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本ブログをお読みの方から投書を頂きました。

「不動産名義について」で書かれていた売買以外でも宗教法人を解散させることで教会(宗教法人)名義を個人名義に書き換える事が出来るのではないか?

ということで、少々法律のお話です。

あくまで前提は自教会(宗教法人)名義の不動産であり、被包括関係を廃止して『規則変更』をした上での事だとご理解ください。

まず、

・宗教法人法
(清算人の職務及び権限)
第四十九条の二  清算人の職務は、次のとおりとする。
一  現務の結了
二  債権の取立て及び債務の弁済
三  残余財産の引渡し
2  清算人は、前項各号に掲げる職務を行うために必要な一切の行為をすることができる。

解散によって消滅する法人は残余財産はゼロとなることから、法人→個人への不動産売買によって現金が法人に残ることはおかしい。
よって、設立当初に個人→法人へ寄付したのと同様、解散時は逆に法人→個人へ無償で譲渡となる。

当然、法人→個人への名義変更によって個人には固定資産税が発生します。

また、この方法は、事前に教会規程においてその旨を変更しておくことが必須条件になります。

・宗教法人法
(残余財産の処分)
第五十条  解散した宗教法人の残余財産の処分は、合併及び破産手続開始の決定による解散の場合を除くほか、規則で定めるところによる。
2  前項の場合において、規則にその定がないときは、他の宗教団体又は公益事業のためにその財産を処分することができる。
3  前二項の規定により処分されない財産は、国庫に帰属する。

一般教会の教会規則には
「この法人が解散した場合には、その残余財産は、天理教に帰属する。」
となっているかと思います。
被包括関係を廃止し、この規則を、例えば、
「この法人が解散した場合には、その残余財産は責任役員会の決議によって決定する。」
のように変更しておけば、教会(宗教法人)を解散させる際、責任役員会決議で個人名義に書き換えることが可能です。


ということで「売買以外の方法」がありました事を付け加えさせていただきます。

ただし、この解散に伴う教会長個人へ不動産名義を変えた場合、「無償譲渡」となりますので、教会長個人の一時所得として結構な税金がかかります。

そこで、解散前に売買という形にして法人に現金を残し、その現金を教会長への退職金、慰労金等の名目にして支払う方法が考えられます。この方法も所得になりますからそれなりの税金が掛かるでしょうが、上記とどちらが安いか比較する価値はあるでしょう。

逆に言えば、一度に全部処理しようとするから税金が高くなってしまうので、前回も述べたように「宗教法人はそのまま」なら、別の方法もあるかと・・・。


六ッ むりなねがひはしてくれな ひとすぢごころになりてこい
七ッ なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする

役「とはいえ、人がその置かれている環境や状況を今すぐ全く違うモノにする事は出来ません。
でも、その置かれている環境の中で、自分の値打ち、その価値を十分理解して、
『互い立て合い助け合い』
に目覚めて行動するなら、生きる目標や行動の指針を
『一列兄弟世界ろくぢ』
を目指して行くなら、その時から誰でも陽気づくめの世の中、勇んだ心とやり甲斐のある働きが出来るのだよ、と教えてくれているのです。」

ハ「ええと、例えば、子供が『〇〇ちゃんの家の子供に生まれてくれば良かったのに』なんて言う事は『無理な願い』でやめてくれ、というような事ですか?」

役「そうですね。まあ、子供の言う事なら仕方がないと思いますけど、大人になったら、成人したらそのような事ばかり言っていたら笑われてしまいますし、そんな事が実現する訳が無いのは誰でも理解しているでしょう。

そんな無理な願いをするより、月日親神の気持ちに沿った『ひとすじごころ』で毎日を歩む事が大事なのだよ、という事です。
ひたすら『ご守護を下さい、結構な状態にして下さい』などと月日親神を自分の欲や願望に従わせるのではなく、神様に合せて自分の心を切り替えていく事が『ひとすじごころ』です。
陽気ぐらしをするように産み育てられてきた人間が、
『互い立て合い助け合い』
をして陽気づくめの世界を味わって欲しいとういう神様の想いに沿う事です。」

八ッ やむほどつらいことハない わしもこれからひのきしん

役「と言われているのは、『やむ』というのが個人的な病気や身上だと受け取ると、全体がおかしな事になってしまいます。

人間の身体もこの世の物や動植物に至るまで、全てが月日親神が創ってくれた『借り物』なのですから、これが『互い立て合い助け合い』で十分に働いている状態、それぞれが、他の何かの為に役に立っている状態が『いさむ』であり、その逆、争いや倒し合い、傷つけ合う状態を『いずむ』と言っている事が理解出来れば、この『やむ』というのが決して一個人の病気や身上の事を言っているのではないと分かります。

自分が月日親神の心である『互い立て合い助け合い』に生きていない、違う方向に向かっていれば喜べないという事を心に修めて、日々の行動が神に沿った方向に向かっている『ひのきしん』に励んでほしい、と諭されています。

人は、真実を知る前には誰かからの命令や世の中の常識などに従って生きて居られる、生活できるのですが、それに疑問を感じたり、真実とは違うという事が分かってしまうと、その環境の中では喜ぶことも出来ないし、勇んで毎日を過ごすことも出来ません。

それこそ、ストレスと精神的苦悶の中で毎日を送ることになりますので、心だけでなく肉体的にも血圧だとか胃腸の状態だとかに影響が出て、本当の病気や身上になって現れてくる訳です。
さらには、そんな環境社会そのものも、歪みと矛盾が大きくなって、社会全体が『やんで』しまう事になります。 

過去の日本の歴史、明治政府の国家神道が戦争への道へと繋がった事、西欧列強がアジア・アフリカ諸国を植民地にして原住民から富や土地を奪い、奴隷制度の下に虐げていた事、それらの結果が二度の世界大戦へと結びついたと言えるのではないでしょうか。

勿論、今現在もその流れは続いています。日本は戦争に直接参加はしていませんが、紛争や国家間の戦争は絶え間なく起こっていますし、今でも国内紛争が解決していない国や地域が沢山あります。
石油利権や富を奪い合う為に、中東では血と火薬の臭いが消え去る暇が無いくらいです。世の中や社会に影響力を持つ人、立場や資産を抱えている人達の『月日親神の想いと反する心』がこのような世界的なやまいを引き起こしていると言えるのではないでしょうか。」

ハ「いや、まぁ、そこまで大きなお話になってしまうと何とも言えませんけど、まずは自分の身の回り、銘々の生活や関わりのある社会の改革改善から始めよう、という所ですね。」
役「そうですね。」

九ッ ここまでしんじんしたけれど もとのかみとハしらなんだ
十ド このたびあらはれた じつのかみにはそうゐない

役「人間を拵えた時から、陽気づくめの世にしたい、そうあって欲しいと思っていた月日親神ですから、元拵えた神様、真実の神様であることに間違いはない、それを理解して、その月日親神の想いを心の社として、働くことが私達の信仰です。

かりにも、助けとか救いという事を考える宗教なのですから、現世の苦しみや多くの人の難義のとなる原因、世俗や社会を支配している、動かしている権力や政治体制なども是正していかなければなりませんし、その方向性や政策の先の事も見極める必要があります。
また、権力からの保護や開放も考えなければなりません。そこには、世俗の政治や権力より強い意志を持つ神や仏の存在が必要になってくる訳です。多くの人の全ての人の幸福と繁栄を考えたら、一部の人や特殊な団体などの横暴や我がまま等は許してはいけない事なのです。

日本の歴史から学ぶべきことは、権力者の祖先を神として祀った日本の国家神道は否定されるべきモノであり、徳川幕府の為の思想統制と民衆教育機関になり下がった寺社仏閣は世界助けや人民の救済など全くできない単なる権力者の下請け出先機関になってしまったと言えるでしょう。
ただひたすら、自分達の教団・組織の安泰を図り、その維持運営の為に権力者を正当化して民衆を圧迫支配するような宗教には何ら存在価値は無いのではないかとすら思えます。
そんな宗教が衰退するのは、時代の流れともいえる事でしょう。
厳しい言い方をすれば、中山みき様の教えに背いて、応法の道を説き復元されない教団の存在価値、そしてその命運も、全体から見れば明らかだと言えるでしょう。」

ハ「なるほど、分かります。」
役「私達は、中山みき様の教えを繋ごうと考えるなら、『元の神とは知らなんだ』『実の神には相違ない』という、いかなる権力者よりも、いかなる力を持った人達よりも尊い月日親神の存在に目覚め、信仰の原典にしなければならない訳です。」

役「『三下り目』ですが、まず終戦までは歌うことも文字を見ることも出来なかった、禁止されていた内容だという事を考える必要があります。
何が問題かというと、最初のうたと9番目と10番目でしょうか。

『よのもと』と『元の神、実の神』という文言が使われており、終戦までの天皇を現人神としてその祖先を国家最高の神とする国家神道に真っ向から対立する内容です。

こういう教えが中山みき様のご苦労18回に及ぶ逮捕拘禁、拷問に繋がる内容なのですから、我が身を守りたい、繁栄を願う人間思案で作られた天理教会からすれば、表に出せなかった歴史だった訳です。」

ハ「明治政府の国家神道の方針を考えなければいけない訳ですね?」

一つ ひのもとしょやしきの つとめのばしょはよのもとや

役「はい。この最初のうたにも『世の元』という言葉があります。国家神道では、日本の国を産み出したのは『イザナミ・イザナギ』が雲の上から海を掻き回して造り、その子孫が天皇であると教えているのですから、どこか別の場所が『世の元』では辻褄が合わなくなります。それで、三下り目が削除されたのでしょう。
ただ中山みき様の言う『世の元』というのが、神話や伝承に出てくるような『人類創造の最初の場所』と捉えると解釈が逸れてしまいます。

『つとめのばしょ』は『よのもと』と仰っているのですから、このつとめ場所から世界を建て替える、『互い立て合い助け合いの精神』で世の中を『誰も苦しむ者の居ない陽気くらし世界』に改革していく『最初の場所である』と解釈しなければいけません。

もっとも、これも国家神道からすれば、その方針とは真逆のモノですから、表には出せない内容だといえます。」

二ッ ふしぎなつとめばしょハ たれにたのみはかけねども

役「月日親神は、一人も残さず助けたい、皆全ての人間に陽気ぐらししてくれ、という想いで人間を産み出し、世界を創りあげて守護し続けているのですから、多くの人がこれまで信じていた神様とは全く違うモノなのです。

それまでの神様は、権力者や支配者を象徴するような強大な力や権力を持っており、人間はひたすらお供え物を捧げ、命を掛けて働き、ひれ伏して慈悲を乞うような神様です。それでも気に食わない時は怒りを爆発させ、災害を起こし、多くの人命を奪い、更なる要求を人間に突き付けて忠誠や服従を誓わせるのです。

この違いを理解できれば、月日親神に
『もっとご守護下さい。病や難渋を無くして下さい。』
等とお願いするのは見当違いだと分かります。」

ハ「なるほど、拝み祈祷で行くでなし、の意味ですね。」

役「はい。後は、陽気ぐらしするのもしないのも、人間自身にかかっているという事です。

いうなれば、人間の陽気ぐらしの準備万端整えてくれたのが月日親神で、陽気ぐらしを味わうのが人間だという事です。
月日親神は人間に陽気ぐらしをして欲しいと願っているのに、人間同士が互いに助け合って協力したら陽気ぐらしが出来るのに、それを争いばかり起こして陽気ぐらしから遠ざかってしまっているのが人間の『埃』だと教えてくれているのです。

だから、『よのもと』である『つとめばしょ』で神様の気持ちを理解し、心に修めて『互い立て合い助け合い』に目覚めて勇んで陽気ぐらしに向かって貰いたいという切なる願いでもある訳です。

とはいえ、いくら月日親神の願いとはいえ、月日親神は、誰かに頼んだり救世主として誰かを遣わしたりという事はしないと明言されています。
これは、我々の立場で言えば、漫画や映画などに登場する救世主とかヒーローのような人に頼らない、アテにしない、頼ってはいけないという、信仰を続けるうえでの姿勢も戒めていると考えられます。それは、」

三ッ みなせかいがよりあうて でけたちきたるがこれふしぎ

役「というお歌に続くところから理解出来るでしょう。
中山みき様の言う「せかい」「このよ」とはお手振りにもあるように「人が行き交う社会、人間同士の関係」を表わしているわけです。
これは、誰か強い人、英雄や役割を持った人が、その他大勢を率いて戦争に勝ったとか、国を創ったなんて歴史が当たり前ですけど、この『陽気づくめの世』『つとめ場所の理』は、自然と人々が寄り合って出来て来るものだよ、という事です。」

ハ「なるほど、確かに歴史上の出来事や事件では、誰か中心となる人物が登場しますが、そういう人物が居ない、教祖様の教えを理解した人が自然と集まって出来て来る、実現するとしたら本当に『これふしぎ』と言えますね。」

役「月日親神が直接命令する訳でもない、誰かに頼んで大勢を導く訳でもない、
『互い立て合い助け合い、一列兄弟世界ろくぢ』
を理解して、その素晴らしさを目標に生活しよう、日々の行動を変えて行こうという人達が自然と集まって出来る世界、それこそが月日親神のいう『ふしぎなふしん』でもある訳です。」

ハ「あれ、ちょっと待ってください。それでは『教祖様』の存在というか役割というのはどうなってしまうのでしょう?
『教祖様』は英雄とかヒーローとは意味が異なるでしょうが、特別な存在だと思えるのですが。」

役「中山みき様は、その『互い立て合い助け合い、一列兄弟世界ろくぢ』を実行した、実践した最初の一人だという事です。

最初の一人であり、それを多くの人に伝えたという、それ以上でもそれ以下でもない『存在』です。

それまで誰も考えた事もない、いや、『平等の社会』だの『皆が幸せに暮らせる世界』なんて事を多少は空想したり考えていた人が居るかもしれません。

マルクスの『資本論』なんて、机上で理論を構築し、本に残した訳です。でも自分の人生を使って実行しよう、実践しようなんて人は居なかった。

敢えて言うなら、イエス=キリストやブッダは考えた事、悟った事を人々に伝え、実践しようとした様子が伺えますが、でも、それらはどう見ても世捨て人に近い感じがします。

でも、中山みき様はそれを実行した訳です。

人生の後半50年をその為に使い切った訳です。

だからこそ『ひながた』でありその道を辿ることが我々、教祖様を慕う者が歩むべき道であると思います。」

ハ「確かにそうですね。それだけに役員さんが言う『教祖伝や逸話編、教祖様のお話などに歪みや嘘があってはいけない、嘘偽りのない教祖様の言葉や行動、生活ぶりなどを伝えなければならない。』という訳ですね。本席の『おさしづ』にも言われていた事ですね。」

四ッ ようようここまでついてきた じつのたすけはこれからや

役「ここで考える必要があるのは、『じつのたすけ』という言葉です。

色々伝わっている教組様周辺の状況を考えますと、この『みかぐらうた』を教えられる以前に、後に本席になられる飯降伊蔵さん夫妻が入信しています。
教組様の周りに信者らしい人、教えを理解した人が寄り集い、それなりの人数になった。でも、当時のお屋敷、教祖様のいらっしゃった場所は『綿蔵』という物置を整理したような場所で、広さも無く大勢の人が座ってお話を聞く事が出来るようなスペースもない。
毎日、綿蔵から人が溢れ、天気の悪い日などは風雨を避ける事すら出来なかったのではないかと想像されます。
そこで集まった人の間から、教祖様のお話をユックリ聞く事が出来る場所、『つとめ場所』のお話が持ち上がった訳です。
神様のお話ですから『お社なり建てさせて頂きたいと思います』という提案に対して教祖は
『社はいらん、小さいモノでも建てかけ』
との言葉です。続いて
『継ぎ足しは心次第』
と言うのですから、これは、現実の建物の事を言いたかったわけではなく、銘々の心の建て替えが先であり、その結果として皆が寄り合う場所、お話や教えを聞く事が出来る場所を心次第で建てればイイ、という出来事だと解釈できます。」

ハ「中山みき様のお話し、教えによって救われた、助けられた、『互い立て合い助け合い、一列兄弟世界ろくぢ』を心に修めて日々の生活を歩む事が素晴らしい事なのだと理解できた人が、これから銘々の周囲の人にその事を伝えていく、周囲の人を助けて行くのが『じつのたすけ』だと仰ってる訳ですか?」

役「そうです。すると、」

五ッ いつもわらはれそしられて めずらしたすけをするほどに

役「という事になってしまうのですね。

難渋を救い、貧困に手を差し伸べ、それでいて自分は何の見返りも求めない。
ただひたすら
『互い立て合い救け合い、一列兄弟世界ろくぢ』
の実現のために行動する訳ですから、知らない人や周囲の人からすれば、
『損ばかりしている、骨折り損のくたびれ儲けみたいなものだ』
という風にしか見えない訳です。
『そんな事ばかりして何が面白いのだろう?何の得があるのだろう?』
と考えるのが世間並、世の中の価値観としては当たり前の事なのです。

今でこそ、多少はボランティアだとか社会貢献という評価や価値観が増えていますが、それにしたって、自分の人生・生活すべてを投げ打って、自分の財産も身体もすべて使って『陽気づくめの世の中』を創るために働くなどという事は、表面的には『立派な人だ、素晴らしい生き方だ』と言われるかもしれませんが、その実、『自分には出来ない。とてもとても無理な話だ。行政や国が取り組むべき事だろう。』という考え方が正直な所だろうと思います。

言い方は悪いかもしれませんが、自分が平均的な生活をしているとして、難渋を救う、人助けをするというのは、平均以下、言うならばマイナスの人達と合わせて生活をするようなモノですから、自分の生活レベルが下がってしまう訳です。

これでは周囲の人から見れば
『何をバカな事をやっているのだ。そんな人達は放って置いて、自分の事をすれば良いのに。』
と笑われそしられてしまうのも当然でしょう。

でも、そういう生活にこそ、真の喜びがあり、それを継続して世界中に広げていく事こそ、月日親神の望む『陽気づくめの世』が建設できる訳です。」

ハ「その平均とマイナスを合わせて計算するというのは、お金の問題とか経済的な事でしょうか?」

役「お金の問題が一番分かり易いですね。何と言っても、世の中のほぼ絶対的な尺度になってますから。でも、決してお金だけではなく、社会的な立場や身分、時間使い方の問題や人の心、気持ち、差別の問題だって忘れてはいけない事だと思います。」

ハ「なるほど。でも、それなら経済的に豊かな人や余裕のある人を計算に入れれば良いのではないでしょうか?」

役「それは、経済的に余裕のある人、お金持ちにお願いして資金援助や貧困者への支援、寄付などを募ることも必要でしょうが、その人達が『どれ程協力してくれる』と思いますか?
いくら『互い立て合い救け合い、一列兄弟世界ろくぢ』が理想世界だと説いたところで、中山みき様のように人生全てを投げ打って人助けの道に入る人がどれ程いるでしょうか?

逆に言えば、社会的弱者だからこそ、マイナスの人だからこそ、中山みき様の教えに興味を持ち、救われたい、豊かな生活をしたい、高低のない世の中にして欲しい、と願うのではないでしょうか。」

ハ「あぁ、なるほど。そうして下の方から平均化して行けば、段々に上の方にも広がって、最後は全てが平均化される、平らになる、という事ですね。」

役「まぁ、簡単な道程ではないし、一朝一夕に出来る事でもありません。でも、その目標というか進むべき道を誤ってはいけないのは当然でしょう。だからこそ、銘々が教えを正確に理解し、心に修める事が大事なのだと思います。」

ハルアキ「役員さん、質問があるのですが宜しいでしょうか?」
役員「はい、何でしょう?」

ハ「たしか、役員さんの教会の土地建物などの不動産は教会長(役員の父)個人名義で、固定資産税も教会長さん個人で負担してる状態でしたね?」
役「えぇ、そうです。一つの土地、敷地内に住宅と教会建物がありますが、父の個人名義のためにずっと固定資産税も個人で払ってました。」

ハ「宗教法人天理教との被包括関係廃止手続きが済んだので、これから不動産名義を宗教法人名義に書き換える手続きをする訳ですね?」
役「そのつもりだったのですが、色々調べてみたところ、名義を書き換えなくても固定資産税を免除される方法があるようなんですよ。
父が退職して教会長を継いでからずっと宗教法人のために使われていたようなものなのですから、その旨を役所の資産税課(教会所在地の役所における部署名)に申請すれば、個人名義のままでも免除になる事もあるそうです。
名義変更するにも、生前贈与だと贈与税の問題が発生してしまうので大変ですから。
先日、その打ち合わせに行ってきました。」

ハ「なるほど。それは面白そうですね。結果が分かりましたら教えて下さい。」
役「ええ、いいですよ。で、質問というのは?」

ハ「あぁ、そうでした。全国の末端教会の中には逆に考えている方も多いと思うのです。宗教法人名義の土地建物を個人名義に書き換えられないか、と。その方法としてどんなやり方があるのかと思いまして。」
役「という事は前提として、不動産名義は自教会、つまり自分又は自分の肉親が教会長をしている宗教法人名義という事ですね?」

ハ「えぇ、そうです。自分のご先祖が土地建物をお供えして教会を作ったけど、この先後継者がいない、子供達も天理教から離れてしまった。このままだと、上級や大教会から別の人が教会長として任命されて来る。それよりも個人名義に変えて教会も整理して、子供たちに残してあげたい、というような場合ですかね。」
役「教会規則では何をやるのも大教会長の同意と本部の承認が必要ですから、まずは被包括関係廃止をしない事には始まりませんが、その上で、教会(宗教法人)も整理したいということなのかな?」

ハ「役員さんのように、教えの追及とか信仰を続ける意思があれば別でしょうが、子供達も天理教から離れていたら、整理するしかないのではないかと。」
役「そうかもしれませんね。個人的には、信仰はさておき、宗教法人のままにしておけば、固定資産税や相続税が掛からないのでイイと思いますけど。」

ハ「そういうメリットも有りますけど、結局、子供達を教会に縛り付ける事にもなるじゃありませんか。そういう個人の問題はともかく、宗教法人名義の不動産を個人名義にする方法についてなのですけど。」
役「ありますよ、買えばいいんです。」

ハ「え?買う?」
役「はい。自分の教会とはいえ法人名義なら『他人のモノ』ですから、ただで貰う訳にはいきません。普通に買えばいいのです。」

ハ「し、しかし、ずっと大教会や本部に尽くしてきて、経済的に大変な小さな教会がやっと被包括関係を廃止して独立したとして、その不動産の購入代金なんて・・・」
役「あぁ、事情は分かりますけど、だからと言って『タダで貰おう』なんて都合よすぎますよ。仮にタダで貰ったとしても、それはそっくり一時所得、不労所得になりますから、大半は税金で持って行かれてしまうでしょうね。」

ハ「それはそうなんですけど。でも末端教会関係者の気持ちは、役員さんもよく分かるでしょう?」
役「それは理解できないわけでは有りませんけど、だから、宗教法人のままで置いておけ、と謂う事なんです。」

ハ「それしか無いのでしょうか?」
役「ただ、宗教法人に代金を払って購入したとして、売却代金を手にした宗教法人の代表役員は教会長さんなんですから、その後は・・・・おっと、これ以上話して記事にされたら、私が『節税対策の指南をしている』と訴えられかねませんので、ここまでで勘弁してください。」

ハ「なるほど、役員さんに迷惑を掛けては申し訳ないですから、この話はここまでにしましょう。」

お話(その2)

2017年09月16日
ここは一応「天理教の教会」です。天理教の教会というと、普通は天理教の神様のお話や、日々の生活での心構えや毎日の行動をどうするか、困った時に相談に乗ったり、悩みや病気の時のお願いに来たり等の人生をどのように生きるかというお話をさせて頂くことになります。

しかし、この教会は他の教会とは違います。

というのは、元々、天理教の教祖中山みき様は、「こうを作れ」「こうを結ぼやないかいな」と言われていました。「こう」というのは、同じ信仰や考えをもった人達の集まりです。宗教関係では、定期的に富士山へ登山して参拝する為の「冨士講」や三重県の伊勢神宮をお参りするための「伊勢講」等が全国にあります。あるいは「頼母子講」といった互助会的や共済保険のような働きをする「講」も全国にあります。

で、この教会は、分かり易く言うと「学校」だと思って下さい。

学校にも色々な種類がありますが、大抵は「子供達が皆で勉強や運動をして将来立派な大人や、職業に就くための技術や能力を身に付ける場所」と言えます。

もっとも、「学校で勉強した事は社会で役に立たない」なんて事もよく言われますけど、そのままでは役に立たなくても、色々な物事の基礎知識や基本技術を身に付けると考えれば、全く意味の無いものではありません。基礎の出来ていない、基本を分かっていないと、何をやっても失敗や間違いが多い、勘違いしたままでは何度も同じ失敗を繰り返す、なんて事になるのは誰でも簡単に分かる事でしょう。

では、この教会=学校では、何を学び、何を身に付けるのでしょうか?

それは、「人間の心の基礎」です。

神様がどんな気持ちや考えで人間をお創りになられたのか?
今、自分が生きている、生かされている理由、原因は何なのか?
これから先の生活や生き方で何を考え、何に注意して、どんな考えで行動すれば良いのか?
こういう言葉にすると最初にお話しした他との違いが微妙なのですが、違いは、この「かんろだい」と「おつとめの仕方」にあります。

他所の教会や、以前の此処もそうでしたが、ここに一列に並んであちら(三殿)に向かって「おつとめ」をしたり「ておどり」をしていました。
これでは、「神様に向かってお祈りをしている、神様に奉納している」としか思えません。そういう考えが心の中に刷り込まれてしまいます。

そうではありません。

このように「かんろだい」を囲んで皆で「おつとめ」や「ておどり」をすると、先程お話しした「神様の気持ちや考え」を「自分の心の中に納める」事が出来るのです。勿論、「これ(かんろだい)が神様でお願いをしているんだ」という考えでは困ります。

月日親神は、10種類の道具を用意して人間を創りました。10種類の道具は、それぞれの役割や特徴を活かして、互いに協力して、助け合って命を産み出し、ずっと繋いでいるのです。それこそ、今皆さんが生きている、生かされている理です。
その道具の働き、役割を、この「かんろだい」を囲んでつとめることで、皆さんは「月日親神」の気持ちを思いを理を、心の中に納めることが出来ます。
その形や気持ち、考え方が『人間が本来持っている性質』で、そういう生き方考え方が、人間の持つ真っ正直な生き方なんです。

よく、一人で食事をしても美味しくない、栄養にならない、何て言われます。家族や友人たちと一緒に楽しく食べる食事は、美味しいし食もはかどりますよね。
家族や友人たちと一緒にレジャーをしたり旅行に行ったりするのは、いい思い出になりますし、人生の心を豊かにする事になります。

中には「一人旅の方が気楽で好きだ」なんて言う人もいますけど、本当に気持ちの通じた相手、互いに理解し合い、お互いを大切に思う気持ちがある人間同士なら、一緒に行動した方が楽しいんです。喜べるのです。それが、人間が本来持っている性質なのです。

その理を基礎、基本として、家族や友達や社会で、実際の生活の中で活かしてください。

世の中では、「皆仲良く」「喧嘩してはいけません」なんて言いますけど、その実は何を教えているでしょうか?どうしろと言ってるでしょうか?

競争、他人に負けるな、お隣より良いモノを買いたい欲しい、一番を目指せ、他人の足を引っ張ってでも自分が上に立て、そんな事ばかりで、他人を尊重したり、一緒に行動したり仲良くする事を妨げる事ばかりです。

会社やスポーツなどで「チームワーク」とか「協力して」等という場面もありますけど、それだって、相手チームに勝つ、他所の会社よりも売り上げをあげる、という競争と闘いの為に必要だからという「仮の姿」なのです。

そうじゃありません。

月日親神は
「人間創り出した時から、役割や特徴の違う者同士が協力して命を産み出した」
のですから、その事を深く心に修めて、それで今自分が生きているんだと理解して下さい。

その為にこの「おつとめ」を行います。

それが心に修まったら、その気持ちや考えで家族や友人、会社などで行動して下さい。「俺が俺が、」という人や「他人の足を引っ張っても、」なんて世の中一般の考えや価値観に負けることなく、神様の心を信じて持ち続けて頂きたいと思います。

この教会は、月日親神が『こういう人間になってくれ』と願っているような『本当の人間』になる為の「教室」で、このかんろだいは、「教材」なんです。


今日も、こうして畑で採れたナスや枝豆が揚げられています。

家庭菜園で野菜を作ります。例えばナスを植えたとしましょう。
ナスの実が成るまでには、周囲の雑草を抜いてあげなければならない、雨が降らなければ水もあげるし、必要な時には肥料もあげる、アブラムシや芋虫が付けば払ってあげなければならない。

『大きな実をつけろ、美味しい実をつけろ』
という気持ちで手入れをしたり世話をする訳です。

暑い時期に雑草を取ったり世話をするのは大変だけど、そうすると大きな実が沢山なって豊かな収穫ができます。

さて、月日親神はこの世に人間の種を蒔きました。

でも、神様は見守っているだけです。雑草を抜いてくれたり、水や肥料を与えてくれたりはしません。

その代わりに、人間が自分で雑草を抜いたり自分達で水や食べ物を食べたり、虫を払う事が出来るように、この身体と知恵を与えてくれたのです。
月日親神は人間たちに、それぞれの役割や特徴を活かして、互いに助け合って問題を解決して成長し、皆が陽気にくらすという大きな実りをもたらしなさい、豊かな社会を作りなさい、と期待しているのです。

この事をじっくり思案して、毎日の生活や生き方を考えさせて頂きたいと思います。

二下り目

2017年09月07日
役「『二下り目』全体の意味を考えさせて頂くと、世界の普請、理想世界の実現という事になると思います。
まだ見ぬ『陽気づくめの世』の建設ですから、誰もやった事も無ければ実現もしていません。それこそ『ふしぎなふしん』である訳です。
その建設の仕方も、これまで歴史の中で世の中を変えるというと『革命・クーデター・政略・政変』といった武力や血を血で洗う戦いの結果の改革だった訳ですが、そんな血生臭い戦いや殺し合いの結果ではなく、一人一人の心を建て替え、かんろだいつとめによる月日親神の『心』を修めた人が行動する事で実現する『世直り』『世直し』の『ふしぎなふしん』でもある訳です。」

ハ「その手法も出来上がる世界も、歴史上類を見ない『ふしぎ』だという訳ですね?」
役「そうです。そういう『陽気づくめの世』は、前も言いましたが、天国や極楽のようにあの世の世界の話ではなく、また他所に行って一生懸命建設したりする訳でもない。
教えの理を理解し心に修めた人達によってできて来る世界、この世が改革改善されてできる世界だという事です。
一人一人の生活態度や日々の心使いを確立する事で、そういう人達が寄り集まって、銘々の信念と信仰心によってできて来る世界だという事です。
明治維新のように海外からの圧力や、戦後の日本のようにGHQが占領して改革してくれる訳でもない、一生懸命拝んでいれば神様が一人残らず喜ぶ世界を造って下さる訳でもないのです。

おふでさきでは、神様は、すでに人間が互い立て合い助け合いをすれば陽気ぐらし出来るようにご守護をされている、現時点でも教えの理を心に修め、互い立て合い助け合いの精神を心に定め、それで日々を過ごせば陽気な生活をする事ができるのだから、あとは目覚めて社会を陽気づくめの世の中に建て替えてくれと仰っている訳です。

神様に『陽気ぐらしのご守護を頂きたい』と願うのではなく、互い立て合い助け合いの心定めをして日々の行動に移してくれと言っている訳です。」

ハ「やはり、拝み祈祷や伺い立てるのではないのですから、銘々の心定めと行動が大事だという事ですね?」
役「はい、勿論です。
そして重要な事は、一下り目が『経済』のシステムについてでした。二下り目は『政治体制』のお話だという事です。
社会を構成する重要な要因は政治と経済ですから、この2つを改善改革しなければならないという事です。この点を認識しながら解釈を進めていくと、」

とんヾとんと正月をどりはじめハ やれおもしろい

役「という最初の言葉は、一下り目と同様にこの歌がつくられたのが慶応三年の正月だった事と、年の改まった正月を掛けていると考えられます。
あと「をどり」ですが、この歌がつくられた段階では手振りは教えられていません。
教祖伝でも「歌の意味を考えて手振りを付けてみなさい」とお弟子さん達と一緒になされているのですから、将来的に手振りも付けて踊りにしようと思っていらっしゃった事が伺えます。
その意味を踏まえて『理を振るのやで』と仰ったのではないでしょうか。」

ハ「なるほど、中山みき様は教えの先を見据えていたのですね?」
役「はい。互い助け合いの世界のあり方、人間の生き方、陽気づくめの世を言葉で教えられ、その真理を身振りで表し、悟り違いが無いように、また、身に付けやすくする、心に納め易くするという二重の意味が有ったのではないかと悟らせて頂きます。

ですから、みかぐらうたの意味、教えの真理を理解し、心に修める為には、このみかぐらうたの手踊りが『神様に奉納しているご祈祷』などと勘違いされては意味が有りませんし、意味を知らなければ各々の日々の生活に活かす事や表現する事も出来ません。
まして、人に伝えるとか、においをかける事も出来ませんし、取次ぎをさせて貰う事など程遠い話になってしまいます。
意味なんかどうでも構わない、ただ手踊だけ覚えて神床で形だけ行えばいいのだ、等という話では中山みき様には通じない事なのです。」

二ッ ふしぎなふしんかかれバ やれにぎはしや

役「この『ふしん』については、前述のように誰も見た事の無い『陽気づくめの世』を建設する、この世を建て替えるという『ふしぎなふしん』なのですから、現実の建物や館を建築する『ふしん』ではありません。
そういう眼に見える普請なら『ふしぎ』と付ける必要はありませんね。

また昔の事になりますが、教義講習会において二代真柱が
『教祖が普請または神のやかたと仰せ下さったのは、陽気ぐらしの世界の事であって、目に見える建物の事ではない』
と言われています。

明治の『教祖御伝記』にも、
『然れども此神殿の造営は普通の神殿にあらずして実は甘露台の造営を意味するなり。甘露台は教祖御神楽歌に一列すまして甘露台と歌ひたまひしが如く我々人類が済度の恩寵を被り其心清浄となりたるの紀念として建てらるるものにして甘露台一たび建てらるるときは我々人類の霊福と平和とは地上に降るべし。然らば又神殿造営の御予言の甚だ重要なるを知るべきなり。』
と記されています。

中山みき様の仰った『ふしん』とは、全ての人が喜ぶ世界、一列兄弟助け合いの世界を指しているのだという事がハッキリと示されている訳です。」
ハ「なるほど、現実の建物や館の事ではなく、銘々の心と、そこから出現する誰も苦しむ人の居ない『陽気づくめの世』の普請という事ですね。」

役「そういう、皆の喜ぶ世界、苦しむ者の居ない世の中、互い立て合い助け合いの世の中を創るために、自分の心も身体も役に立っているのだ、その為に働いているのだという事が理解できれば、その充足感と満足感は、例え一人で取り組もうとも『にぎわしい』のです。取り掛かっただけでも価値のある事だと教えられているのです。

現実世界では、こういう仕事ばかりではありません。
大きな建築や土木工事でも、出来上がったという満足感や達成感が多少は感じられても、結局は『金づく』の世界だったり、大勢の人の無理や無味乾燥の集まりだったりする訳です。
結果として『儲かった』という場合もあるでしょうが、一下り目で話したように『ほうねん』の状態や取り組みからは程遠い、なんて事が多い訳ですね。
あるいは、心に汚点やシミを残すような仕事や運営をしている状態の仕事も多いので、とても『にぎわしい』なんて気持ちや境遇には届かない事ばかりなのです。

一つの理想を持ち、シッカリとした目的と指針を持った人間は、その方向と行動が生き甲斐になりますし、どのような困難や問題に直面しても、決して挫ける事なく歩み続ける事ができます。
何に向かって生きるかという事が一番重要な事になるのです。

中山みき様も寿命を25年縮めても教えを説き続けました。
一番弟子と言われた中田儀三郎さんも最後のご苦労で警察の迫害を一緒に受け、その為に身体を壊して命を落とす事になりました。
でも、その人生や生き方に悔いも後悔も無かったと思います。
道半ばで命を落としたと言われるかもしれませんが、これから先に続く人達の為に精一杯、神一条の道を歩まれたという満足感が勝っていたのではないかと思うのです。」

三ッ みにつく
四ッ よなほり

役「当然ながら、頭の中で理解できただけでは足らないという事は誰でも知っている事です。
それを各々が自分で心に修め、日々の行動や言葉に『自然に出てくる』ようになって初めて『身に付いた』状態と言える訳です。それが身に付くと、その人の周囲、関係する人の見る目も対応も変わってくる訳です。

中山みき様の、互い立て合い助け合いの世の中にしようという教えを受けた人が充分思案して心を定めると、日々の行動や言葉に出てくるようになる。
身に付いた状態になると、その人の周囲の反応や態度も変わってきます。
そういう考え方、生き方が素晴らしいのだと周囲の人が気が付く訳です。
その人自身も周囲も『にぎわしい』状態になると、自然と世の中が変わってしまう、『世直り』になるのですね。」

ハ「ええと、簡単な話では、世間によくある、子供達に挨拶を励行しようという『あいさつ運動』とか『親切運動』とか『ゴミを拾いましょう』なんていう市民活動的な運動の輪を広げる、という感じでしょうか?」
役「教えの内容や目的、範囲は異なるでしょうが、切っ掛けや始まりは同様のモノだと考えて差し支えありません。
中山みき様の教え全てを即行動に移す事は大変な事ですし、一下り目のように理解されにくい部分も多いのです。
でも、誰かが理解できたこと、納得できたことから始めて実行し、それが周囲に広がっていくというスタイルで結構かと思います。
何と言っても、争いや闘いによって決めたり従わせたりするような教えではないのですから。」

ハ「『よなおり』という言葉ですが、世の中には『よなおし』という言葉もありますよね。確か、江戸の末期に大塩平八郎の乱とかが起きて、後に『世直し大明神』と祀られたとか。」
役「はい。大塩平八郎の乱は、歴史的には中山みき様が立教を宣言される直前の頃だったかと思います。日本全国で冷害による飢饉の為に多くの餓死者が出た時期に、江戸や大阪の商人たちは米を買い占め高値で売り、民衆は益々困窮してしまったのです。貧しい農家は、自分で米を作っていながら全て年貢で取り上げられ、生活に困って娘を売り飛ばしたり雑穀や草の根を食べて飢えを凌いだとか。そんな世の中は間違っている、と檄文を飛ばして立ち上がったのが大塩平八郎だった訳です。」

ハ「なるほど、多くの民衆の為に立ち上がった訳ですけど、幕府や体制に逆らう事から『乱』と呼ばれているのですね。」
役「そう思います。多くの武士は農民や民衆が苦しんでいてもその状態が当たり前だと思っている、或いは、おかしい間違っていると思っても見て見ぬふりをしている、という人ばかりだった訳です。
ただ、大塩平八郎が『どういう世界を造ったらよいか』という事は良く分からなかったのではないかと思われます。
多くの民衆や農家が苦しんでいる、飢えに喘いで餓死してしまう世の中は間違っている、けど、何処をどう変えたら良いのかまでは明確ではないのです。
言い方は悪いかもしれませんが、不満や不平があるから何とかしろと武力蜂起をした、という感じです。
勿論、大塩平八郎自身は武士の立場で体制側の人間ですから、民衆や農民の為に立ち上がった事は立派な事です。」
ハ「正義を愛し、勇気のある行動ですね。」

役「はい。この点で中山みき様の教えは、社会や体制を変えろと強訴や暴力を使うのではなく、自分自身の素直な改革改善によって身の回りから、周囲の人からより良い世界に変えてしまう、真心に基づく実践で作ってしまう、そうすれば自然と世の中が変わってしまうという『よなおり』と仰っている訳です。
人間一人一人が互い立て合い助け合いの心に目覚めて、その実践によって陽気づくめの世を作り上げていこうという教えですから、全然違う訳です。」
ハ「なるほど、非暴力の改善改革という感じですね。」

五ッ いずれもつきくるならば
六ッ むほんのねえをきらふ

役「皆がそういう気持ちで、そういう心で世の中の建て替えを志せば、行動して行くなら、争いの根も原因も理由も無くなってしまいますよ、と続いています。
元々『むほん』というと下の者が上の者に逆らう、反逆して行動を起こすという事ですが、中山みき様の教えは『一列兄弟世界ろくぢ』ですから上下関係などない訳です。
勿論、当時の日本や世界の有り様は上下関係の厳しい身分社会ですし、現在の自由主義社会においては『基本的人権』こそ平等だとされていますけど、経済格差や血統主義などの格差社会です。
この世の中は月日親神が高低の無いようにご守護下さっているのに、人間の心得違いによって高低があるように勘違いして、高きに上ろう、上の者を引きずり降ろそう、上の者はそうさせまいとして下の者を利用したり叩き潰して自分達の立場を守ろうとする。そして戦いや競争に明け暮れる毎日になる訳です。
こういった事も含めて上下関係のない世の中に建て替えるには、銘々の心を入れ替えて、誰も苦しむ人のいない『互い立て合い助け合いの一列兄弟世界ろくぢ』を実践する世の中にしようという教えが重要な訳です。」
ハ「経済的格差や貧富の差も問題であると?」

役「一下り目の経済システムを考えていけば、その教えを理解し心に修め実践していけば、『講の中』では経済的上下格差や貧富の差も解消されていくのです。」
ハ「あぁ、中山みき様の教えは単独ではなく全て繋がっているのでしたね(笑)」

役「そう、それを忘れてはいけません(笑)。」

七ッ なんじふをすくいあぐれバ
八ッ やまひのねをきらふ

役「そして、中山みき様の教えを実践して行こうと、高低の無い互い立て合い助け合いの世界を目指して生きようと決心した人の行動や言葉は、難儀している人に助かって貰いたい、難渋している人を救い上げようという行いとなって現れてくる訳です。
救い上げるのですから、自分の上や下に置くのではなく、自分と同じ位置・立場に引っ張り上げる事がポイントです。
それが『一列兄弟世界ろくぢ』の実現ですね。人助けをしたから自分にご利益がある、何倍にもなって返ってくるなんて損得計算ではダメなのです。」
ハ「ふうむ、厳しいと言うか損な役回りですね。」

役「そう感じるのも無理はありませんが、それが理想的社会、陽気づくめの世の中の実現の第一歩なのです。
お言葉にも『欲があるならやめてくれ、神のうけとりできんから』とあります。
それに、無理に命令する、やらせようという信仰でもないのです。
本人の心定め次第で着いて来なさい、という教えです。

難渋を救い上げるという教えを『おつとめ』で身に付け、互い立て合い助け合いの理想に向かって自分が生きようと心を定めて実践して行けば、月日親神の心、つまり世界の真理、生命誕生の真実に沿う、合致する生き方考え方で人生を歩む事ができますので、自然に個人個人の心の悩みや体の問題も氷解してしまうし、社会問題や国際問題すらなくなって行くよ、と教えて下さっているのです。」

九ッ こころをさだめゐやうなら
十デ ところのをさまりや

役「その為にも、まずは銘々の心定め、つとめの理を実践して自分の周囲に『互い立て合い助け合いの豊かな講』を目指していくと、『むほん』も『やまい』も無くなり『陽気づくめの講』になる。
そこが『ところのをさまり』であり、教えを受けた者が目指す境地です。
それを最初に実践した、いや、現実には実現できなかったとも言えますが、中山みき様が最初に教えられたのはお屋敷の『かんろだいのぢば』なのですから、そこから取次ぎ人が世界中に、国々所々へ『互い立て合い助け合い』を始めれば、世界中いたるところに『かんろだいの理』が活き活きと芽生え、成長して花開くことになる訳です。」
ハ「なるほど。」

役「先程、ハルアキさんが市民活動的な運動と言ってましたが、形からすると同じですね。

まずは中山みき様が『互い立て合い助け合いの、豊かな、むほんもやまいも無い陽気づくめの世』を創るために心定めをして、具体的な方針や目標を決めた。

それを心に修めて身に付いた現実の教祖様の行動や言葉に触発された人達、いわゆるお弟子さんたちが取次ぎ人となって、次々に心定めと現実の行動に移す事が出来るようになった。

それが広がると、日本中、世界中が『陽気づくめの世』に建て替わる、と考えられます。

もっとも、現実の歴史ではそう簡単には行かなかった。

社会情勢や明治政府の圧力、また、中山みき様の教えを理解できなかった人も多かったかもしれません。

あるいは、理解していながら100%の信仰心ではなく、中山みき様を慕って集まる人を利用し、お金儲けと権力を手にして堕落してしまった人が居た事も覗えます。

世間一般では、そういう人達の方が賢いというか普通なのかもしれませんが、中山みき様の教え、目標や目指すべき先が素晴らしいモノだけに、残念でなりません。」

一下り目

2017年09月05日
役「まず『陽気づくめの世の中』というのが、どんな世の中なのか、どういうシステムや形で運営されている社会なのかを考える必要があります。これを具体的に考えないと、今現在の社会の『何を』『どのように』改善・改革すればいいのかが全く分かりません。というのは、天理教を信仰している人にも『陽気づくめの世の中が別世界のように何処かに存在していて、信仰していればそこに行く事ができる』と漠然と考えている人も多いのです。このような考え方は、中山みき様の教えとは違います。」

ハ「それでは、キリスト教の天国とか仏教の極楽浄土の世界と変わりありませんね。」
役「そうです。中山みき様は『ここがこの世の極楽や』と仰っているのですから、この世界を『極楽に変える事』が信仰の重要なポイントであることは明白です。」

ハ「月次祭でも仰っていた、神様は見ているだけで後は人間達で何とかしなさい、という姿勢ですね?」
役「はい。信仰によって心を建て替え、人間本来の性質や心根を前面に出して、体現して日々の生活を送る人が集まる、増える事で『陽気づくめの世の中』になるという事です。その為の教えが『みかぐらうた』であり『かぐらつとめ』である訳です。」

ハ「なるほど。『みかぐらうた』と『かぐらつとめ』を理解し心に修めた人の言葉や行動は『陽気づくめ世界の建設』に近づく言動になる、変わる、と言えますね。」
役「そうです。では、まず一下り目ですが、これは『人間社会の豊かさ』について教えられています。中山みき様の存命中は、日本全体が特に地方は農業中心の社会ですから、農業に関する用語や内容で教えを説かれています。しかし、ここから『陽気づくめの世界』の『経済システム』を読み取る必要があります。」

一ッ 正月こゑのさずけは やれめずらしい
二に にっこりさづけもろたら やれたのもしや

役「まず、この『みかぐらうた』を教えられたのが正月であったと言われていますし、当時は『数え年』で年齢を計算していましたから、新しい年の正月に年齢を一つ重ねる事になります。その切り替え新しい時旬に、農家にとって重要な『肥のさずけ』を貰う事、『豊かさについての教え』を受ける事は、本当に喜ばしくて珍しいと言えます。」

ハ「さづけを貰えば、にっこりと嬉しくなるし、頼もしくて心配もない、という事ですか?」
役「ただ、この『さづけ』を形のある肥料だとか現実のご利益だと考えると見当はずれになります。あくまで『みかぐらうた』は銘々の心の建て替え、教えを心に修める事なのですから、この『肥のさづけ』を貰ったからといって物が増えたり収穫量が増えるという訳ではありません。逸話の中には、『肥のさづけ』で結果的には収穫量が増えたなんて話がありますが、後付けのいい加減な作り話だと考えた方が良いでしょう。」

ハ「農業は科学的な生産活動ですから、栄養が足らなければ生育や実りが悪くなりますし、害虫や自然現象などで『超常的なご守護が頂ける』なんて、ちょっと考えにくい話ですよね?」
役「はい。信仰をする上で『本当の豊かさとは何だ』という事を説明している訳です。それを知れば楽しくなるし嬉しくなる、と言って、一番重要なお話へと続きます。」

三に さんざいこころをさだめ
四ッ よのなか

役「天理教内には、この『さんざいこころ』を『三才心』と言う解釈も根強いのですが、これは『散財心』でなければ全体の意味が繋がりません。一下り目全体が農業に例えた『経済』の教えなのですから、『三才心』では無理があります。個人的には、意図的に意味を履き違えるように解説されたのではないかと疑っています。」

ハ「意図的に、ですか?」
役「はい。一つは政治的に
『私有財産を否定するような教えは説けなかった』
という点。これは、いわゆる『赤狩り』と言われていた共産主義者の逮捕拘禁の歴史の中で、共産主義と勘違いされるような『散財心』という文言が使えなかったという事。
あとは、『散財心を定め』と言う以上、教える側が散財しなければ教えを伝える事ができなくなります。言行不一致では、いくら教える立場、偉い立場だと言った所で誰も従わなくなりますから。
という事で『三才心』と捻じ曲げたのでしょう。
『お前たちは、三歳児のような純粋な心で教えに従うんだぞ』
という風にすり替えたと考えられます。

でも、中山みき様の教え全体に流れる教理からすれば、人間の心の成人を急いている事は明白なのですから、三歳児の純粋な心が大事だ、という解釈もおかしなモノになってしまうのですよ。
三歳児と言えば、児童心理学などでも自我に目覚め始めるころで、やっと、自分の欲求や本能をコントロール出来るようになる年齢です。この時期の躾が重要であることは事実でしょうが、とても人助けとか他人の苦しみや悲しみを理解出来る程の成人をした人間とは言えません。当時は数え年であった事を考えれば、1~2歳の幼児なのですから。」

ハ「なるほど、それで本当は『散財心を定め』となる訳ですね?」
役「そして、この『散財心』が一下り目の一番のポイントです。世間一般の価値観では、『散財』というと、無駄使いとか、遊び歩いて浪費したとか、見栄を張って奢りまくった、なんて考えているが多いかと思いますが、そういう価値観、考え方ではないのです。」

ハ「良い意味の散財なんて有るんですか?」
役「はい。最近ではあまり使わない言葉かもしれませんが、おもてなしをされたお客さんが『本日は散財をお掛けしまして。』というお礼を言う事があります。この『誰かに喜んで貰う為のおもてなしの心』を考えて貰えれば、理解しやすいかと思います。」

ハ「誰かに喜んでもらう為のおもてなしの心ですか。確かに大切な人や好きな人には、散財しても嬉しくなりますね。」
役「そして『散財』の反対語に『蓄財』があります。貯えるという意味になりますが、今の価値観では貯金であれ物であれ、沢山貯えて仕舞っておく、自分や家族の将来の為に保管しておくのが、豊かだと考える訳です。でも、その価値観や考え方が違うのですよ、と教えてくれている訳です。」

ハ「世間一般というか世界中の価値観と真逆じゃないですか?」
役「そうです。でも、皆が皆、お金でも食べ物でも何でも自分の家や蔵に貯め込んで仕舞って置いたら、全体としてどれだけのお金や物があっても『貧しい世界』だと思いませんか?貯め込むだけで使わなかったら現実の経済だって停滞するだけではなく、現在の日本のようにデフレが進んで貧富の差が拡大する一方です。そうではなく、皆が皆、誰かに喜んで貰う為に使う、お金や食べ物だけでなく、モノも各々の身体も『神様からの借り物』なのですから、そういう風に使わせて貰うと、全体が豊かになって心も晴々とした陽気な世界に近付く訳です。」

ハ「それは、『皆が』というのがポイントですね?一人だけ『散財心』で生活しても、あっという間に無くなってしまいます。」
役「そうですね。だから、同じ気持ち、信仰をする者同士が『講』を作る必要があるのです。皆が同じ気持ちならその講の中では『豊か』になる訳ですね。」

ハ「ううむ、仰ることは分かるのですけど。」
役「『よのなか』は、昔の大和弁で『豊か』という事ですから、皆が散財心を持つと、そこは『豊かな世界』だと教えてくれています。
もう一度言いますが、散財の心を定めたら豊かになるというのは現在世間の常識とは逆なのです。
世間の常識では、散財すれば貧乏になると思っているのです。
でも、今の世の中、皆が皆、蓄財の心を定めている世の中が豊かといえるでしょうか?競争と闘いばかりの、その中で財産や土地を奪い合ったり、騙したり騙されたりしながら、他人を出し抜いたり足を引っ張ったりしながら、互いに争い合って無駄な労力や神経を使って、身も心もすり減っているような世の中だと思いませんか?
そんな事を止めて、散財の心を定めたら、皆が豊かになれるのですよ、と教えてくれているのです。
人間の生活にとって、本当の豊かさとは、自分の抱えたモノの数や量、無意味な価値観で評価された貴重品や高級品によって決まる訳では無いのです。
互い助け合いの心にこそ、豊かな世界と状態があるのです。」

ハ「いや、あの仰ることは分かるのですが、それを実行するとなるとなかなか・・。」
役「そうでしょうね。まぁ、この散財心を定めるとどうなるか、どんな社会が出来るか、もっと思考を深めていきたいのですが、長くなりそうなのでまたの機会にしましょう。先に進めたいと思います。」

五ッ りをふく

役「この『りをふく』を『利をふく(利益や利潤が上がる)』という解釈をする人が居ます。確かに『陽気ぐらし』で『豊か』になるのですからご利益があると考えるのも間違いではないのですけど、この手振りを見ますと『かんろだい』の形を表わしています。そうすると、誰かに利があるという事ではなく、『かんろだいの理』が噴き出て来る、かんろだいの理が広がるという意味だと思われます。」

ハ「なるほど、元々現実的物質的利益や御利益信仰ではないのですから。」

六ッ むしょうにでけまわす

役「これは、何が何でも無制限に、『かんろだいの理』が広がり、陽気ぐらしの世界が広がって実現するという事になります。手振りでも『いさみの手』が周りに広がるという形ですね。そしてそれが、」

七ッ なにかにつくりとるなら
八ッ やまとはほうねんや

役「と、繋がります。農業に例えたお話ですから、稲穂が実る、なびいている様子を表わす手振りをしていますが、『散財心を定め』て『なにかにつくりとるなら』ば『やまとはほうねんや』が一下り目の重要なポイント、みかぐらうた全体でも大事な部分だと思われます。
このように、互い助け合いで何でも生産すればその人達のいる所は皆が豊かになり『豊年満作』の豊かさが確立すると教えられています。」

ハ「ふうむ。若干、精神的豊かさと物質的豊かさが混同している感じがしないでもないですが。」
役「気が付きましたか?(笑)実はそうなのです。この部分については精神的と物質的と厳密に分けて説明させて頂こうと思うのですが、長くなりますので改めてお話ししましょう。」
ハ「分かりました。」

九ッ ここまでついてこい

役「と、手を差し伸べて、皆について来いと招いてお待ちくだされています。
散財心を定めて助け合いに借り物を活かそうという思い、気持ちになって生産活動に励んでくれたなら、」

十ド とりめがさだまりた

役「ということで、陽気ぐらしの豊かな収穫が得られますよ、豊かな心が手に入りますよとお教え下さったのが一下り目の意味だと思います。いずれ詳しく思案を深めたいと思いますので、その際にはご協力ください。」
ハ「分かりました。有難うございます。」