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ハ「忘れてはならない器官って何ですか?」

責「もちろん『心』です。中山みきさんも『身体はかしものかりもの、心一つが我がの理』と仰っています。とはいえ『心』と言っても、現代科学や解剖医学をもってしても、多くの人が考えている『心』に該当する器官はありませんので、『脳の働きや作用』という事になりますけど。」


ハ「なるほど。とはいえ、私は医学も解剖学も分かりませんで、脳の事を言われても学校の授業で習った程度の知識しかないのですけど。」

責「それは私も同じです(笑)。別に難しい話や専門的な事を言うつもりはありません。『心』を『脳』に置き換えて頂ければ結構です。
一言で『脳』と言っても色々な部位や名称があるし、厳密に言えばキリがないのですけど、『心の役割』としての『脳の機能』についての話ですから、『原始的な脳』から人間の持つ『霊長類の脳』への発達について考えたいと思います。」


ハ「『原始的な脳』は、生命活動、心臓の動きや呼吸、代謝などを管理し、恐怖や好き嫌いとか感情を感じる脳でしたか。5億年程まえの水中生物に『脳』と呼べるモノが出来たと教えてもらいましたよ。
その後、地上に出た生物の中でも、哺乳類に『大脳新皮質』が出来て、視覚や聴覚などを感じる『脳』と体をコントロールする『脳』が発達し、地上での素早く活動できるようになったし、大脳も発達して記憶力や感情も豊かになったと聞いています。まぁ、大雑把な話ですけど。」

責「そうですね。そして、更に大脳新皮質が発達し、高度な認知機能や思考力、行動が可能になり、人類が誕生した訳です。ここで一つ大事な事は、人間に限らず、脊椎動物の『脳』は、基本構造が似ているという点です。
そして、動物ごとにその大きさが異なった進化を遂げています。つまり、『脳』の進化は、基本構造が変化するのではなくて新しい機能が付け加わる歴史だった訳です。
この点を『元の理』と照らし合わせると、神が『脳を持つ生物を創って、八千八度生れ変って今の人間になった』というのは、あながちピント外れではないのです。キリスト教等の『天地創造の神がいきなり人間を創った』という話よりも事実に近いかもしれません。」


ハ「でも、元の理では9億99999年前でしたよね?」

責「その数字には幾つか説があって、昔は『万の一つ上の単位』が「億」だったので、今の計算なら99万9999年前だという説。それに、これは正確な数字ではなく大昔の事だという意味で9を沢山並べたという説、そして、今から9~10億年ほど前に当時の単細胞生物が生物と植物へと別れたという科学的な主張もあります。まぁ、『刻限の因縁』に関わる重要なポイントですけど、今はその点は置いておきましょう(笑)。」


ハ「なるほど(笑)。では、その心=脳の働きについてお願いします。」

責「脳の基本構造が変わらずに進化したという事は、人間にも他の動物の脳、魚の脳といった部分が残っている訳です。勿論、どんな生き物でも身体の中の状態や感覚などの情報、そして、身体を動かす部分は必要ですから残っているのは当然ですけど、魚や野生生物のように天敵に襲われたときに感じる恐怖感や感情、本能なども結構同じ状態で残っている訳です。
そして、人間は大脳皮質が発達して、思考や記憶・認知機能などが発達していますから、他の動物の脳との大きな違いは、恐怖心や感情によって体は反応してしまいますけど、どのような行動をとるかを大脳皮質が考え、行動を選択することが出来るわけです。
まぁ、ざっくり言えば、本能を理性がコントロールしている、という事になります。」


ハ「人間の中にも、本能的な部分が強い人や利性が強い人など、様々ですけどね(笑)」

責「それは、これだけ多くの人間がいるのですから、個人差があって当たり前です。もっとも、そういう違いを単純に脳の発達の違いだとは言えませんけど。
性格の違いや価値観の違い、環境や教育などの後天的な違いだと考えられます。
でも、実際に脳の中の状態が影響している場合もある訳です。勿論、事故や病気による脳細胞の損傷や強いストレスや加齢や老いに伴う脳の委縮など、原因は様々ですが。」


ハ「ストレスと老いですか。人間生きていく上でどちらも避けられませんね。」

責「いえいえ、人間も生き物ですから年を経て老いるのは仕方がありません。でも、ストレスは軽減したり、その都度和らげてあげる事で問題を減らすことが出来ます。」


ハ「一般にもストレス解消の方法として、運動や読書、音楽を聴いたり趣味に打ち込んだり、人との会話やカラオケをするとか、色々な方法が知られてきましたね。他にも、呼吸法とかマインドコントロールとか瞑想、座禅とかもあるかな。」

責「マインドコントロールとか瞑想とか良いところに気が付きましたね。まさに、この『かんろだいつとめ』は、そういった効果、いや、一般に知れ渡ってるようなマインドフルネスや瞑想・座禅以上に良い効果があると言えます。もっとも、私自身そういった類のモノを全て修得したり、極めている訳ではありませんから、勝手に比較するのもどうかと思いますけど(笑)。」


ハ「『かんろだいつとめ』がですか?瞑想だの座禅だのっていうのは、大抵、坐って呼吸を整えるものだと。『かんろだいつとめ』は立って踊りながら歌いながらするのですよね?それでそんな効果が有るというのですか?」

責「立って踊って歌いながら、です(笑)。言葉では説明しにくいですけど、瞑想とか座禅とかは、呼吸を整え意識を自分の心の中、奥底へと向かわせるものです。心の中の深い部分、言うなれば潜在意識という事になりますが、これは生命の発祥、有り方、本質そのものだとも言えます。」


ハ「そうすると、『かんろだいつとめ』の最初の7回である元の理である、という事ですか?」

責「そうですね。一般にある瞑想やマインドフルネス、座禅などは、心の奥底に向かってはいますが、そこに何があるかの説明はしきれていません。

でも、中山みきさんは生命発祥の有り様を教え、それが命の根源・本質であることを示し、今現在生きている私達の本質や性質まで教えています。

その意識の世界に10人のつとめ人衆が心を向かわせることで、次の世の中の『ようきづくめの理』に向かう事が出来る事を教えてくれたのだと思います。

だから、実際に一緒に『かんろだいつとめをやりましょう』と言ってるのですよ。瞑想や座禅の事だって、あれこれ言葉で説明したって、実際体験しないと心には何の効果も無いでしょう?『かんろだいつとめ』だって同じですよ。あれこれ言葉で説明したって、頭では理解できても身体や心が感じる事など出来ません。」



ハ「それはそうですが・・・。」

責「とはいえ、申し訳ないのですが、この教会にはまだ『かんろだい』も立っていないし、面もありません。最低でもこの二つが無いと、『かんろだいつとめ』をやったとは言いにくいですねぇ。これが有る無しでは、瞑想的な効果も違うだろうしなぁ。」


ハ「あらら、それは残念です(笑)」

責「でも、ハルアキさんがやりたいと思うなら、実際にかんろだいを立てている所を教えますから体験してみて下さい。もっとも、そこで私が話したような説明をしてくれるかどうかは分かりませんが。」


ハ「そうですか、考えてみます。今日は色々な話をありがとうございました。」


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責「まず、つとめ人衆であり道具となった10の役割と内容を考えて行きましょう。
10の道具は、その方角からしても2つづつの対をなして配置されています。
日と月が南北に、温みと潤いという対極をなす役割を担っています。
うなぎとくろぐつなが東西、飲み食い出入りと引き出しですね。
いざなみといざなぎは、かんろだいの東側でつとめますが本来の場所はかんろだいの上と下から向き合ってつとめる形になります。
また、シャチとカメが対、カレイとフグが対になって働き、それぞれ役割を担っています。」


ハ「月次祭で説明された通りですね?」

責「はい。そして、6つの道具が肉体を形成する各器官や働きに該当するというお話しもさせて頂いたかと思います。
・ 消化器系
・ 循環系
・ 呼吸器系
・ 神経系(免疫系)
・ 骨格
・ 皮膚と筋肉
それぞれ何がどれに当たるのかは説明するまでも無いですね。
これに、遺伝子とも言える男種・女種を足して、温みと水気が肉体を保ち、人間として生きている訳です。」


ハ「以前、責任役員さんから聞いた事ではありますが、150年も前に中山みきさんがそれだけの解剖学的な知識を持っていたかどうかは、やはり疑問を感じるのですが。」

責「この位は解剖学的な知識という程ではないと思いますよ。『五臓六腑』なんて言葉は昔から有りましたしね。
そして、『かんろだいつとめ』のすごい所は、これら人間の各器官がそれぞれの機能、役割を果たしながら『生きる』という目的に向かって一致協力している状態を表現している訳です。その状態が『一手一つ』とも言えますし『互い立て合い助け合い』とも言えます。しかも、誰からも命令された訳でもないし、いやいや働いている訳でもないのですから(笑)。」


ハ「まず、月日親神がそのように人間を創った。
その状態こそが人間として喜び勇み充実した状態・性質を持っている。
そして、その人間が子から孫へと繋がっている訳ですから、今こうして生きている私達も同じ状態や性質を持っている、という訳ですね?
でも、この肉体としては内臓や各器官が働いてくれなくては生きていられないというのは分かりますが、それは当たり前にも思えますが。」

責「そうでしょうね。私もハルアキさんも生まれてこのかた何十年も『体の各器官が互いに助け合いながら生きている』なんてことは意識しなくても生きてこられたのですから、当たり前だと思ってしまっても当然です。今何も問題なく生きている人はそれでも良いんです。でもハルアキさん、私もそうですけど貴方もそれなりの年齢ですよね?」


ハ「そりゃぁ、世間では中年と呼ばれる年齢にはなりましたけど。」

責「内臓機能や身体の節々まで健康で全く問題はありませんか?」


ハ「健康診断では、数年前から肝臓と中性脂肪にちょっと・・・。でも、日常生活に支障はありませんよ。」

責「お酒が原因ですね?暴飲暴食してたのでしょう(笑)。」


ハ「暴飲暴食という程ではありません。仕事や付き合いで飲み過ぎたり食べ過ぎたり、最近は出来るだけ抑えていますから大丈夫です。」

責「身体の各器官がそれぞれ一生懸命働いているのに、その持ち主というか管理人である貴方が飲み過ぎ食べ過ぎで無理をさせてしまった、という事ですね。最初から適量や限度を分かっていれば、そんなことはしなかったはずですよね?」


ハ「そりゃぁ、まあ、分かっていれば、確かに自分で抑えたかもしれません。でも、誰だって年を取ればある程度はある事でしょう?若い頃のような回復力もないし、自分の身体の事ですからイイじゃありませんか。」

責「ハルアキさんを責めている訳ではないのです。
この『かんろだいつとめ』の理を考える上で、自分の身の内、そして、社会や世の中の事を同じように考えて頂きたいのです。
たとえば、ハルアキさんの会社の中で、仕事が沢山ある、大変な案件があるからといって、誰かが無理をしたり辛い思いをしたり苦しい思いをしなければならないとしたら、どうなりますか?会社を人の身体と同じだと考えれば、病気になったり倒れたりするような事になりませんかね?」


ハ「それは、まぁ、そうなりますけど、会社なら代わりの人間がいるかもしれないし・・・。」

責「確かに会社の社員なら、休職したり退職した人間の代わりに新しい人を採用すればいいかもしれません。でも会社全体を一つの身体と考えたらどうなりますか?
人間の身体なら、内臓のどれかが働けなくなったら困りますよね?
命にかかわります。
もっとも、近年は臓器移植の技術が向上していますから、退職した人間の代わりに違う人を採用するように、自分の身体の働けなくなった臓器を誰かから貰って移植すればイイ、となるのは理解できます。
でも、そういう考えが『かんろだいつとめ』の理とは違うのではないかと言いたいのです。
あぁ、一応、医学的な臓器移植を否定するつもりはありません。
それで助かる人が居るなら結構な事だと思います。
もっとも、臓器売買だのが横行するようでは困りますけど。」


ハ「最初から、誰かが病気になったり、心を病むような苦労やストレスを押し付けるような考え方や仕組みがおかしい、という訳ですか。」

責「自分の身体を労わるように、家庭や会社、社会全体などの人間関係や仕事などの仕組みも考えていく、決して甘やかすとか、過保護にしろというつもりはありません。一列兄弟、互い立て合い助け合い、各々の能力を最大限に活かせる関係や組織にすることが、3番目の7回つとめる『ようきづくめの理』ですから、そこを考える必要がある訳です。」


ハ「そうすると、天理教でよく聞くお話に『病は気から』という言葉がありますが、これも『かんろだいつとめの理』で解釈するわけですか?」

責「天理教関係では、心の使い方を間違えると病気になる、あるいは、病気になったのは心の持ちようや考え方が悪いからだ、という解釈をしている場合が多いです。世間一般では『気の持ちようで病気は良くも悪くもなる』という解釈が一般的ですから、かなりズレていますし、使い方を間違えると病人を責めるようなお諭しになってしまうので危険な面があります。」


ハ「あぁ、そういうお話はよく耳にしますね。病人を責めるようなお諭をする人が多いと。で、病気を治して欲しかったら心定めとして多額のお供えをしろ、と続くわけですね?」

責「全くもって困ったお諭しだし、そんな話しかできないような人には中山みきさんの教えだなんて言って欲しくないのですけどね。完全に『拝み祈祷』以下の金儲けのお呪いレベルになってしまいっています。」


ハ「では、それを『かんろだいつとめの理』でお話しするとどうなりますか?」

責「そうですね。確かに病気になった経緯や状況を考えるのに、その病人自身に思案してもらう必要はあります。その思案のポイントは、自分の身の内の使い方、そして、自分の身の外である夫婦関係や家族関係、社会や仕事などの人間関係、両方が『かんろだいつとめの理』に沿っていたかどうかをじっくり思案して頂くことです。」


ハ「自分の身の内の使い方なら自分の責任でしょうが、家族や会社、仕事関係の人間関係となると、病気の原因は『他人のせいだ』という事になってしまいませんか?」

責「そこは半分当たっています。
しかし、家族や会社や仕事などが『かんろだいつとめの理』と違うので病気になったとしても、それを家族や仕事に文句を言っても始まりません。
そういう家族や仕事の人間関係では、相手は『かんろだいつとめの理』を知らないのですから。
それを見直して改めないと意味がありませんので、どうすれば良いかじっくり思案する必要があります。
一番簡単な方法は、相手にも『かんろだいつとめの理』を知ってもらい、皆で一緒に改善や改革に向かって思案を深めて行動する事です。
そういう思いを一緒にする人達と一手一つの心になり、互い立て合い助け合いの精神が広まることで病など霧散するでしょうし、それが相手を助ける事にもなりますし、巡り巡って自分も助かります。」


ハ「なるほど。全ての事を『かんろだいつとめの理』で考えるという訳ですか。」

責「全てというか、自分の身の内、身体の有り様・使い方。そして、自分の周囲の人間関係や家庭・地域社会・会社や社会といったところ、ですかね。この二つを切り離して考えても意味がないのです。『この世は神の身体』ですから、銘々の身体が神の一部であるのと同様、人間同士の繋がりや関係、社会や仕事だって『神の身体』の一部なのです。どれか一つだけ取り出して直したとしても、他を直さない事には『ようきづくめの世』にはなりません。」


ハ「いや、もう、自分に関係するほぼ全てではないですか。」

責「そうですね(笑)。さて、『かんろだいつとめの理』が人間の体全体の各器官の調和と働きを現わしている、その理を社会に活かすことが重要なのだと理解できたら、次は、もう一つ大事な、人間として忘れてはならない器官、働きについて考えましょうか?」

ハ「忘れてはならない器官?」


責「私は、中山みきさんの教えのほぼ全ては、『かんろだいを囲んだかぐらつとめ』から発生しているのではないかと解釈しています。そう考えると、ほぼ全ての教えや話の内容が、スッキリと繋がって言葉や内容の基準や解釈が出来るようになるのです。」


ハ「これまで責任役員さんは、本部や天理教関係者の話は用語や教えの判断基準がバラバラで話す人の都合や勝手な解釈で使われている、と言ってましたね?」

責「話す人の基準や勝手な解釈で『判断基準』を決められてしまっては、中山みきさんの教えどころか、全てがあやふやになってしまいます。あやふや程度ならまだしも、時として危険な団体とならないとも限らないのですから。」


ハ「オウムなどの例もありますしね。で、この『かんろだいを囲んだおつとめ』をすると、その基準が明確になって誰にでも理解出来る、ということでしょうか?」

責「勿論、かんろだいに向かって何かをお願いしたり、ご利益を願ったり、単なる感謝やお礼の気持ちだけで手踊りをしていてもダメです。先ほど言ったような『神が人間を創った時の思い』を自分の心に納めて、というか、考えながらつとめる必要があります。そうすれば、一列兄弟、互い立て合い助け合い、人を助けて我が身助かる、かしものかりもの、八つの埃、などの教えの基準や内容が全て繋がっていると解ります。ようきぐらしだって、そのつとめの状態が『ようき』なのであって、毎日明るくバカ騒ぎのように酒を飲んで暮らせばいい、なんていう事ではないと分かります。」


ハ「あぁ、責任役員さんは以前から『どういう社会がようきぐらしの世の中なのか?』というお話をされていましたね?天理教関係者や他所の教会や布教師にも質問をしてきたとか?」

責「ちょっと意地悪かもしれませんが、誰一人まともな答えは持っていませんでしたね。誰も苦しむ者の居ない世の中、皆が明るく楽しく暮らせる世の中、誰も病気や老いのない世の中だ、という答えならマシな方で、単に『ようき』という言葉だけで明るい、楽しい、賑やか、なんていう人が殆どでした。」


ハ「いや、何と言うか・・・。で、責任役員さんのお考えは?」

責「もちろん、10人のつとめ人衆がかんろだいを囲んで新たな生命を創り出す様子をつとめるように、銘々がこの理を心に修めて自分の身の内、家族、友人関係、社会において、何事も同じ理で考え、判断し、行動し、人生を歩んで行く、その為に自分の身体も心も使う事が『ようき』だと解釈しています。
それを言葉にすると、『一列兄弟』『互い立て合い助け合い』『人を助けて我が身助かる』『かしものかりもの』『世界ろくぢ』といった中山みきさんが遺された言葉や文字になります。
そして、この理に反する心使いや考え方が『ほこり』という訳ですね。教典などに書かれていたり解説されている『八つの埃』を読むと、まぁ、こういった基準や何を指針に考えればいいかが曖昧なので、話す人の都合の良いように使われてしまって、問題やトラブルになるケースが多いようです。」


ハ「かんろだいつとめと教えの言葉が一致してる、教えそのものであるということですか?」

責「勿論、大事な事は、その教えに沿った心使いをし、自分の身の回りからその教えに沿った状態なのかどうか、内容なのかどうかを考え、もし違う事があるなら直していく、改めていくという行動が必要です。だからこそ、実際にその基礎を体験する為のかんろだいであり、つとめなのです。」


ハ「ううむ。責任役員さんのお話しは分からないではないのですが、そのかんろだいつとめをして、実際にそういう心使いで行動したとして、病気が治ったりするようなご守護があるものなのでしょうか?」

責「これはまた、ハルアキさんにしては即物的と言うか、珍しい質問ですね(笑)。この道は、病気治療や交通安全・家内円満などを願ったり叶えてもらう信仰ではないというお話は、以前からしていたはずですが。」


ハ「それは理解しています。でも、そういう『ようきゆさん』や『病まず弱らず』などの言葉もあるのですから、どんなに理論と言うか教えを理解できたとしても、実際にご利益と言うか『良いこと』が起こらないと意味が無いのではないですか?」

責「ハルアキさんのそういうお気持ちは分かります。実際、世の中の多くの人が『何か』を期待して信仰したり信じたり行動するのは、宗教に限らず当たり前にある事ですから。お供えや貢物を差し出さないと災いを起こすとか祟られるとかいう『祟り神』を信じるよりもマシだと言えなくも無いですが、今すぐ具体的に『こんな良い事があるよ』『こんなご守護があるよ』と見せられるモノでもありません。もう少し『かんろだいつとめ』の意味、『元の理』の中身を掘り下げて、ハルアキさんご自身に『命が続く事の奇跡』を考えて貰いましょうか?」


ハ「命が続く事の奇跡ですか?ん~、今こうして生きているのは当たり前かと思いますが?」

(続く)

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ハ「そういえば、元の理に関しては月次祭での『お話し』のテーマにした事がありましたね?」

責「えぇ、なんと言っても中山みきさんの教えの根幹、基本となる部分です。お話そのものは『神話の世界』ではありますけど、その説いている内容、言わんとする所をキチンと把握しないと、教え全体を理解することも出来ないし、解釈も誤った方向に進んでしまいますから。」


ハ「神話の世界ですか?」

責「科学的にも生物学的にも全く根拠のないお話です。人間の発祥という点についても、どじょうを種にしたなんて話は、いくら明治の頃とはいえ荒唐無稽の作り話としか言えないし、信じられもしないでしょう。だから、その神話の中に含まれる意味や主義主張、それが人間の本質や心の問題に触れる部分をキチンと理解しないと意味はありません。」


ハ「人間の本質や心の問題?」

責「人間の本質、心の問題です。だからこそ、蔵内先生も『人間学として無視できない』と仰られたのではないかと思いますね。
とはいえ、教典に書かれている元の理の文章は、今更ハルアキさんにも説明する必要はないですよね?」


ハ「えぇ、全部覚えている訳ではありませんが、責任役員さんがポイントだと思う部分を説明して頂ければ結構ですよ。」

責「了解しました。まずは、月日両神、親神が泥海の世を見て味気なく思い、人間が陽気に暮らすのを見て共に楽しみたいと思って、人間を創ったという部分です。」


ハ「親神が人間を創ろうと思った理由ですね?だから人間は『陽気に暮らす』義務というか目標があるという事ですね?」

責「そこは勘違いしている人が多いかもしれないのですけど、月日親神がどのような思いや考えで人間を創ったとしても、人間がそれに従う義務も必要もありませんよ。それに、みかぐらうたやおふでさきには、『一列兄弟』という意味の言葉はありますけど『孝行』だの『親に従え』『親の期待に応えろ』などという意味の言葉はありません。」


ハ「え?えぇ?それは・・・、そう・・・なんですか?」

責「人間が陽気ぐらしをしなければならない、陽気ぐらしをするための理由というか根拠は、月日親神が人間の陽気ぐらししている様子を見たいから、ではなく、その後の月日親神の行動というか、人間を創った時の状態、やり様なんですよ。」


ハ「泥海の中に人間の顔をしたウオとミを見つけて呼び寄せたという?」

責「細かい描写はともかくとして、人間が創りだされた時の様子・状態というのが、人間が持つ『本質』だと言えます。人間が本来持っている『性質』とか『潜在意識』とか『魂』という言い方が出来るでしょう。」


ハ「それが蔵内先生も無視できないと感じた部分だということですか?」

責「私はそう思います。まず、ウオとミを呼び寄せ男種・女種にし、6方向からシャチ、フグ、ウナギ、クログツナ、カレイ、カメを呼び寄せ、自らも温みと潤いの働きを示して、人間を創った訳です。10種類の働きが、各々の役割、特徴を活かして、力を合わせて人間を創った訳です。どれ一つ欠けても人間を創ることは出来なかったでしょうし、どれかでも欠けてしまったら、神様の思い描いた人間にはならなかったでしょう。この10種類の道具・性質・役割が各々協力しながら、補い合いながら、言葉で言うならば『互い立て合い助け合い』で人間は創られた、という事です。」


ハ「そのことは、月次祭の時にも責任役員さんがお話ししていましたね?」

責「中山みきさんの教えの根幹だと言えます。最初に創られた人間の本質が『互い立て合い助け合い』なのですから、最初の人間からその子供・孫へと伝わり、現在生きている私達、現代の人間の本質だって、同じ『互い立て合い助け合い』であることは変わらないのです。その本質に沿った考え方や生き方をしてこそ、人間は喜べるし楽しいと思える、生きている事を実感できることになります。」


ハ「本質に沿った考え方、生き方ですか?」

責「はい。その人間創造の様子を立体的に表現したものが、『甘露台を囲んだかぐらつとめ』だというお話もさせて頂いたかと思います。」


ハ「そうでしたね。だから、面を付けた『つとめ人衆』10人の手振りが違うのだと。」

責「そうです。眼うるおい、水のはたらきは、水が天の上り雨となって降り注ぐ手振り、身の内の温みは火が燃え上がる手振り、息吹き分けは風が吹く様子を現した手振り、といった10種類の手振りを合わせて、『一つのかんろだいつとめ』が完成する訳です。それが人間創造の様子であり、人間の本質を意味しています。」


ハ「それを7回、7回、7回、と3度つとめるのでしたね?」

責「最初の7回が『人類創造の様子』、つまり『元の理』です。次の7回がそうして創られた人間が親から子、子から孫へと伝わって、『今こうして生きている様子』、つまり『天然自然の理』です。そして最後の7回で、これから先に未来へと繋いで行く、『世の中や社会に広げていく様子』、つまり『ようきづくめの理』を現している訳です。」


ハ「はい。月次祭を見させて頂いて、また、責任役員さんのお話を聞いて、かんろだいを囲んでする『かぐらつとめ』の意味がよく分かったように感じます。」

責「本当は、見るだけではなく一緒にやって頂きたいのですけどねぇ(笑)。そうすれば、中山みきさんの教えの数々、残された言葉の数々が心に修まりますし、スッキリと理解出来ると思うのですけど。」


ハ「え?かんろだいを囲んでする『かぐらつとめ』の意味というか、意義というのは、その人間創造の様子を実際の眼に見える形に表した、というだけではないのですか?」

責「勿論それが主ですけど、私は、中山みきさんの教えのほぼ全ては、そこから発生しているのではないかと解釈しています。」



(続く)

中山みきの人間学

2018年12月23日
責任役員「ハルアキさん、こんな本を見つけましたよ。」
ハルアキ「本というか、何か冊子のような感じですね。」


責任役員さんから渡された冊子のようなものは、B6の大きさを更に細くした感じで、厚みもそれほどなく本というよりハンドブックといった感じの本だった。


表のタイトルには『泥海古記について 中山みきの人間学 蔵内数太』とある。
表記に若干の違和感があったが質問をしてみた。

2018072


ハ「泥海古記に関するモノですか。教内にも多数の出版物や研究書などがあったと思いますが。」
責「そうですね。教内にも沢山の本はあるでしょうが、この著書の蔵内数太氏は、天理教の人ではありません。」


ハ「そうなんですか?一体どのような人なのでしょう?」
責「蔵内数太氏は、大正から昭和時代の高名な社会学者ですが、論理社会学から教育社会学、文化社会学までと守備範囲が広く、多くの大学の教授を歴任する傍ら、大学卒業から70年に渡って多くの論文や著作を残しています。1988年、ちょうど30年前に亡くなられましたが、現在でも社会学会で高い評価を得ている学者です。」


ハ「なるほど。その高名な社会学者が、どうして『泥海古記について』なんて本を?」
責「裏表紙の発行者と発行所を見てください。」


ハ「発行者ですか、ええと、『天理教大阪教区教学部』となっていますね。発行所は『天理教大阪教区赤心社』、発行は昭和54年5月26日。本部からの出版物や個人の発行ではなく、大阪教区で発行した訳ですか?あれ、検印も定価もないな。」
責「さすがハルアキさん、妙な所に眼が行きますね(笑)。定価が書いてないという事は、非売品なのでしょう。タダで配ったかどうかは分かりませんが、書店では販売しなかったのではないかと想像できますね。」


ハ「ふむ。それで、蔵内数太さんが天理教の『泥海古記について』なんて本を書く事になったのは、どういう経緯なのでしょう?」
責「詳しい経緯は私にも分かりませんが、その本の「はじめに」を読むと、大阪教区に招かれて講演をなさっているようです。教育や文化の中には宗教的な事も含まれますので、先生の幅広い知識の中から講演をして頂いたと思いますが、その中から道友社の『ムック』に『元の理』について寄稿したという経緯があるようです。更には天理教本部でも講演をしたと。勿論、宗教的解釈や教義的なことではなく、一般的な文化的文献、社会学的関心から、蔵内先生の見識をお寄せいただいたと思いますけど、掲載された『ムック』が手元にはないので何とも言えません。」


ハ「なるほど、それらの講演をまとめてこの冊子にした、という感じですかね?」
責「ええ、そうだと思います。その冊子の最後には中山慶一氏も当時の前表統領という肩書で『蔵内数太先生の二回にわたる講演を拝聴した。教外の学者で、蔵内先生ほどまともに「元初まりの話」に取り組まれた方を知らない。』と述べお礼の言葉を寄せています。」


2018071


ハ「なるほど。敬意を表すにしても相当なものですね。」
責「まぁ、私の記憶する限りですが、教内でも、これほどまともに取り組んでいる学者や研究者は見当たらないのではないでしょうか?この冊子を読んだだけでも、その見識の広さと深さ、解釈の柔軟性と適確性を論述できる方はいないように思えますね。」


ハ「いや、まぁ、教内外の学者や学界の様子はともかく、蔵内先生の論述する処はどのような事なのでしょう?」
責「そうですね。その冊子の『はじめに』もありますが、蔵内先生は教外の方なので天理教について立ち入ったお話はできない、一般教養的な内容だとことわった上で、ご自身が興味を持っていた『人間学』という学問について考えていく中で、元の理の内容は無視できないモノであると思ったと述べていらっしゃいます。」


ハ「人間学という学問ですか。蔵内先生ほどの学者が無視できない程の人間学の理論体系や研究テーマになり得る内容を含んでいる、という事でしょうかね。」
責「そう思います。その冊子にも『中山みきの人間学』という副題があります。教内の学者、天理教団関係者なら『中山みき』とは書かないでしょう。蔵内先生は、中山みきが述べた『元始まりの話』が、神が語ったモノではなく、人間中山みきが語った文化社会学的にも、人間学的にも大変興味深く研究に値する内容である、と感じられたのでしょう。」


ハ「なるほど。ではその中身の解説をお願いします。」
責「いや、私ごときが日本を代表するような蔵内先生の講演や論述を解説したり批評するなんて立場ではありませんし、そんな知識もありませんよ。」


ハ「え?それじゃぁ、この冊子のことはこれで終わりですか?それじゃぁ。記事にもできないじゃありませんか。」
責「あぁ、それもそうですね(笑)。では、蔵内先生が立ち入らなかった『天理教について立ち入ったお話』という部分なら、私にもできますし、そちらの知識なら多少あります。つまり、この『元始まりの話』が天理教においてどのような意味を持ち、どのような宗教的な教義に繋がるか、ということになりますが。」


ハ「まぁ、それでこそ責任役員さんですねぇ(笑)。では、早速お願いします。」


(注)

この『泥海古記について 中山みきの人間学』全ページは『アルバム』に納めています。興味のある方はご覧ください。

四下り目

2017年10月03日
役「四下り目は、助け合いを教えるみかぐらうたを心に修める信者の心得を述べていると言えます。

一ッ ひとがなにごといはうとも かみがみているきをしずめ

と、他の人、みかぐらうたの理を理解しない人が何を言った処で気にする必要はない、と教えられています。
『かみがみている』と言っても、天から神様が地上を覗いているとか、白雪姫の母親のような世の中の事を映す鏡で誰かが見ている訳ではないのです。
まぁ、敢えて言うなら『お天道様が見ている』というのと同じような意味だと取れますね。つまり貴方の心に理が修まっていれば『神と共にあるのだから何も間違いがない』と解釈するべきでしょう。」
ハ「なるほど、お天道様も実体のない神様のような認識ですよね。」

二ッ ふたりのこころををさめいよ なにかのこともあらはれる

役「と続くのですが、一ッで他人が何を言っても気にするな、と教えていながら、二ッでは『ふたりのこころををさめなさい』と教えています。
パッと見には矛盾しているように思えますが、みかぐらうた全体の『この世』を表す手振りが『人の行き交う様』を表していることを考えれば、社会の最小単位である『二人』、これは『夫婦』とか『親子』とか『仲間』などとも受け取れますし、どのような大勢になっても、人間関係は『自分と貴方の二人である』とも言えますね。

その二人が同じみかぐらうたの理を理解し心に修めれば、どんな事でも『あらわれる』という訳です。
といっても中山みき様が教えているのは『陽気ぐらしの実現』ですから、人間が空を飛ぶとか、何も食べすに何年間も生きられるなんて摩訶不思議な事や奇跡的な事が起きるわけはありません。
『ふたりの間では陽気ぐらしが実現する』という受け止め方が妥当でしょう。
というのは、実際、陽気ぐらしで実現するのは、具体的なお話は殆ど伝わっていません。せいぜい『やまず、よわらず、定命115歳』という事くらいです。」
ハ「いや、それも凄い事ですよ。本当なんでしょうか?」

役「本当かどうかは、実際にそういう皆が陽気ぐらしできる世界が実現すれば分かることです。少なくとも、『ふたり』で『なにかのこともあらはれる』と教えて下さっているのですから、それを思案する必要がありますね。

つまり、
一ッでは、万人が反対したり批判しても私はこの道が正しいと信じる、一人でも歩んでいくという強い心を持ちなさいと教え、
二ッでは、ただ一人だけでなく夫婦や親子、仲間といった『ふたりのこころ』が揃ってこそ実現する、という事になります。
二人いれば、悟り違いや間違いも修正できますし、二人の人間が同じく考え感じることなら、多くの人にも通じる事だと考えられます。」

三ッ みなみてゐよそばなもの かみのすることなすことを

ハ「ここにも『神のすること』という言葉がありますが、役員さんの解釈なら『神の理を心に修めた人のすること』という事になりますか?月次祭の時のお話でも神様は何もしないししてくれません、と断言していましたね。」

役「そうなりますね。拝み祈祷でも伺い立てる信仰でもない神様ですから。クリスマスにプレゼントを持ってきてくれるサンタクロースはいないし、宇宙怪獣が現れてもウルトラマンが退治してくれるわけではないでしょう。悪い政治家や悪徳商人から庶民を守ってくれる水戸黄門も作り話です。それなのに、人間を助けてくれる神様だけ存在すると考える方がおかしいでしょう(笑)。神の理を心に修めた人が、

四ッ よるひるどんちゃんつとめする そばもやかましうたてかろ

と、中山みき様が教えてくれた『つとめ』をして、今度は『神様の理』を実行に移すわけです。」
ハ「つとめをする事が実行に移すという事なのですか?具体的に人助けをするとか、布教に走るとかは書いてないようですが。」
役「この歌を直訳すれば、『夜昼かまわず賑やかにつとめをする、周囲の者は喧しい、嫌だ(うたて)なぁと思うだろう』となりますが、このままの意味だけでは十分とは言えないでしょう。

これまでもお話してきたように、月日親神の心は『全ての人に陽気に暮らしてもらいたい』ですけど、それを実現するのは人間達であり、その第一歩は銘々の心の建て替えです。
神の理を心に修めた人がつとめをする事で、陽気づくめ世界を実現させる決意し、行動に移す事です。

まずは家族や親戚、友人知人、仕事場や地域社会などで『互い立て合い助け合い、一列兄弟世界ろくぢ』を呼びかけ形を作っていくわけです。その様子が『賑やか』である、盛んであるという事になります。

この『そば』というのは、近くに居る『理解しない人、知ってて無視する人』ということですね。みかぐらうたやおふでさきには、『むらかた』『そばなもの』『むねがわからん(者)』といったような表現が出てきますが、身近に居ながら神の心を理解しない人のことを指しています。
そういった人は、『互立合い助け合い、一列兄弟世界ろくぢ』とは正反対の価値観や考え方で生きている訳です。
自分の命令に皆が従うべきだ、とか、女子供は主人の言う事に従え、とか、俺は偉いのだから楽をしていい、なんて考えですね。

あれ?今の天理教組織の大教会だの本部の人間がやっている事や態度が、全くこれですね(笑)。
まぁ、そういう人にとっては、神様の理で『互立合い助け合い、一列兄弟世界ろくぢ』なんて言葉は、自分の立場や権力を否定されるのですから、煩いし聞きたくもない話だ、となる訳です。」

ハ「なるほど、被包括関係廃止手続きでも、組織に中山みき様の教えを持ち込んではいけないと言った大教会の役員(N岸)がいましたね(笑)。」
役「ハハハッ、あの人からすれば私の話など『やかましうたてかろ』だった訳です(笑)。」

五ッ いつもたすけがせくからに はやくようきになりてこい

ハ「役員さん、この五ッはどう解釈するのでしょう?誰が誰に呼びかけているのか、そして『ようきになりてこい』とはどんな意味なのか、分かりにくいですね。」

役「確かに解釈の分かれる所だと思います。
みかぐらうたは中山みき様が残された『月日親神の言葉』という形を取っていますので、誰が誰にというのは、当然、月日親神が人間にとなります。
そして『皆が陽気ぐらし出来る世界の実現』を望んでいる神様ですから、人間に対して『陽気になって此処に来なさい』と呼びかけている意味ではなさそうです。
どんちゃんつとめをして、月日親神の理を心に修めて行動することで、『はやく陽気世界を実現して欲しい』という願望的呼びかけでしょう。

それに、『陽気』というのも単純に『明るい』『元気』『楽しい』といった感覚で捉えるのも問題があります。勿論、今の日本語で『陽気な~』というとこういう表現が当てはまるのですが、『陰陽二元論』から考えると、意味が違うのです。」

ハ「陰陽二元論というと中国の思想、哲学ですね。相対する物事を陰と陽の二つに分類して、その調和やバランスを考える方法だったかと思いますが。」

役「はい、細かく説明はしませんが、その対立する二つの事象のバランスが取れている状態を『陽気』、バランスが崩れている状態を『陰気』と言います。
たとえば、「暑いと寒い」のバランスが取れて過ごし易い気温になります。この状態が人間にとって『陽気」であり、暑すぎたり寒すぎると『陰気』となります。
挨拶で『今日は陽気が良いですね。』などと言うのは、過しやすくて気持ちのいい天気ですね、という意味でしょう。」

ハ「では、この歌で言われている『ようき』というのは、どのようなバランスが取れている状態なのでしょう。」
役「繰り返しになりますが、みかぐらうたは月日親神の言葉ですからそれを銘々の心に修める必要があります。みかぐらうたの意味を理解し心に修まった状態、スッキリと安定していて穏やかな状態が『陽気』だと考えられます。意味も分からず、モヤモヤして混沌としている状態が『陰気』でしょうね。
これも、月日親神は世界助けを急いでいるのだから、早く理を心に修めて行動・実行に移して欲しい、と呼びかけている言葉だと理解できます。」

六ッ むらかたはやくにたすけたい なれどこころがわからいで

ハ「先ほど話のあった『むらかた』ですね?」
役「はい。現実に人助けをするにも神様が直接手を下すのではないのですから、銘々が取り組むことになります。人の手の届く範囲は、家族、友人、隣近所、職場や地域社会、という事になります。今はネットやSNSが盛んですが、明治の時代にはそのような物はありません。もっとも、ネットを通した人間関係でも『むらかた』と言えば言えるわけですが。」

七ッ なにかよろずのたすけあい むねのうちよりしあんせよ

役「そして、これが四下り目の中心的な教えになりますが、なにかよろずは『何でも全て』、あらゆる事に『助け合いをしなさい』、それが教えを守る者としての役割・つとめなのだから、それをジックリ考えてみて、行動に移しなさい、という事になります。
つまり『助け合いの心』をお互いに持つ事で、二人の間では陽気ぐらしが実現する、という訳です。今の世の中、夫婦であっても、親子であっても、たとえば『親友』と呼べる人だとしても、『何でも助け合いが出来る間柄』というのは、なかなか難しいのではないでしょうか。」

ハ「なるほど、確かにどんな関係の二人でも、そういう人生のパートナーとも言える人を見つけられるか、誰かとそういう関係を築く事が出来るかと言ったら、難しいですね。」

役「そしてそういう二人の関係が出来ると、

八ッ やまひのすっきりねはぬける こころはだんだんいさみくる

悩みや心配事もなく安心して毎日の生活が送れるので身体も健康になりますよ、それどころか、心は毎日が楽しくて『いさんで来る』ばかりだという事です。」

ハ「『病は気から』とも言いますし、心の状態は身体にも影響しますから当然ですね。」
役「更に言えば、これは個人的病気や精神的な問題を言ってるだけでなく、そういう人達が増えれば、社会な問題、差別や貧困、所得格差や社会的待遇の問題、不正や汚職と言った社会的病根と言われるモノまで『根が抜ける』のですよ。」
ハ「あぁ、そういう『神様の理を心に修めた人達』が造る社会、国家ですから、
社会問題や犯罪だって無くなるでしょうね。」

九ッ ここはこのよのごくらくや わしもはやばやまいりたい。
十ド このたびむねのうち すみきりましたがありがたい

役「この『ここ』というのを幾つか解釈が分かれる所ですが、中山みき様のいる『お屋敷』と考えた場合、それは奈良県大和の小さな農村ですから夏は暑く冬の冷え込みは厳しい、当時は自然は豊かでしょうが、農業以外の産業も無い、食べ物だって山海の珍味が手に入るとか、食べられるという訳でもない。現代なら過疎村と言っても差し支えないような寒村だった訳です。それでも、そこに月日親神の想いを伝える中山みき様の教えによって、『互い立て合い助け合い』を理解した人が集まり、実際に『たすけあい』の精神を日々の生活で行動に移す事で『ごくらく』になる訳です。現実に中山みき様が存命中にそのような『ごくらく』には至っていないと思われますので、誰でも何処でも『ごくらく』を作り出す事が出来るし、誰だって行きたいと考えているだろう、というお歌です。」

ハ「なるほど。
先ずは、強い決意。
次に、二人の心を治める事。
そして、どんちゃんつとめをして、賑やかに助け合いを実現する事。
それが『極楽』だという訳ですか。」

役「はい。色々付け加える部分や言葉もありますが、四下り目の骨子はそうなります。教えを守る信者の心得、忘れてはならない、というより、行動して実現しなければならない『極楽を実現する事』です。それは、死後の世界に行けるとか、お祈りしていれば神様が連れて行ってくれるとか、天からカンロが降って来て、それを食べたら世の中がコロッと変わるとか、そんなお話では無いのです。」

六ッ むりなねがひはしてくれな ひとすぢごころになりてこい
七ッ なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする

役「とはいえ、人がその置かれている環境や状況を今すぐ全く違うモノにする事は出来ません。
でも、その置かれている環境の中で、自分の値打ち、その価値を十分理解して、
『互い立て合い助け合い』
に目覚めて行動するなら、生きる目標や行動の指針を
『一列兄弟世界ろくぢ』
を目指して行くなら、その時から誰でも陽気づくめの世の中、勇んだ心とやり甲斐のある働きが出来るのだよ、と教えてくれているのです。」

ハ「ええと、例えば、子供が『〇〇ちゃんの家の子供に生まれてくれば良かったのに』なんて言う事は『無理な願い』でやめてくれ、というような事ですか?」

役「そうですね。まあ、子供の言う事なら仕方がないと思いますけど、大人になったら、成人したらそのような事ばかり言っていたら笑われてしまいますし、そんな事が実現する訳が無いのは誰でも理解しているでしょう。

そんな無理な願いをするより、月日親神の気持ちに沿った『ひとすじごころ』で毎日を歩む事が大事なのだよ、という事です。
ひたすら『ご守護を下さい、結構な状態にして下さい』などと月日親神を自分の欲や願望に従わせるのではなく、神様に合せて自分の心を切り替えていく事が『ひとすじごころ』です。
陽気ぐらしをするように産み育てられてきた人間が、
『互い立て合い助け合い』
をして陽気づくめの世界を味わって欲しいとういう神様の想いに沿う事です。」

八ッ やむほどつらいことハない わしもこれからひのきしん

役「と言われているのは、『やむ』というのが個人的な病気や身上だと受け取ると、全体がおかしな事になってしまいます。

人間の身体もこの世の物や動植物に至るまで、全てが月日親神が創ってくれた『借り物』なのですから、これが『互い立て合い助け合い』で十分に働いている状態、それぞれが、他の何かの為に役に立っている状態が『いさむ』であり、その逆、争いや倒し合い、傷つけ合う状態を『いずむ』と言っている事が理解出来れば、この『やむ』というのが決して一個人の病気や身上の事を言っているのではないと分かります。

自分が月日親神の心である『互い立て合い助け合い』に生きていない、違う方向に向かっていれば喜べないという事を心に修めて、日々の行動が神に沿った方向に向かっている『ひのきしん』に励んでほしい、と諭されています。

人は、真実を知る前には誰かからの命令や世の中の常識などに従って生きて居られる、生活できるのですが、それに疑問を感じたり、真実とは違うという事が分かってしまうと、その環境の中では喜ぶことも出来ないし、勇んで毎日を過ごすことも出来ません。

それこそ、ストレスと精神的苦悶の中で毎日を送ることになりますので、心だけでなく肉体的にも血圧だとか胃腸の状態だとかに影響が出て、本当の病気や身上になって現れてくる訳です。
さらには、そんな環境社会そのものも、歪みと矛盾が大きくなって、社会全体が『やんで』しまう事になります。 

過去の日本の歴史、明治政府の国家神道が戦争への道へと繋がった事、西欧列強がアジア・アフリカ諸国を植民地にして原住民から富や土地を奪い、奴隷制度の下に虐げていた事、それらの結果が二度の世界大戦へと結びついたと言えるのではないでしょうか。

勿論、今現在もその流れは続いています。日本は戦争に直接参加はしていませんが、紛争や国家間の戦争は絶え間なく起こっていますし、今でも国内紛争が解決していない国や地域が沢山あります。
石油利権や富を奪い合う為に、中東では血と火薬の臭いが消え去る暇が無いくらいです。世の中や社会に影響力を持つ人、立場や資産を抱えている人達の『月日親神の想いと反する心』がこのような世界的なやまいを引き起こしていると言えるのではないでしょうか。」

ハ「いや、まぁ、そこまで大きなお話になってしまうと何とも言えませんけど、まずは自分の身の回り、銘々の生活や関わりのある社会の改革改善から始めよう、という所ですね。」
役「そうですね。」

九ッ ここまでしんじんしたけれど もとのかみとハしらなんだ
十ド このたびあらはれた じつのかみにはそうゐない

役「人間を拵えた時から、陽気づくめの世にしたい、そうあって欲しいと思っていた月日親神ですから、元拵えた神様、真実の神様であることに間違いはない、それを理解して、その月日親神の想いを心の社として、働くことが私達の信仰です。

かりにも、助けとか救いという事を考える宗教なのですから、現世の苦しみや多くの人の難義のとなる原因、世俗や社会を支配している、動かしている権力や政治体制なども是正していかなければなりませんし、その方向性や政策の先の事も見極める必要があります。
また、権力からの保護や開放も考えなければなりません。そこには、世俗の政治や権力より強い意志を持つ神や仏の存在が必要になってくる訳です。多くの人の全ての人の幸福と繁栄を考えたら、一部の人や特殊な団体などの横暴や我がまま等は許してはいけない事なのです。

日本の歴史から学ぶべきことは、権力者の祖先を神として祀った日本の国家神道は否定されるべきモノであり、徳川幕府の為の思想統制と民衆教育機関になり下がった寺社仏閣は世界助けや人民の救済など全くできない単なる権力者の下請け出先機関になってしまったと言えるでしょう。
ただひたすら、自分達の教団・組織の安泰を図り、その維持運営の為に権力者を正当化して民衆を圧迫支配するような宗教には何ら存在価値は無いのではないかとすら思えます。
そんな宗教が衰退するのは、時代の流れともいえる事でしょう。
厳しい言い方をすれば、中山みき様の教えに背いて、応法の道を説き復元されない教団の存在価値、そしてその命運も、全体から見れば明らかだと言えるでしょう。」

ハ「なるほど、分かります。」
役「私達は、中山みき様の教えを繋ごうと考えるなら、『元の神とは知らなんだ』『実の神には相違ない』という、いかなる権力者よりも、いかなる力を持った人達よりも尊い月日親神の存在に目覚め、信仰の原典にしなければならない訳です。」

役「『三下り目』ですが、まず終戦までは歌うことも文字を見ることも出来なかった、禁止されていた内容だという事を考える必要があります。
何が問題かというと、最初のうたと9番目と10番目でしょうか。

『よのもと』と『元の神、実の神』という文言が使われており、終戦までの天皇を現人神としてその祖先を国家最高の神とする国家神道に真っ向から対立する内容です。

こういう教えが中山みき様のご苦労18回に及ぶ逮捕拘禁、拷問に繋がる内容なのですから、我が身を守りたい、繁栄を願う人間思案で作られた天理教会からすれば、表に出せなかった歴史だった訳です。」

ハ「明治政府の国家神道の方針を考えなければいけない訳ですね?」

一つ ひのもとしょやしきの つとめのばしょはよのもとや

役「はい。この最初のうたにも『世の元』という言葉があります。国家神道では、日本の国を産み出したのは『イザナミ・イザナギ』が雲の上から海を掻き回して造り、その子孫が天皇であると教えているのですから、どこか別の場所が『世の元』では辻褄が合わなくなります。それで、三下り目が削除されたのでしょう。
ただ中山みき様の言う『世の元』というのが、神話や伝承に出てくるような『人類創造の最初の場所』と捉えると解釈が逸れてしまいます。

『つとめのばしょ』は『よのもと』と仰っているのですから、このつとめ場所から世界を建て替える、『互い立て合い助け合いの精神』で世の中を『誰も苦しむ者の居ない陽気くらし世界』に改革していく『最初の場所である』と解釈しなければいけません。

もっとも、これも国家神道からすれば、その方針とは真逆のモノですから、表には出せない内容だといえます。」

二ッ ふしぎなつとめばしょハ たれにたのみはかけねども

役「月日親神は、一人も残さず助けたい、皆全ての人間に陽気ぐらししてくれ、という想いで人間を産み出し、世界を創りあげて守護し続けているのですから、多くの人がこれまで信じていた神様とは全く違うモノなのです。

それまでの神様は、権力者や支配者を象徴するような強大な力や権力を持っており、人間はひたすらお供え物を捧げ、命を掛けて働き、ひれ伏して慈悲を乞うような神様です。それでも気に食わない時は怒りを爆発させ、災害を起こし、多くの人命を奪い、更なる要求を人間に突き付けて忠誠や服従を誓わせるのです。

この違いを理解できれば、月日親神に
『もっとご守護下さい。病や難渋を無くして下さい。』
等とお願いするのは見当違いだと分かります。」

ハ「なるほど、拝み祈祷で行くでなし、の意味ですね。」

役「はい。後は、陽気ぐらしするのもしないのも、人間自身にかかっているという事です。

いうなれば、人間の陽気ぐらしの準備万端整えてくれたのが月日親神で、陽気ぐらしを味わうのが人間だという事です。
月日親神は人間に陽気ぐらしをして欲しいと願っているのに、人間同士が互いに助け合って協力したら陽気ぐらしが出来るのに、それを争いばかり起こして陽気ぐらしから遠ざかってしまっているのが人間の『埃』だと教えてくれているのです。

だから、『よのもと』である『つとめばしょ』で神様の気持ちを理解し、心に修めて『互い立て合い助け合い』に目覚めて勇んで陽気ぐらしに向かって貰いたいという切なる願いでもある訳です。

とはいえ、いくら月日親神の願いとはいえ、月日親神は、誰かに頼んだり救世主として誰かを遣わしたりという事はしないと明言されています。
これは、我々の立場で言えば、漫画や映画などに登場する救世主とかヒーローのような人に頼らない、アテにしない、頼ってはいけないという、信仰を続けるうえでの姿勢も戒めていると考えられます。それは、」

三ッ みなせかいがよりあうて でけたちきたるがこれふしぎ

役「というお歌に続くところから理解出来るでしょう。
中山みき様の言う「せかい」「このよ」とはお手振りにもあるように「人が行き交う社会、人間同士の関係」を表わしているわけです。
これは、誰か強い人、英雄や役割を持った人が、その他大勢を率いて戦争に勝ったとか、国を創ったなんて歴史が当たり前ですけど、この『陽気づくめの世』『つとめ場所の理』は、自然と人々が寄り合って出来て来るものだよ、という事です。」

ハ「なるほど、確かに歴史上の出来事や事件では、誰か中心となる人物が登場しますが、そういう人物が居ない、教祖様の教えを理解した人が自然と集まって出来て来る、実現するとしたら本当に『これふしぎ』と言えますね。」

役「月日親神が直接命令する訳でもない、誰かに頼んで大勢を導く訳でもない、
『互い立て合い助け合い、一列兄弟世界ろくぢ』
を理解して、その素晴らしさを目標に生活しよう、日々の行動を変えて行こうという人達が自然と集まって出来る世界、それこそが月日親神のいう『ふしぎなふしん』でもある訳です。」

ハ「あれ、ちょっと待ってください。それでは『教祖様』の存在というか役割というのはどうなってしまうのでしょう?
『教祖様』は英雄とかヒーローとは意味が異なるでしょうが、特別な存在だと思えるのですが。」

役「中山みき様は、その『互い立て合い助け合い、一列兄弟世界ろくぢ』を実行した、実践した最初の一人だという事です。

最初の一人であり、それを多くの人に伝えたという、それ以上でもそれ以下でもない『存在』です。

それまで誰も考えた事もない、いや、『平等の社会』だの『皆が幸せに暮らせる世界』なんて事を多少は空想したり考えていた人が居るかもしれません。

マルクスの『資本論』なんて、机上で理論を構築し、本に残した訳です。でも自分の人生を使って実行しよう、実践しようなんて人は居なかった。

敢えて言うなら、イエス=キリストやブッダは考えた事、悟った事を人々に伝え、実践しようとした様子が伺えますが、でも、それらはどう見ても世捨て人に近い感じがします。

でも、中山みき様はそれを実行した訳です。

人生の後半50年をその為に使い切った訳です。

だからこそ『ひながた』でありその道を辿ることが我々、教祖様を慕う者が歩むべき道であると思います。」

ハ「確かにそうですね。それだけに役員さんが言う『教祖伝や逸話編、教祖様のお話などに歪みや嘘があってはいけない、嘘偽りのない教祖様の言葉や行動、生活ぶりなどを伝えなければならない。』という訳ですね。本席の『おさしづ』にも言われていた事ですね。」

四ッ ようようここまでついてきた じつのたすけはこれからや

役「ここで考える必要があるのは、『じつのたすけ』という言葉です。

色々伝わっている教組様周辺の状況を考えますと、この『みかぐらうた』を教えられる以前に、後に本席になられる飯降伊蔵さん夫妻が入信しています。
教組様の周りに信者らしい人、教えを理解した人が寄り集い、それなりの人数になった。でも、当時のお屋敷、教祖様のいらっしゃった場所は『綿蔵』という物置を整理したような場所で、広さも無く大勢の人が座ってお話を聞く事が出来るようなスペースもない。
毎日、綿蔵から人が溢れ、天気の悪い日などは風雨を避ける事すら出来なかったのではないかと想像されます。
そこで集まった人の間から、教祖様のお話をユックリ聞く事が出来る場所、『つとめ場所』のお話が持ち上がった訳です。
神様のお話ですから『お社なり建てさせて頂きたいと思います』という提案に対して教祖は
『社はいらん、小さいモノでも建てかけ』
との言葉です。続いて
『継ぎ足しは心次第』
と言うのですから、これは、現実の建物の事を言いたかったわけではなく、銘々の心の建て替えが先であり、その結果として皆が寄り合う場所、お話や教えを聞く事が出来る場所を心次第で建てればイイ、という出来事だと解釈できます。」

ハ「中山みき様のお話し、教えによって救われた、助けられた、『互い立て合い助け合い、一列兄弟世界ろくぢ』を心に修めて日々の生活を歩む事が素晴らしい事なのだと理解できた人が、これから銘々の周囲の人にその事を伝えていく、周囲の人を助けて行くのが『じつのたすけ』だと仰ってる訳ですか?」

役「そうです。すると、」

五ッ いつもわらはれそしられて めずらしたすけをするほどに

役「という事になってしまうのですね。

難渋を救い、貧困に手を差し伸べ、それでいて自分は何の見返りも求めない。
ただひたすら
『互い立て合い救け合い、一列兄弟世界ろくぢ』
の実現のために行動する訳ですから、知らない人や周囲の人からすれば、
『損ばかりしている、骨折り損のくたびれ儲けみたいなものだ』
という風にしか見えない訳です。
『そんな事ばかりして何が面白いのだろう?何の得があるのだろう?』
と考えるのが世間並、世の中の価値観としては当たり前の事なのです。

今でこそ、多少はボランティアだとか社会貢献という評価や価値観が増えていますが、それにしたって、自分の人生・生活すべてを投げ打って、自分の財産も身体もすべて使って『陽気づくめの世の中』を創るために働くなどという事は、表面的には『立派な人だ、素晴らしい生き方だ』と言われるかもしれませんが、その実、『自分には出来ない。とてもとても無理な話だ。行政や国が取り組むべき事だろう。』という考え方が正直な所だろうと思います。

言い方は悪いかもしれませんが、自分が平均的な生活をしているとして、難渋を救う、人助けをするというのは、平均以下、言うならばマイナスの人達と合わせて生活をするようなモノですから、自分の生活レベルが下がってしまう訳です。

これでは周囲の人から見れば
『何をバカな事をやっているのだ。そんな人達は放って置いて、自分の事をすれば良いのに。』
と笑われそしられてしまうのも当然でしょう。

でも、そういう生活にこそ、真の喜びがあり、それを継続して世界中に広げていく事こそ、月日親神の望む『陽気づくめの世』が建設できる訳です。」

ハ「その平均とマイナスを合わせて計算するというのは、お金の問題とか経済的な事でしょうか?」

役「お金の問題が一番分かり易いですね。何と言っても、世の中のほぼ絶対的な尺度になってますから。でも、決してお金だけではなく、社会的な立場や身分、時間使い方の問題や人の心、気持ち、差別の問題だって忘れてはいけない事だと思います。」

ハ「なるほど。でも、それなら経済的に豊かな人や余裕のある人を計算に入れれば良いのではないでしょうか?」

役「それは、経済的に余裕のある人、お金持ちにお願いして資金援助や貧困者への支援、寄付などを募ることも必要でしょうが、その人達が『どれ程協力してくれる』と思いますか?
いくら『互い立て合い救け合い、一列兄弟世界ろくぢ』が理想世界だと説いたところで、中山みき様のように人生全てを投げ打って人助けの道に入る人がどれ程いるでしょうか?

逆に言えば、社会的弱者だからこそ、マイナスの人だからこそ、中山みき様の教えに興味を持ち、救われたい、豊かな生活をしたい、高低のない世の中にして欲しい、と願うのではないでしょうか。」

ハ「あぁ、なるほど。そうして下の方から平均化して行けば、段々に上の方にも広がって、最後は全てが平均化される、平らになる、という事ですね。」

役「まぁ、簡単な道程ではないし、一朝一夕に出来る事でもありません。でも、その目標というか進むべき道を誤ってはいけないのは当然でしょう。だからこそ、銘々が教えを正確に理解し、心に修める事が大事なのだと思います。」

二下り目

2017年09月07日
役「『二下り目』全体の意味を考えさせて頂くと、世界の普請、理想世界の実現という事になると思います。
まだ見ぬ『陽気づくめの世』の建設ですから、誰もやった事も無ければ実現もしていません。それこそ『ふしぎなふしん』である訳です。
その建設の仕方も、これまで歴史の中で世の中を変えるというと『革命・クーデター・政略・政変』といった武力や血を血で洗う戦いの結果の改革だった訳ですが、そんな血生臭い戦いや殺し合いの結果ではなく、一人一人の心を建て替え、かんろだいつとめによる月日親神の『心』を修めた人が行動する事で実現する『世直り』『世直し』の『ふしぎなふしん』でもある訳です。」

ハ「その手法も出来上がる世界も、歴史上類を見ない『ふしぎ』だという訳ですね?」
役「そうです。そういう『陽気づくめの世』は、前も言いましたが、天国や極楽のようにあの世の世界の話ではなく、また他所に行って一生懸命建設したりする訳でもない。
教えの理を理解し心に修めた人達によってできて来る世界、この世が改革改善されてできる世界だという事です。
一人一人の生活態度や日々の心使いを確立する事で、そういう人達が寄り集まって、銘々の信念と信仰心によってできて来る世界だという事です。
明治維新のように海外からの圧力や、戦後の日本のようにGHQが占領して改革してくれる訳でもない、一生懸命拝んでいれば神様が一人残らず喜ぶ世界を造って下さる訳でもないのです。

おふでさきでは、神様は、すでに人間が互い立て合い助け合いをすれば陽気ぐらし出来るようにご守護をされている、現時点でも教えの理を心に修め、互い立て合い助け合いの精神を心に定め、それで日々を過ごせば陽気な生活をする事ができるのだから、あとは目覚めて社会を陽気づくめの世の中に建て替えてくれと仰っている訳です。

神様に『陽気ぐらしのご守護を頂きたい』と願うのではなく、互い立て合い助け合いの心定めをして日々の行動に移してくれと言っている訳です。」

ハ「やはり、拝み祈祷や伺い立てるのではないのですから、銘々の心定めと行動が大事だという事ですね?」
役「はい、勿論です。
そして重要な事は、一下り目が『経済』のシステムについてでした。二下り目は『政治体制』のお話だという事です。
社会を構成する重要な要因は政治と経済ですから、この2つを改善改革しなければならないという事です。この点を認識しながら解釈を進めていくと、」

とんヾとんと正月をどりはじめハ やれおもしろい

役「という最初の言葉は、一下り目と同様にこの歌がつくられたのが慶応三年の正月だった事と、年の改まった正月を掛けていると考えられます。
あと「をどり」ですが、この歌がつくられた段階では手振りは教えられていません。
教祖伝でも「歌の意味を考えて手振りを付けてみなさい」とお弟子さん達と一緒になされているのですから、将来的に手振りも付けて踊りにしようと思っていらっしゃった事が伺えます。
その意味を踏まえて『理を振るのやで』と仰ったのではないでしょうか。」

ハ「なるほど、中山みき様は教えの先を見据えていたのですね?」
役「はい。互い助け合いの世界のあり方、人間の生き方、陽気づくめの世を言葉で教えられ、その真理を身振りで表し、悟り違いが無いように、また、身に付けやすくする、心に納め易くするという二重の意味が有ったのではないかと悟らせて頂きます。

ですから、みかぐらうたの意味、教えの真理を理解し、心に修める為には、このみかぐらうたの手踊りが『神様に奉納しているご祈祷』などと勘違いされては意味が有りませんし、意味を知らなければ各々の日々の生活に活かす事や表現する事も出来ません。
まして、人に伝えるとか、においをかける事も出来ませんし、取次ぎをさせて貰う事など程遠い話になってしまいます。
意味なんかどうでも構わない、ただ手踊だけ覚えて神床で形だけ行えばいいのだ、等という話では中山みき様には通じない事なのです。」

二ッ ふしぎなふしんかかれバ やれにぎはしや

役「この『ふしん』については、前述のように誰も見た事の無い『陽気づくめの世』を建設する、この世を建て替えるという『ふしぎなふしん』なのですから、現実の建物や館を建築する『ふしん』ではありません。
そういう眼に見える普請なら『ふしぎ』と付ける必要はありませんね。

また昔の事になりますが、教義講習会において二代真柱が
『教祖が普請または神のやかたと仰せ下さったのは、陽気ぐらしの世界の事であって、目に見える建物の事ではない』
と言われています。

明治の『教祖御伝記』にも、
『然れども此神殿の造営は普通の神殿にあらずして実は甘露台の造営を意味するなり。甘露台は教祖御神楽歌に一列すまして甘露台と歌ひたまひしが如く我々人類が済度の恩寵を被り其心清浄となりたるの紀念として建てらるるものにして甘露台一たび建てらるるときは我々人類の霊福と平和とは地上に降るべし。然らば又神殿造営の御予言の甚だ重要なるを知るべきなり。』
と記されています。

中山みき様の仰った『ふしん』とは、全ての人が喜ぶ世界、一列兄弟助け合いの世界を指しているのだという事がハッキリと示されている訳です。」
ハ「なるほど、現実の建物や館の事ではなく、銘々の心と、そこから出現する誰も苦しむ人の居ない『陽気づくめの世』の普請という事ですね。」

役「そういう、皆の喜ぶ世界、苦しむ者の居ない世の中、互い立て合い助け合いの世の中を創るために、自分の心も身体も役に立っているのだ、その為に働いているのだという事が理解できれば、その充足感と満足感は、例え一人で取り組もうとも『にぎわしい』のです。取り掛かっただけでも価値のある事だと教えられているのです。

現実世界では、こういう仕事ばかりではありません。
大きな建築や土木工事でも、出来上がったという満足感や達成感が多少は感じられても、結局は『金づく』の世界だったり、大勢の人の無理や無味乾燥の集まりだったりする訳です。
結果として『儲かった』という場合もあるでしょうが、一下り目で話したように『ほうねん』の状態や取り組みからは程遠い、なんて事が多い訳ですね。
あるいは、心に汚点やシミを残すような仕事や運営をしている状態の仕事も多いので、とても『にぎわしい』なんて気持ちや境遇には届かない事ばかりなのです。

一つの理想を持ち、シッカリとした目的と指針を持った人間は、その方向と行動が生き甲斐になりますし、どのような困難や問題に直面しても、決して挫ける事なく歩み続ける事ができます。
何に向かって生きるかという事が一番重要な事になるのです。

中山みき様も寿命を25年縮めても教えを説き続けました。
一番弟子と言われた中田儀三郎さんも最後のご苦労で警察の迫害を一緒に受け、その為に身体を壊して命を落とす事になりました。
でも、その人生や生き方に悔いも後悔も無かったと思います。
道半ばで命を落としたと言われるかもしれませんが、これから先に続く人達の為に精一杯、神一条の道を歩まれたという満足感が勝っていたのではないかと思うのです。」

三ッ みにつく
四ッ よなほり

役「当然ながら、頭の中で理解できただけでは足らないという事は誰でも知っている事です。
それを各々が自分で心に修め、日々の行動や言葉に『自然に出てくる』ようになって初めて『身に付いた』状態と言える訳です。それが身に付くと、その人の周囲、関係する人の見る目も対応も変わってくる訳です。

中山みき様の、互い立て合い助け合いの世の中にしようという教えを受けた人が充分思案して心を定めると、日々の行動や言葉に出てくるようになる。
身に付いた状態になると、その人の周囲の反応や態度も変わってきます。
そういう考え方、生き方が素晴らしいのだと周囲の人が気が付く訳です。
その人自身も周囲も『にぎわしい』状態になると、自然と世の中が変わってしまう、『世直り』になるのですね。」

ハ「ええと、簡単な話では、世間によくある、子供達に挨拶を励行しようという『あいさつ運動』とか『親切運動』とか『ゴミを拾いましょう』なんていう市民活動的な運動の輪を広げる、という感じでしょうか?」
役「教えの内容や目的、範囲は異なるでしょうが、切っ掛けや始まりは同様のモノだと考えて差し支えありません。
中山みき様の教え全てを即行動に移す事は大変な事ですし、一下り目のように理解されにくい部分も多いのです。
でも、誰かが理解できたこと、納得できたことから始めて実行し、それが周囲に広がっていくというスタイルで結構かと思います。
何と言っても、争いや闘いによって決めたり従わせたりするような教えではないのですから。」

ハ「『よなおり』という言葉ですが、世の中には『よなおし』という言葉もありますよね。確か、江戸の末期に大塩平八郎の乱とかが起きて、後に『世直し大明神』と祀られたとか。」
役「はい。大塩平八郎の乱は、歴史的には中山みき様が立教を宣言される直前の頃だったかと思います。日本全国で冷害による飢饉の為に多くの餓死者が出た時期に、江戸や大阪の商人たちは米を買い占め高値で売り、民衆は益々困窮してしまったのです。貧しい農家は、自分で米を作っていながら全て年貢で取り上げられ、生活に困って娘を売り飛ばしたり雑穀や草の根を食べて飢えを凌いだとか。そんな世の中は間違っている、と檄文を飛ばして立ち上がったのが大塩平八郎だった訳です。」

ハ「なるほど、多くの民衆の為に立ち上がった訳ですけど、幕府や体制に逆らう事から『乱』と呼ばれているのですね。」
役「そう思います。多くの武士は農民や民衆が苦しんでいてもその状態が当たり前だと思っている、或いは、おかしい間違っていると思っても見て見ぬふりをしている、という人ばかりだった訳です。
ただ、大塩平八郎が『どういう世界を造ったらよいか』という事は良く分からなかったのではないかと思われます。
多くの民衆や農家が苦しんでいる、飢えに喘いで餓死してしまう世の中は間違っている、けど、何処をどう変えたら良いのかまでは明確ではないのです。
言い方は悪いかもしれませんが、不満や不平があるから何とかしろと武力蜂起をした、という感じです。
勿論、大塩平八郎自身は武士の立場で体制側の人間ですから、民衆や農民の為に立ち上がった事は立派な事です。」
ハ「正義を愛し、勇気のある行動ですね。」

役「はい。この点で中山みき様の教えは、社会や体制を変えろと強訴や暴力を使うのではなく、自分自身の素直な改革改善によって身の回りから、周囲の人からより良い世界に変えてしまう、真心に基づく実践で作ってしまう、そうすれば自然と世の中が変わってしまうという『よなおり』と仰っている訳です。
人間一人一人が互い立て合い助け合いの心に目覚めて、その実践によって陽気づくめの世を作り上げていこうという教えですから、全然違う訳です。」
ハ「なるほど、非暴力の改善改革という感じですね。」

五ッ いずれもつきくるならば
六ッ むほんのねえをきらふ

役「皆がそういう気持ちで、そういう心で世の中の建て替えを志せば、行動して行くなら、争いの根も原因も理由も無くなってしまいますよ、と続いています。
元々『むほん』というと下の者が上の者に逆らう、反逆して行動を起こすという事ですが、中山みき様の教えは『一列兄弟世界ろくぢ』ですから上下関係などない訳です。
勿論、当時の日本や世界の有り様は上下関係の厳しい身分社会ですし、現在の自由主義社会においては『基本的人権』こそ平等だとされていますけど、経済格差や血統主義などの格差社会です。
この世の中は月日親神が高低の無いようにご守護下さっているのに、人間の心得違いによって高低があるように勘違いして、高きに上ろう、上の者を引きずり降ろそう、上の者はそうさせまいとして下の者を利用したり叩き潰して自分達の立場を守ろうとする。そして戦いや競争に明け暮れる毎日になる訳です。
こういった事も含めて上下関係のない世の中に建て替えるには、銘々の心を入れ替えて、誰も苦しむ人のいない『互い立て合い助け合いの一列兄弟世界ろくぢ』を実践する世の中にしようという教えが重要な訳です。」
ハ「経済的格差や貧富の差も問題であると?」

役「一下り目の経済システムを考えていけば、その教えを理解し心に修め実践していけば、『講の中』では経済的上下格差や貧富の差も解消されていくのです。」
ハ「あぁ、中山みき様の教えは単独ではなく全て繋がっているのでしたね(笑)」

役「そう、それを忘れてはいけません(笑)。」

七ッ なんじふをすくいあぐれバ
八ッ やまひのねをきらふ

役「そして、中山みき様の教えを実践して行こうと、高低の無い互い立て合い助け合いの世界を目指して生きようと決心した人の行動や言葉は、難儀している人に助かって貰いたい、難渋している人を救い上げようという行いとなって現れてくる訳です。
救い上げるのですから、自分の上や下に置くのではなく、自分と同じ位置・立場に引っ張り上げる事がポイントです。
それが『一列兄弟世界ろくぢ』の実現ですね。人助けをしたから自分にご利益がある、何倍にもなって返ってくるなんて損得計算ではダメなのです。」
ハ「ふうむ、厳しいと言うか損な役回りですね。」

役「そう感じるのも無理はありませんが、それが理想的社会、陽気づくめの世の中の実現の第一歩なのです。
お言葉にも『欲があるならやめてくれ、神のうけとりできんから』とあります。
それに、無理に命令する、やらせようという信仰でもないのです。
本人の心定め次第で着いて来なさい、という教えです。

難渋を救い上げるという教えを『おつとめ』で身に付け、互い立て合い助け合いの理想に向かって自分が生きようと心を定めて実践して行けば、月日親神の心、つまり世界の真理、生命誕生の真実に沿う、合致する生き方考え方で人生を歩む事ができますので、自然に個人個人の心の悩みや体の問題も氷解してしまうし、社会問題や国際問題すらなくなって行くよ、と教えて下さっているのです。」

九ッ こころをさだめゐやうなら
十デ ところのをさまりや

役「その為にも、まずは銘々の心定め、つとめの理を実践して自分の周囲に『互い立て合い助け合いの豊かな講』を目指していくと、『むほん』も『やまい』も無くなり『陽気づくめの講』になる。
そこが『ところのをさまり』であり、教えを受けた者が目指す境地です。
それを最初に実践した、いや、現実には実現できなかったとも言えますが、中山みき様が最初に教えられたのはお屋敷の『かんろだいのぢば』なのですから、そこから取次ぎ人が世界中に、国々所々へ『互い立て合い助け合い』を始めれば、世界中いたるところに『かんろだいの理』が活き活きと芽生え、成長して花開くことになる訳です。」
ハ「なるほど。」

役「先程、ハルアキさんが市民活動的な運動と言ってましたが、形からすると同じですね。

まずは中山みき様が『互い立て合い助け合いの、豊かな、むほんもやまいも無い陽気づくめの世』を創るために心定めをして、具体的な方針や目標を決めた。

それを心に修めて身に付いた現実の教祖様の行動や言葉に触発された人達、いわゆるお弟子さんたちが取次ぎ人となって、次々に心定めと現実の行動に移す事が出来るようになった。

それが広がると、日本中、世界中が『陽気づくめの世』に建て替わる、と考えられます。

もっとも、現実の歴史ではそう簡単には行かなかった。

社会情勢や明治政府の圧力、また、中山みき様の教えを理解できなかった人も多かったかもしれません。

あるいは、理解していながら100%の信仰心ではなく、中山みき様を慕って集まる人を利用し、お金儲けと権力を手にして堕落してしまった人が居た事も覗えます。

世間一般では、そういう人達の方が賢いというか普通なのかもしれませんが、中山みき様の教え、目標や目指すべき先が素晴らしいモノだけに、残念でなりません。」

一下り目

2017年09月05日
役「まず『陽気づくめの世の中』というのが、どんな世の中なのか、どういうシステムや形で運営されている社会なのかを考える必要があります。これを具体的に考えないと、今現在の社会の『何を』『どのように』改善・改革すればいいのかが全く分かりません。というのは、天理教を信仰している人にも『陽気づくめの世の中が別世界のように何処かに存在していて、信仰していればそこに行く事ができる』と漠然と考えている人も多いのです。このような考え方は、中山みき様の教えとは違います。」

ハ「それでは、キリスト教の天国とか仏教の極楽浄土の世界と変わりありませんね。」
役「そうです。中山みき様は『ここがこの世の極楽や』と仰っているのですから、この世界を『極楽に変える事』が信仰の重要なポイントであることは明白です。」

ハ「月次祭でも仰っていた、神様は見ているだけで後は人間達で何とかしなさい、という姿勢ですね?」
役「はい。信仰によって心を建て替え、人間本来の性質や心根を前面に出して、体現して日々の生活を送る人が集まる、増える事で『陽気づくめの世の中』になるという事です。その為の教えが『みかぐらうた』であり『かぐらつとめ』である訳です。」

ハ「なるほど。『みかぐらうた』と『かぐらつとめ』を理解し心に修めた人の言葉や行動は『陽気づくめ世界の建設』に近づく言動になる、変わる、と言えますね。」
役「そうです。では、まず一下り目ですが、これは『人間社会の豊かさ』について教えられています。中山みき様の存命中は、日本全体が特に地方は農業中心の社会ですから、農業に関する用語や内容で教えを説かれています。しかし、ここから『陽気づくめの世界』の『経済システム』を読み取る必要があります。」

一ッ 正月こゑのさずけは やれめずらしい
二に にっこりさづけもろたら やれたのもしや

役「まず、この『みかぐらうた』を教えられたのが正月であったと言われていますし、当時は『数え年』で年齢を計算していましたから、新しい年の正月に年齢を一つ重ねる事になります。その切り替え新しい時旬に、農家にとって重要な『肥のさずけ』を貰う事、『豊かさについての教え』を受ける事は、本当に喜ばしくて珍しいと言えます。」

ハ「さづけを貰えば、にっこりと嬉しくなるし、頼もしくて心配もない、という事ですか?」
役「ただ、この『さづけ』を形のある肥料だとか現実のご利益だと考えると見当はずれになります。あくまで『みかぐらうた』は銘々の心の建て替え、教えを心に修める事なのですから、この『肥のさづけ』を貰ったからといって物が増えたり収穫量が増えるという訳ではありません。逸話の中には、『肥のさづけ』で結果的には収穫量が増えたなんて話がありますが、後付けのいい加減な作り話だと考えた方が良いでしょう。」

ハ「農業は科学的な生産活動ですから、栄養が足らなければ生育や実りが悪くなりますし、害虫や自然現象などで『超常的なご守護が頂ける』なんて、ちょっと考えにくい話ですよね?」
役「はい。信仰をする上で『本当の豊かさとは何だ』という事を説明している訳です。それを知れば楽しくなるし嬉しくなる、と言って、一番重要なお話へと続きます。」

三に さんざいこころをさだめ
四ッ よのなか

役「天理教内には、この『さんざいこころ』を『三才心』と言う解釈も根強いのですが、これは『散財心』でなければ全体の意味が繋がりません。一下り目全体が農業に例えた『経済』の教えなのですから、『三才心』では無理があります。個人的には、意図的に意味を履き違えるように解説されたのではないかと疑っています。」

ハ「意図的に、ですか?」
役「はい。一つは政治的に
『私有財産を否定するような教えは説けなかった』
という点。これは、いわゆる『赤狩り』と言われていた共産主義者の逮捕拘禁の歴史の中で、共産主義と勘違いされるような『散財心』という文言が使えなかったという事。
あとは、『散財心を定め』と言う以上、教える側が散財しなければ教えを伝える事ができなくなります。言行不一致では、いくら教える立場、偉い立場だと言った所で誰も従わなくなりますから。
という事で『三才心』と捻じ曲げたのでしょう。
『お前たちは、三歳児のような純粋な心で教えに従うんだぞ』
という風にすり替えたと考えられます。

でも、中山みき様の教え全体に流れる教理からすれば、人間の心の成人を急いている事は明白なのですから、三歳児の純粋な心が大事だ、という解釈もおかしなモノになってしまうのですよ。
三歳児と言えば、児童心理学などでも自我に目覚め始めるころで、やっと、自分の欲求や本能をコントロール出来るようになる年齢です。この時期の躾が重要であることは事実でしょうが、とても人助けとか他人の苦しみや悲しみを理解出来る程の成人をした人間とは言えません。当時は数え年であった事を考えれば、1~2歳の幼児なのですから。」

ハ「なるほど、それで本当は『散財心を定め』となる訳ですね?」
役「そして、この『散財心』が一下り目の一番のポイントです。世間一般の価値観では、『散財』というと、無駄使いとか、遊び歩いて浪費したとか、見栄を張って奢りまくった、なんて考えているが多いかと思いますが、そういう価値観、考え方ではないのです。」

ハ「良い意味の散財なんて有るんですか?」
役「はい。最近ではあまり使わない言葉かもしれませんが、おもてなしをされたお客さんが『本日は散財をお掛けしまして。』というお礼を言う事があります。この『誰かに喜んで貰う為のおもてなしの心』を考えて貰えれば、理解しやすいかと思います。」

ハ「誰かに喜んでもらう為のおもてなしの心ですか。確かに大切な人や好きな人には、散財しても嬉しくなりますね。」
役「そして『散財』の反対語に『蓄財』があります。貯えるという意味になりますが、今の価値観では貯金であれ物であれ、沢山貯えて仕舞っておく、自分や家族の将来の為に保管しておくのが、豊かだと考える訳です。でも、その価値観や考え方が違うのですよ、と教えてくれている訳です。」

ハ「世間一般というか世界中の価値観と真逆じゃないですか?」
役「そうです。でも、皆が皆、お金でも食べ物でも何でも自分の家や蔵に貯め込んで仕舞って置いたら、全体としてどれだけのお金や物があっても『貧しい世界』だと思いませんか?貯め込むだけで使わなかったら現実の経済だって停滞するだけではなく、現在の日本のようにデフレが進んで貧富の差が拡大する一方です。そうではなく、皆が皆、誰かに喜んで貰う為に使う、お金や食べ物だけでなく、モノも各々の身体も『神様からの借り物』なのですから、そういう風に使わせて貰うと、全体が豊かになって心も晴々とした陽気な世界に近付く訳です。」

ハ「それは、『皆が』というのがポイントですね?一人だけ『散財心』で生活しても、あっという間に無くなってしまいます。」
役「そうですね。だから、同じ気持ち、信仰をする者同士が『講』を作る必要があるのです。皆が同じ気持ちならその講の中では『豊か』になる訳ですね。」

ハ「ううむ、仰ることは分かるのですけど。」
役「『よのなか』は、昔の大和弁で『豊か』という事ですから、皆が散財心を持つと、そこは『豊かな世界』だと教えてくれています。
もう一度言いますが、散財の心を定めたら豊かになるというのは現在世間の常識とは逆なのです。
世間の常識では、散財すれば貧乏になると思っているのです。
でも、今の世の中、皆が皆、蓄財の心を定めている世の中が豊かといえるでしょうか?競争と闘いばかりの、その中で財産や土地を奪い合ったり、騙したり騙されたりしながら、他人を出し抜いたり足を引っ張ったりしながら、互いに争い合って無駄な労力や神経を使って、身も心もすり減っているような世の中だと思いませんか?
そんな事を止めて、散財の心を定めたら、皆が豊かになれるのですよ、と教えてくれているのです。
人間の生活にとって、本当の豊かさとは、自分の抱えたモノの数や量、無意味な価値観で評価された貴重品や高級品によって決まる訳では無いのです。
互い助け合いの心にこそ、豊かな世界と状態があるのです。」

ハ「いや、あの仰ることは分かるのですが、それを実行するとなるとなかなか・・。」
役「そうでしょうね。まぁ、この散財心を定めるとどうなるか、どんな社会が出来るか、もっと思考を深めていきたいのですが、長くなりそうなのでまたの機会にしましょう。先に進めたいと思います。」

五ッ りをふく

役「この『りをふく』を『利をふく(利益や利潤が上がる)』という解釈をする人が居ます。確かに『陽気ぐらし』で『豊か』になるのですからご利益があると考えるのも間違いではないのですけど、この手振りを見ますと『かんろだい』の形を表わしています。そうすると、誰かに利があるという事ではなく、『かんろだいの理』が噴き出て来る、かんろだいの理が広がるという意味だと思われます。」

ハ「なるほど、元々現実的物質的利益や御利益信仰ではないのですから。」

六ッ むしょうにでけまわす

役「これは、何が何でも無制限に、『かんろだいの理』が広がり、陽気ぐらしの世界が広がって実現するという事になります。手振りでも『いさみの手』が周りに広がるという形ですね。そしてそれが、」

七ッ なにかにつくりとるなら
八ッ やまとはほうねんや

役「と、繋がります。農業に例えたお話ですから、稲穂が実る、なびいている様子を表わす手振りをしていますが、『散財心を定め』て『なにかにつくりとるなら』ば『やまとはほうねんや』が一下り目の重要なポイント、みかぐらうた全体でも大事な部分だと思われます。
このように、互い助け合いで何でも生産すればその人達のいる所は皆が豊かになり『豊年満作』の豊かさが確立すると教えられています。」

ハ「ふうむ。若干、精神的豊かさと物質的豊かさが混同している感じがしないでもないですが。」
役「気が付きましたか?(笑)実はそうなのです。この部分については精神的と物質的と厳密に分けて説明させて頂こうと思うのですが、長くなりますので改めてお話ししましょう。」
ハ「分かりました。」

九ッ ここまでついてこい

役「と、手を差し伸べて、皆について来いと招いてお待ちくだされています。
散財心を定めて助け合いに借り物を活かそうという思い、気持ちになって生産活動に励んでくれたなら、」

十ド とりめがさだまりた

役「ということで、陽気ぐらしの豊かな収穫が得られますよ、豊かな心が手に入りますよとお教え下さったのが一下り目の意味だと思います。いずれ詳しく思案を深めたいと思いますので、その際にはご協力ください。」
ハ「分かりました。有難うございます。」

12下り解説

2017年01月02日
一下り目 

「救け合い社会の人として最初の心得」を表現しています。正月から、と説き始めているのは、中山みき様が教えてくれたのが現実に年の始めだったとも思えますし、年の初めが「切り替えの刻」であり新たな歳(数え年)の始まりだからだろうと考えるのが自然でしょう。つとめの理を「授けられる事」は「めずらしい(珍しい、愛ずらしい、素晴らしい)」事であり、授けられたら「たのもしい」道を歩むことが出来ると教えて下さっています。そして、最初の教えが「物の豊かさ」を理解する事から始まると諭されています。
 まずは「散財の心を定め」ると世の中に「つとめの理」が吹き出し、世の中が円満に回るようになる。何事にも「つくりとる(生産する)」と、皆が豊かな世の中になる。この境地や価値観の世界まで付いて来なさい、そこは豊かな極楽世界の実現ですよ、と諭されています。

* 「散財心」とは、世間常識的な物欲から離れた財の活用を云うものであり、従って、「散財心を定める」とは、蓄財の執着心を捨て、我が身も財貨も「散財する(分け与え配り歩く)心」になって行動する事になります。そして、何事も「つくりとる(作り取る、造り獲る、生産する)」と「やまとはほうねんや(とても豊かになる、皆が豊かに暮らせる)」いうことを意味します。
何事も生産の為に必要な土地も資源も全ては揃っているし十分に有るのだから、後は人間銘々が「散財の心(一人で貯め込まずに分け合う気持ち、今現在生産をする気持ち)」をもって「作り取る(生産する)」ことで、豊かな世界になる、という教えです。これだけで今現在の価値観から考えるとかけ離れており、一見「共産主義」というイメージを抱かせますが、教組様の立教の段階では「共産主義」という思想や理論が存在していないし、そういった「経済理論」そのものを教祖様が学んだという事実も見当たりません。純粋に「世の中の貧富の差」を嘆き、「貧しさに喘ぐ人を救いたい」というお気持ちから思案を繰り返し、到達した「ふしぎなふしん(世界建設)」であろうと考えられます。この道筋に世の「真の豊かさ」が始まると説いています。まさに字義通りの「有り難い教え」「だめの教え」です。


二下り目

 「豊かな世界に続いて、争いの無い平等思想の心定め」を教えられています。「豊かさの授け」を受けたら次に「踊り」をして、「ふしぎなふしん(世界建設)」に取り掛かれと教えられている訳です。その際「面白い」「賑わしい」のが肝要であるので、この二つの意味から、「踊り(つとめの理を心に修める事)と普請(現実に不思議な世界を建設する事)」こそ道人の肝要な勤めであることが分かります。この二つが「世直し」の始まりであり、皆が集まる事で、無用な争いや謀反が立ち消えることになります。
「なんじゅう(病気・貧困・被差別・心身障害等)」の人を救い上げる事が助けであり、「ふしぎなふしん(世界建設)」に必要な事であり、その実現が社会的病根だけでなく、個人的な病いや問題すらも消し去っているという「人を助けて我が身助かる」事の具現化でもあります。「救いあげる」のだから、自分と同じ高さ(ろっくの地)に置く事であり、誰も上にも下にも置いておかない平等の世の中が出来上がります。争いの種や原因は無く、皆が平穏幸せに暮らせる世の中となる事を教えてくれています。この理を深く悟り、この道に向かう「心定め」するのが道人(みちびと)足る所以の要諦であり、「真の治まり」と諭されています。
お道の信仰は単に教義の読誦ではなく、それをより身体的な踊りで確認しつつ、更に現実的な普請へと押し広げられていることで、非常に行動的な信仰であると言えます。


三下り目

 「つとめの理と現実世界の価値観との違いに戸惑う「ようぼく」に励ましの言葉」を投げかけています。一下り、二下り目で、「散財の心を定めて何かに作り取る」「難渋を救い上げてところの治まり」という心で日々を歩むと、現実世界の価値観の人々からすれば「なんて愚かなのだろう、損ばかりしている」と笑われたり影口を言われたりするでしょう。しかし「ひのもとしょやしきのつとめのばしょ」は、そういった心定めをした人が集まる「ふしぎなふしん(世界建設)」の始まりの場所であるから、何も心配せずに付いて来ればいい、と優しく諭されています。
お道信仰の目標(めどう)は「つとめ」と「つとめの持続」であり、その「つとめの理」を現実世界で実現する「ふしぎなふしん(世界建設)」です。この「ふしぎなふしん(世界建設)」が「実の助け」であり、その実現に向けた「ひとすじこころ」が肝要だとも教えてくれています。現在の世情の「悩み、病い、貧困、差別など」の蔓延する世の中で生きる事は辛い事だから、そういう「難渋」が存在しない極楽世界建設の理が本当の神の姿であり、人間に備わった「心の成人」でもあります。このつとめの理を信じて日々を働きなさい、と諭しています。これが、お道の理論構造であり、単純明快に語られているが万巻の書の教えに勝るとも劣らない教えだと言えます。


四下り目

 「一緒に働く人との心の澄まし方と、練りあいを経て陽気に助け合いに向うべき信仰のあり方」が表現されています。「ふしぎなふしん(世界建設)は一人ではできない。二人の「心を治めること」、「陽気になること」、「助け合うこと」、「心が勇むこと」であることが示唆されています。お道信仰の道中で世間から謗られることもあろうが、夫婦(二人)が心を合わせて陽気にしっかりと日々を歩めば、賑やかなので周囲の者が五月蠅いと思おうが、煩わしいと思おうが、助けの通り道であるから心配するに及ばない訳です。お道信仰を非難する者も含めて「なにかよろづの助けあい 胸のうちより思案せよ」です。人と人とは「助け合い」に向かう事が「人間の本質」であり、それが理解できれば「病の元」は消え失せて心は勇むばかりになります。「ここがこの世の極楽」であり、世の中全てがつとめの理を心に修め、わし(誰で)もふしぎなふしん(世界建設)が実現した世の中になって欲しいという願いが込められています。このことが分かると、心の中がすっきり澄み渡りそれが有り難い、と諭しています。


五下り目

 「ぢばの理、陽気づくめ、匂い掛け、お助け、講の結成」を教えています。「ふしぎなたすけ」は「安産とほうそ」が口開けとなりました。これは「迷信や誤った知識・価値観の排除」が人として陽気づくめの世界を建設するのに必要な事であり、迷信や誤った知識や価値観は心の汚れのようなものだから、これを「つとめの理」で洗い流し、我欲にまみれた心を見直し、陽気な心になり、優しい心で通りなさいと諭されています。「助け一条」になるなら難儀な事は何もない。信仰が深くなれば、国々所々世界中へ助けに行きなさい。そして「講を結ぼやないかいな」と、同じ心定めをした人の集まりである「講の結成」を諭しています。


六下り目

 「正しい信心と講の結成」を諭されています。人の心は新しい考え方や価値観には疑い深く否定的なものです。つとめの理で不思議な助けをする上では、人間の本質は見極めての事で、人の心は鏡に映すように分かっています。つとめの理が人を助ける元であり、かぐら手踊りをして心に修め、「めずらしい助け」をする事で喜べるのが人間の本質です。但し、つとめの理に添ったものでないといけない。いくら信仰しても「心得違い」はやり直しせねばなりません。つとめの理を理解した人が集まれば講を結成せねばならない。いくつもの講を早く見たい。「扇の伺い(つとめの理)」は、不思議な(助け、世界建設)の理です。


七下り目

 「真の種まき、匂い掛け、ひのきしん」についてお歌で表現されています。信仰する心構えや行動、生き甲斐や働き甲斐といった人生の目的を「田地」に例えてお諭し下されています。まずは「一言話し」で、とりあえず声を掛け、僅かでも話を取り次ぐ「匂い掛けひのきしん」が始まりで肝心な事です。しっかり思案したものがあるならば、誰も邪魔できるものではありません。世界中の人は皆田地を欲しがっている。同じ田地なら良い田地の方が良かろう。このお道はそういう最良の田地なのだというお諭しです。無理に誘うのではなく、このことを理解して貰うことが大事です。「屋敷は神の田地やで 蒔いたる種は皆はえる」。この神の田地に種を蒔きなさい。自らが手本となって種を蒔きなさい。その先は実り豊かである、と諭しています。これを福田思想ともいいます。


八下り目

 「本普請に取り掛かれ」が表現されています。「適材適所の世界作り」、「真の治まり難渋助け、適材適所の世を創る」ことの大事さが諭されています。世間から人材を探し出そう。お願いするのやない、同じ心を持つ同志を求めるのや、という事です。世界中の各地から次第に同志が結集するに応じて何事もできる。欲の心を抑え捨て去り、世界たすけの精神を修めるのが肝心です。次に自主性が肝心や。得心したら世界たすけに乗り出そう。急ぐばかりではいけない。思案を練ることが肝心や。何か心が澄んだなら、早く普請に取り掛かれ。取り掛かるに当たって、みんなの心を澄ますことが肝心や。かねてより世間の中へ飛び込み人材の調査をしておけ。そして必要な人材を寄せよう、と諭しています。


九下り目

 「心定めのつとめと布教」が表現されている。いよいよ世間の救済活動に向かう。「一せん二せんで助け行く」。神の心にもたれるなら自由自在が働いて不自由はない。世間は欲にまみれているので神の自由自在が働かない。この理は誰も同じで思案を定めるのが肝心です。この心定めがついてからお助けに向かいなさい。どんな場所でも地域でも、「てんりんおうのつとめ」が大事である。しかし、本当につとめの教義が分かって勤めしているのか心もとない。本当の話を聞きたければ、「早くこもとへ訪ね出よ」、と諭しています。


十下り目

 「心澄みきれ極楽や」が表現されている。人の心というものは簡単に分かるものではないが、その本質を理解して教えているのは、この「つとめの理」が最初です。欲にまみれた価値観が世間一般の常識になっているが、欲は切りない泥水のようなもので、心を澄みきれば極楽のような世界が実現します。時に厳しいことを云うのも「早く助けを急ぐから」であり、致し方ない事です。当り障りのないことばかり云っていては助けができない。個人の病や社会的な病根も、全ては銘々の心から起こる事であり、この理が分からないから「難儀」が起っているのです。今までこのようにはっきりと述べた信仰はないであろうが、このことを深く心に修めるのが肝要である、と諭しています。


十一下り目

 「喜び勇んでひのきしん」が表現されています。ひのきしんとは、つとめの理で教えられている「極楽世界」の建設の為に日々行動する事、働くことです。二人の気持ちを揃えて働く事が「ものだね」であり、大事な事だと教えられています。段々に世界に広まり一緒に働く人が見えて来ます。欲を忘れて二人の気持ちを揃えて働く姿が「だいいちこえ」となり、極楽世界の実現の為の基本となるのです。極楽世界の建設はいついつまでも続くのだから、わし(誰でも)も参加したいと思う。これまでは「つとめの理」を教える場所が無くて残念な事だったが、こうして「つとめ」をすれば誰でも理解し心に修めることが出来るようになります。これからは、その成果や出来栄えを手にすることが出来るので、頼もしいし有り難い事です。安心して「つとめの理」を多くの人と実践して極楽世界の建設に歩んで行って貰いたい、と諭されています。


十二下り目

 「四人の棟梁と共に」が表現されている。世界たすけ、極楽世界の建設を家の普請に例え、4人の棟梁が必要だと諭されています。「よふぼく」「だいく」「とうりょう」「つちもち」などの言葉は、すべて普請に関係する用語です。後に「さづけ」を渡す本席となられた飯降伊蔵(教祖の高弟)が大工の棟梁であったことにも関係があると思われます。事実「みかぐらうた」は飯降伊蔵本席をモデルとして歌われているといっても過言ではないほどです。世界普請の仕切りは大工に任せている。この後の極楽世界の普請に向かうには大工と相談して実現しなさい。寄り集う大工に「匂いかけ」し、良い棟梁を見つけたら寄せて置きなさい。棟梁は4名必要です。この仕組みえしっかり確立されればお道は磐石となります。この極楽世界の建設にはきりはない。困難待ち受ける世界には荒き棟梁が相応しい。その他小細工棟梁、建前棟梁やかんな(仕上りをする棟梁)と必要です。今や大工が揃っています。さぁ、臆することなく極楽世界の普請に取り掛かれ、と諭しています。

 「みかぐらうた」は、教祖様が従来折に触れ事に当って断片的にお口を通して説かれてきた教えを、わかり易くまとまった形に歌い上げており、ここに信仰の要領、目的、道人の在り様、布教の仕方等々が簡潔明瞭に指し示されることになりました。まさに教祖様の「教えの集大成」とも言えるものです。

 それ程重要なモノであり内容でありながら、その文言は平易で理解しやすい言葉で語られており、拍子や調子を取りながら心に修める「うた」の形式をとっています。また、文字だけでは悟り違いや勘違いが生じないとも限らないので、手振り身振りの「お手振り」によって正確かつ易しく理解する事の出来る「教え」になっています。

 「十二下り」を通じて溢れでているものは、親神様のお望み下さる、陽気暮らしの喜びの世界であり、親神にとっての子供(人類)が、「病まず弱らず、定命115歳」の世界を実現するための「心定め」とその道を歩むための「行動原理」であると言えるでしょう。「みかぐらうた」を地歌とする「かんろだい」を囲んで行われる「かぐらつとめ」をする事は、そのつとめ人衆の心は勿論の事、拝聴する者全て誰もが皆区別なく、必ずこの「陽気ぐらし世界建設」の喜びを味わうことができるという、希望と楽しみを与えられるものです。その教えの真理を心に修めた時、親に抱かれているような安らかさを与えられると共に奮い起つ勇気と力をお与え頂くことができる、喜びの「みかぐらうた」です。

教祖が「月日のやしろ」としておなりくだされてより、心一つでどんな中も喜び勇んで暮らすことの出来るひながたの道をお通りくだされること30年にして、そのお心の集大成を纏められたのが慶応3年のことです。
 「月日のやしろ」とおなりくださるや、瞬時も早く、一列の子供に「たすけ一条」の道を教えてやりたいとの切なる「おせき込み」をお待ちくださっているはずの教祖が、30年の歳月を経て初めてこれお教えくださることになったのは一体どうしたことでしょう。その年月は、教組様のお気持ちや考えを伝える術が十分ではなかったからかもしれない。また、その内容があまりにも世間一般の常識や価値観と乖離していた為、少し位話を聞いたり教組様のなさり様を見ても理解できなかったのではないだろうかと想像できます。これは、「みかぐらうた」にも「おふでさき」にも随所に見られる「そばなもの」や「とうじん」や「たすけるこころない」等の表現によっても容易に理解できます。

なお、「みかぐらうた」の掲載について、各下りの最後を「なむてんりんおうのみこと」ではなく「南無転輪王よしよし」としたのは、「みかぐらうた」に「てんりんおうのみこと」という呼称が使われていないので矛盾を感じたため、スッキリした呼称を使わせて頂きました。