるよう。然し本当にそうなのだ。それは試みに信仰してみたら、必ず味わわることである。自転車なんて乗れるものかと思われるが、やってみてわかるのと同じである。幸い先輩が多ぜい居られるから、尚、間違いない。
六、もともと、このようなことは得られないと思っていたなら、なくても、もともと思って、 一つためしに信仰してみることだ。
七、それならば、何故そのようなことが得られるのか、ごまかしではないか、とも思うかも知れないが、これには深い理由と根拠があるのである。
八、それは人間の生活の根元の消息が開示されたからなのである。人間を含め、万物の存在をしてあらしめられる根本存在としての親神が、自らを現わし出され、ここに人間の生命の真実の意義が明らかにされたからである。
九、ここに始めて、人間の基くべき所が固められ、根が培われることとなったのである。

役「すぐには信じられないのも無理はありません。でも、諸井慶徳先生は『疑うなら試しにやってみろ』と仰っています。例えるなら喰わず嫌いや、あれこれ考えていないで、大勢の人が天理教を信仰しているのだから安心してやってみなさい、と説明しています。」
ハ「ちょっと説明になっていないような感じなのですが・・・。」

役「いえ、ちゃんと根拠も書かれています。それは『人間をお創りくだされた親神が自ら姿を現し教えている事』だからだという事です。」
ハ「それは、元の理とよろずよ八首の中の文言でしたね。でも、以前、役員さんは、元の理は神話の世界、たとえ話であって実際に親神が人間を創った訳ではない、と言ってましたよね?」

役「はい、そうです。科学的にも考古学的にも、元の理に書かれている事が実際に行われた、と考える方が無理があります。例え話として、月日親神が泥海中の世界から『10の道具』を集めて人間を創った、10の道具が各々の持ち味や特徴を活かして、互いに協力して産み出されたのが『人間』である、という解釈です。そうして創られた人間だから、何をするにも皆で互いに協力して助け合っていく事で喜べるし楽しいという性質を持っている訳です。その性質が親から子、子から孫へと伝わるのが『いんねん』で、そのいんねんを自覚して、銘々が持っているホコリを払う事が『いんねんの自覚』であり『ホコリの溜まったいんねんの切り替え』にもなる訳です。」
ハ「ここに書かれている解釈とは随分違うようですが。」

役「いえいえ、私の解釈はあくまで私個人のモノです。諸井慶徳先生の言葉は天理教の先達、今もこの教えを守っている全国の教会長さんや布教師さん達の心得ですから。」
ハ「はぁ、そうですか・・・。」


一〇、他の宗教や信仰は色々あるが、それ等は一時の気やすめにしか過ぎない。又は、みすみす気の毒な間違いの通り方にと入って行くことでしかない。
一一、それは、人間生命の根元の所以が開示したものでないから、そして浅はかな一時の人間思案に流されているものであるから、それでは人間の根は培われることは出来ないからである。


役「これはちょっと過激な文言です。」
ハ「そうですね。他宗教を批判というか、頭から否定してますね。」

役「まぁ、先達の心得としては、この位の考えでないと布教や勧誘など難しくなるでしょう。表立って言わなければ良いのです(笑)。実際に、私が若い頃『他所の宗教は・・・。』等とこれに近い事を言っていた某会長さんや役員さんが居ましたよ。私も他宗教との比較ならよくやります。もっとも、私の場合は教義や解釈の比較であって、頭から否定はしませんけど。」
ハ「いや、それが当然でしょう。それにしても、たとえ他宗教との論議でもこんな言い方はないと思えますけど・・・。」

役「まぁ、それはそれで、あくまでもこれは『先達の心得』ですから、胸に仕舞っておくべき事です。」


一二、この道によって始めて示された数々の教えの角目は、今迄にはどうしてもわからなかった人間完成への確固とした道なのである。
一三、この道は、今迄はただ裏から働いて守護せられていただけであった人間世界をお創め下さった親神が、じきじき御自ら表にお現われ下さったもので、ここに一れつ人間に真実たすけを与えて下さることとなったものである。
一四、親神がじきじき表にお現われになったというのは、教祖を通してこの思召を明らかにお教え下さるようになったこと、及びそれと伴って、如実なお働きをありありとお与え下さるようになったことである。
一五、真実たすけとは、真に人間の生命を全うさして下さることである。

役「この部分は、基になったであろう著書『道の先達の心得・人間完成の道』のタイトルに沿った文言ですね。月日親神という創造神が中山みきという女性の身体に入り込み、この世全ての難渋を救うために言葉を発し行動をした。だから、これを信じてその道を辿るのが『人間として完成された存在になる道』である、という訳です。」
ハ「それも役員さんの解釈とは違いますよね?役員さんは、月日親神は中山みき様の思考の末に編み出された実在しないモノで、中山みき様は自分の価値観や人生全てを自分の理想とする生き方や世の中を実現するために行動した、というお話だったかと思いますが。」

役「そうです。その解釈は今も変わっていません。」
ハ「印象からすると、諸井慶徳の解釈は『月日親神』が主で『中山みき』さんが従、役員さんの解釈は『中山みき』さんが主で『月日親神』が従、という関係に見えますが。」

役「主従という関係が当てはまるかどうかは微妙ですが、そうですね。でも考えてみて下さい。まず、実際に『神様』がいて誰か人間の口を借りて「神の言葉」を伝えたとします。聞いている人にとっては、話しているのは只の人間ですから、本当の神かどうかは判断が出来ません。」
ハ「そうですね。まぁ普通は、そうかな?そんな事があるのかな?と思うだけでしょう。」

役「その逆に、ある人が、神様というのはこういう考え方、人間を超越した存在はこんな価値観や思考法で判断するだろうと体系化して『これが神様のお話だよ。自分は神様と同じ事を言ったりやったりするからね』と言ってお話をしたり、行動したとします。そのお話を聞いたり見たりした人は、どう思いますかね?」
ハ「それは、その人が考えた『神様』だと分かっていれば・・・、」

役「そういう説明もなく、その人が『神様の話ですよ』と言ったなら?」
ハ「え、あ、そうすると・・・。」

役「そうです。周囲からすると、本当にその人に『神様が宿っている』のか『その人の思考によってつくられた神様』なのか、判断できないのです。その人の言葉や行動など、出てくる結果が同じなのですから。」
ハ「なるほど。」

役「だから、諸井慶徳先生の解釈も、私の解釈も『矛盾しない』のです。真実は、神の言葉を話している本人にしか分からない事で、周囲の人が『どっちだろう?』と考えても答えは出ないのですよ。」